第四章 匍匐漸進 008 春化熱風(仮)
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見渡す限り一面に、パセリを乗り捨てた若鶏の唐揚げが広がっていなくて本当によかった。
「コ……! ォ、ォオ……ッ……!?」
その代わりに彼女の頬が、口から飛び出た汁で汚れる。
《生きる力マン・レモンライム》あるあるを、再認識させられる。
だってベースはライムなんだから。
レモンなライムなんだから。
モノクロな文字で見ればそりゃあ『レモン髪ライム眼』一択だよ? でも塗ってみると違うんだ。結局『ライム髪レモン眼』が一番、《生きる力マン・レモンライム》っぽいんだよね。
じゃないとメリトと被るという、裏事情もないでもないが。
「ま……、守ら……、な、かったのか……?」
フェイクファーが脱ぎ捨てられる。
アロハ柄のホルターネック。
弥が上にも蘇る。
どうしてこんなことをする?
その問いを頭でなぞって解が出た。
握り拳から手袋が消える。
「っ、使用上の注意を、はぁーっ……! よく、読んだ、上で……っ、」
無理矢理に動かした眼球の先で、うさ耳とマントが風に揺れる。
「~~~ッ、用法・用量を! 守らなかったのか!?!?」
見下す目玉は血走っておらず、唯一、その下の隈だけが、副作用でドス穢く病んでいた。
「……おかしいでしょ」
百足を呑み込む蛙を思わせて、瞼がぐうっと閉じられる。
僕は目を見開きながら、心の中でやめろと悶えた。
飛んだ。
ジュンジューライが約束を、守ってみせるに終わりそう。
「てめえだけは最初ッから気に入らなかったんだよ! 気持ち悪いクソ豚の分際で、男の前でにゃんにゃんにゃんにゃん、にゃんついてンじゃねえ! イッライラする! お前のことだよピザ女! 豚! 豚の癖に豚の癖に豚の癖に豚の癖に! ゲロデブの気持ち悪いクソ黒豚の癖にイイイイッ!!」
知りたいと欲した地点から、間違っていたのだろうか。
酸味が電気分解された。
昼空が帰還する。
「わかん……、ないよ……!」
食べ(ら)れそうな《稲光の砕氷船》が、翠色の冷光にギラリとギラつく。
「またそうやって! 毒親の尻を拭い続けて死ぬ社会性昆虫その一みたいな行動をしてっ! 『それならあたしがもらってもいいよね?』www 釣り逃した釣竿を忘れられなくって未練汁がダラダラダラダラ止まらない、ドブくさや女郎のグロホールストレミングをなんて呼べばいいのか、これまでもこれからも永遠に真っ当な普通人にはわっかんねえよ!!」
《難局快刀》がシャークマウスを、表に見えない耳まで裂いた。
噛!
ガン下がりした顔面にグーパン。
何十ものナイトホークを貫いて、フリゲートのシュルクーフでやっと止まる。
「マ……、マニッシュが……、マニッシュが矜持だぜ……みたいな……ッ、頭花畑女嫌いのオトメン男子に媚びっ媚びなクソむかつく目つきして! なんだその常套的な中華娘頭は!? 褒められて一丁前にサカってんじゃねぇぇぇーぞババア! ババアアアアアアアアアアッ!!」
「《銀狐リオンッ!!」
ツインお団子が悪逆無道のツイン三日月へと変形。
セルリアンブルーの狐火が、付け根から燃え盛る。
「少し黙れ声嗄らし春化熱風》!!!!」
悍ましく睨みを利かせた四点の鋒鋩から、摂氏四四〇〇度にも達する黒焔が光速で放射された。
「キィィィヤアアアアアアアアアッ! アアアづヴヴい嫌ァアアアアアアアアアアアアアアアッ!? だずげでえあガガアブグブグゥウグ、グググググ、グググググググ!!!」
口角を引き上げたあとに高笑いするのは、所詮猿上がりの猿だ。
轟音、爆発、炎上、粉塵。
肉食の貉はまだ、早とちりという田舎臭い単語を憎悪して、低く低く、ただ低く唸っていた。
夜鷹であった塵灰が踊る。
改兔も当然、焼き鳥スズメになっていると思われた。
「どう……、して……?」
煉獄の奏でに赫ふ竜の巣を躙くって、ギャルドなイースター・バニーが再び離乳する。
「どうして、そう簡単に!」
マントをはらうその右腕に、果敢に戦う寡黙な父の、背広を執らえた背中が見えた。
「あなたたちはあああああああああああああっ!」
人の理想の鳥の翼が、恋する彼女の体臭を運ぶ、梅雨明けのカーテンのように翻る。
「――百人の方を、選べるのよ!」
キック。
「なにを平然と百人のために、ひとりを斬って捨てられてんだ!? 他人事だからよ! 私は殺せる! 二度と来ないで! 正義なんかに味方して! 身勝手なんだよ! 絶対に殺す! そのあとに殺されたって構うもんか! お前は殺せるんだろうけどな! キァハハ! お前らは! 今から私ををを、ををををををををッ!!」
敗因は皮肉にも、普通人であったことであった。
自分こそが人間だと思い上がるつもりはなくとも、共感を得られない存在の生存を認めることがいくら自殺に他ならなくとも、多様性を受け入れなければ、人は、人間を定義する際に、自分のデータだけしか入力できないのだ。
「えっ」
人間の研究が不充分であった。
攻撃力が高いから、全てのステータスも平均的に化物染みているに違いないと、それにさほど偏りがない自分を基準に分析してしまった。
防御力が犠牲になっているかもしれないなどとは、つゆほども閃かなかった。
「やだ。私……、殺してない……」
黄に重なったマゼンタが、減色法を犯してシアンに変わる。ゆっくりと後悔して涙を流し、短兵急に嘔吐した。ライフポイントが常人離れしている事実まで、強制的に詰め込まれて絶叫する。発砲音が決定打となった。天に弾を散らしたのは、レモン髪ライム眼の冒険団長だった。誰かがどうすると訊ねた。僕の口が進もうと答える。人質よりも多い数の人間が生き残られそうである道の方が、全員殺される可能性が最も濃厚である道よりも、絶対に正しい。
「でもそれはそれ」
今日はここで引き上げることに決めた。ふたりをこの場に放置すれば、生きたままオオトカゲに食われてしまう。海岸に戻ると四時半になっていた。
そして驚きに目を見張る。
我らが母船、接吻丸が消えていた。