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ほろ酔い気味の柴田の、耳元で囁く、呼び捨ての「すみか」に脳が騙されてしまう脆弱な己の意志が、純香は情けなかった。
――惰気を催した純香は布団に横たわったまま、帰っていく柴田の足音を聴いていた。
次の日、雑誌の校正をしていると、柴田がやって来た。
「行こう」
「着替えないと」
「いいよ、それで。カーディガンでも羽織れば」
「も。せっかちなんだから」
――気持ちの焦りからか、柴田は早足だった。……初めて娘に会わせる不安の現れ?純香はそんなふうに考えていた。
「あら、早かがぁね」
近所の主婦に声をかけられた。
「あ、こんにちは」
柴田が挨拶した。主婦はその後ろの、微笑んで会釈をした純香を興味深げに見ていた。
「ただいま!」
玄関を開けると、柴田が中に入った。すると、ぽっちゃりした女の子が廊下を走ってきた。想像と違っていたが、
「美音ちゃん?」
と聞いてみた。
「なぁー、ちがうがぁちゃ」
その返答に、純香はハッとした。一緒に歩いているのを見たと柴田に言った、あの言葉が嘘になってしまう。次の言葉を見つけられずにいると、視野の端に、こっちを向いている柴田の顔があった。戸惑っていると、
「お父さん、おかえりー!」
と、元気いっぱいの女の子が、廊下の奥から走ってきた。……この子が美音か。美音の目が、微笑を浮かべた純香に向いていた。
「帰るがぁちゃ」
女の子がズックを履いた。
「じゃあね」
美音が声をかけると、柴田が戸を閉めた。
「美音、会社の人で、森さんだ」
柴田が紹介した。
「森です。こんにちは」
「……こんにちわ」
対応に苦慮してか、美音はモジモジしていた。
「さあ、上がって」
柴田の誘導で、純香はサンダルを脱いだ。
「お邪魔します」
居間に案内されると、柴田とテーブルを挟んでソファーに座った。美音はソワソワしながら廊下にいた。
「美音、横においで」
美音は走ってくると、柴田の横にちょこんと座った。
「こうやって、時々遊びに来るけど、歓迎するだろ?」
そう柴田が言うと、美音ははにかみながら頷いた。
「よろしくね」
「……うん」
笑顔の純香に返事をした。
「じゃ、一緒にめしでも食べに行くか」
「あ、もし良かったら、私が作りましょうか」
「そう?どっちがいい?森さんの手作りと、外食では」
「……手作り」
美音が恥ずかしそうに答えた。
「じゃ、作るわ。何がいいかな。冷蔵庫見てもいい?」
美音に聞いた。
「うん、いいよ」
美音は腰を上げると、台所に案内した。
「ここ」
と美音が開けた冷蔵庫を純香が覗いた。
「うむ……。野菜もいっぱいあるね。肉もあるし。ごはんは?」
美音を見た。
「ある。これ」
保温になっている炊飯器には、三人分は十分にあった。
「醤油は流しの下?」
「うん。塩とかコショウはここ」
と食器棚の扉を開けた。
「うん、分かった。今から作るから、お父さんと一緒に待ってて」
「うん」
美音は返事をすると、走っていった。純香は献立を考えると、手際よく料理を始めた。
普段着に着替えた柴田がテレビを観ていると、美音がニコニコしながら小走りでやって来た。
「どんな感じだ?」
横に腰掛けた美音に聞いた。
「キレイな人。髪もキレイ」
「それだけじゃないだろ?感じもいいだろ?」
「うん」
「で、どんな感じだ」
「イー感じ」
「だろ?」
「お父さんのカノジョ?」
「彼女はよせよ。恋人ぐらいにしとけ」
「じゃ、コイビト?」
「そんな感じかな」
「お父さん、初めて女の人つれてきたね」
「だって、初めて好きになった人だもん」
「いくつ?」
「女性に歳を聞くのは失礼だぞ」
「だから、お父さんに聞いたがや」
「三十」
「若う見えるね」
「ああ」
「いつからつきおうたが?」
「最近」
「やさかい夜中にいなんだの?」
「あら、知ってたの?」
「のんべーにでも行っとるて思うとった」
「悪い」
「子どもにかくしごとしたらだちかんちゃ」
「……分かった」




