体験版 001 屍に血を零す
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その情景は、あんまりにも字義通りに、暴力的に強引に、屍に血を零すものだった。
しまったと僕は思った。
関わりすぎて、しまったと。
心を動かすものが“芸術”だとして、喜びを湧き起こさせるものばかりを“感動”だと分類しないのであれば、少なくともそこには、人体を腹腔から激烈に震撼させる、“非日常”への処女林があった。
中2ナイフで適当な木の幹へ、磔にされていたアオダイショウが、否応なく眼前に蘇る。
力なく深爪を並べる真っ青な掌が、船酔いで脈動する真っ赤な血だまりに浮かんでいる。
あの轟音の正体は、こいつだったのだ。
いま、他に何を優先して“能動”すべきことがある?
神様に導かれるように仰ぎ見ると、あんなにも天へ向かって、雄々しく、猛々しく、今にも咆哮せんばかりに反り返っていたあいつの、上顎骨が当たり前に失われていた。
ティラノサウルス・レックス・ブラック・ビューティ。
志半ばで夭折の憂き目に遭った、巨頭に恋する人柱――
テニスコートから煤を掃き出すと、二の腕を鳥肌が駆け上がった。
こいつはただの不運な“偶然”で、すべて説明がついてしまう話なのか?
“神の遣い”を汚辱したが為に、人民へ無差別に はね返ってきた “呪い”なのか。
それとも、『どうして幽霊って人間ばかりなの?』という執拗な“葉掘り”が、ついに世界の“過冷却”に触れたのか……?
楼閣を攫いに、再び打ち寄せる漣を予見させて、重々しく“時”が解氷する。
微塵も熱血教師ではない自分さえも例外ではなかった。今ここに集まっていた誰もが、赤の他人であることを願って、囁嚅を焼き払うように、人込みに身内をかき分けた。
紫髪のギャル男。
金髪の冒険団長。
下半分だけ“銅の炎”な黒髪ロングの鬼娘。
そして、キャラデザメガ盛りMAXのピンクちゃん――焼肉探偵、十文字。
ひとまずホッと溜息をつくと、案の定、4オクターブの声域に、背後から肝を抜かれた。
締め上げられるように掴みかかられた、ボリーとかいうチャラチャラしたモラトリアムが、よく似た雰囲気の友人ルノーに同意を求めて、苦しげに目を泳がせる。
一緒に居なかった――。
若々しすぎるカーラさんの、シャープな顔から血の気が引いた。
がむしゃらに床を蹴る赤いヒール。
駆け寄る予定の無いお友達。
この時、同時に色々なことが起こった。
というのも、リアルな現場というものは大概、企画書を機械的に受け取った背広組が、あらかじめ人間を研究しておけばいいんだとは極力気がつきたくない会議室で、煩労して見せるのに丁度いい塩梅の、容疑者改め登場人物で、ぴったりと閉じられているものではないからだ。
あってはならないことかもしれないが、なにぶん ここは現実なので、真犯人が秘匿したい真実なんかは特に、捕捉なんか出来るわけがなかった。
――いや、まあ、そこまでの詳細は逆に、IQに関しては間違いなく平均周辺であるという意味で どこにでもいる男子高校生に、こんな冒頭で語れてしまってはならないのだろうが……。
つまり、重大であるかもしれない事柄の描き残しが――少なからず必ずある。
名前も知らない大勢の人々が、当たり前にこの場所を、短時間のうちに行き来した。
現実はいつだって、崖の上で必ず終わる筋書き以外は叩かれる、暇潰しに最適の憎愛劇の様にはいかない。
哺乳類愛護団体の上級会員、目玉田とかいう男が、魂の抜けきった表情で膝からくずれた。
これも一瞬の出来事だった。
やつれた両頬に手汗を塗りこんで頭髪を鷲掴み、ズレた眼鏡をそのままに、レプティリアンが来た……と歯の根を鳴らす。涙目を見開いたまま、ドラコニアンに殺されると腕を抱く。
ベーグという名のお爺さんは、車椅子で唖然としたまま涙を流していた。
複雑に絡み合った感情が、節くれ立った わななく両手に見てとれた。
というのも、まさしくこの彼こそが、十数年前だか数十年前だかに、この巨大な“レプリカ”を作成した芸術家であったからだ。
何かを述べようとした口が、内へ巻く風に置き去りにされる。
届かない謝罪の代わりに、曲がってしまった“職人の掌”を、熱く熱く擦り合わせる。
想うだけで“代われる”のなら、滅びゆく運命の方を、喜んで引き受けたのかもしれない。
一方、涙腺が不随意に緩む年齢では絶対にありえない、黒スーツの美青年3名は。
ベーグ翁の身辺警護人3名は。
現状を見分する真剣な眼差しに――研ぎ澄まし、張り詰めた神経に――、隠し様のない苛立ちをにじませている……。
「なにするの!? 放しなさい!」
ヒステリックな涙声が、恰幅の良い赤ら顔のヒゲオヤジ――牛飼いのニールさんへ浴びせかけられた。
また崩れてくるかもしれない、危ないから不用意に近づいてはいけないと、彼女を想い遣った結果の“腕ずく”であって欲しいと、低血圧の僕も思った。
「……おれはろくに本なんか読まないし、ドラマで仕入れた知識しかねえけど、こういうことは大体、バカでも常識で考えりゃあわかる」
トラバサミに脚を喰われた窮鼠が空に猫を噛む。
「おれにだって家族があるんだ、娘がいる!」
その娘、ルネは、現在ゼスト・メリトクラシーの胸の中にいた。
「何か細工の痕跡でも隠滅するつもりなのか……?? あんたが犯人だって可能性も、おれたちにとっちゃあゼロじゃない! こういうとき余計なことはしちゃあいかんのだ! 触っちゃいかん! 動くんじゃないッ!!」
「なっ……!? な……ッ!! なんで実の母親の私が、お腹を痛めて産んだ息子を……!?」
「あんな常識もクソもないイカレたドラ息子を、目障りに思わない人間がいてたまるか!!」
「あ゛ッ!?!? な゛……!! イッ……!?!? !?!! あなだっだのね゛……!?」
「あ゛ァッ!?」
貴方がワイトをこんな目に遭わせたんでしょうと、おそらく彼女は声に出した。
いい加減にしろ、余所者が大きな面をしやがってと、爆発した憤懣で平手打ちが飛んだ。
眼鏡が彼方へ。化粧は崩れ、バレッタも外れて、長い髪がボサボサと汗で額に呪いつく。
0カンマ1秒も嘆き悲しまない。
むしろ渡りに船だった。
どういうわけかよく滑るスケートリンクの鉄板を、かき分けてスーツが脂でふくれた。
それでも十二分に巨大な上顎。
「ワイト! しっかりして!? カーワイト!!」
あんまりにも有名すぎる火事場の力。
室内、いや船内とはいえ、白日の下にさらされた遺体を見て、この場に居た誰もが驚きに息をのんだ。
『!!……』
落下物が原因で絶命したのであれば、そんなものがそんなところに突き刺さっているはずがないからだ。
こんな風な光景には、屈強な男性の方が、耐えられなかったりするらしい。
一般的には。
古参と新参。
目の上のたんこぶと、目に入れても痛くない。
胸から引き抜こうと ねじれた腕は、理性からさえも静止されなかったのだけれど――、
直立したまま心持うつむく牛飼いニールの深い彫りに、暗い影が差し込んでいる。
この場所へ一番あとに到着したのは、今では誰よりも鈍足になってしまったこの僕だ。
持ち手にまで徹底して翼を生やした中2ナイフ。
自分だけが目撃していたという事実が、期待される第2の被害者に、僕の心臓を近づけた。
無論、本人なら複数本所持していたっておかしくはないわけだが、大々的な自殺という可能性は、シード権に恵まれている、世間様の顔色を窺わなくてもよい御身分の、2世大先生様が作成した“ミステリ”の中にしか、ありえ様がない気がした。
むしろ拝借する口実で、あの“エゾブルー”は、供養してあげたようなものだった。
しかし――それにしても、乗船する際に、金属探知機で はじかれたはずだが……?
探偵が犯人だという話も、絶対にミステリー小説の中でしか、起こり得ないのであろうか?
…………。
……。