第三章 闇髪の注瀉血鬼 03 ケイアス
炊きたてご飯のえも言われぬ甘味が体中を駆け巡る。
「ああああああああああああああああああっ!」
おいしい! おいしすぎるッ! 本当にこれがたった一粒の白米からにじみ出る味なのか!? あんまりにも旨すぎてひとりでに涙があふれた。いてもたってもいられなくなった体が勝手に飛び跳ねる。こんな……! こん……こんなものは劇薬だ! 麻薬だ! 満面の笑みでのた打ち回りながら俺は叫んだ。俺は今攻撃を受けた! これは道楽ではなく苦行です!
「ああああああああああああああああああっ!」
これが噂に聞く酸素、なんて芳醇な味わいなんだ! 醤油かけご飯が舌に触れる。これは……『デリシャス』だ! 気がつくと俺は甲高い声を発しながらタップダンスを踊っていた。かこかこかこかこ、かかっか過去過去、かかか過去過去、かんかか閑古!
各社ごとの味の違いを認識できる自分に優越感を覚えていた記憶が疑わしきものになる。何故だ!? 判らない! 味が濃すぎてどの焼肉のタレも旨いとしか言いようがない! はぁ~あ貧乏舌が羨ましいぜ、俺なんてお前みたいな貧民とは違って舌が優れているから高級食材しか体が受けつけなくってよぉと呟きやがった野郎に、俺は全力で掴みかかった。
そうかご飯一粒から、普通人なら黒毛和牛のステーキを食べることでしか得られない幸せを抽出できるのなら、どんな高級料理にも価値がなくなってしまうんだ。頂点がご飯粒だから、それ以上のものが要らなくなる。それ以上の食べ物を味わうことを目的に死にもの狂いで努力することなんか一切できなくなる。
「ああああああああああああああああああっ!」
価値観がガラガラと崩壊する。今までそれを正しいと信じることでかろうじて正気を保っていられた自分の心と体がグッチャグチャに改変される。
(これは――『殺人』だ……!)
俺は人格を完全否定された激痛に、腹部を引っ掴んで駆け回り、壁を叩いて床を踏みつけ、手当たり次第に物を放り投げ、目に入るもの全てを蹴り飛ばした。何をどれだけ破壊しても自分の体だけは一向に壊れなかった。大勢の人間がやってきて、蔑みの眼差しを矢継ぎ早に寄越した。『この子は化物だ』。
(は? 何言ってんだ? 鏡見ろ)
俺はざわつく胸を押さえたまま外へ飛び出した。嫌な予感しかなかった。なんだこのインフラは? こんなにも密集して。馬鹿じゃねえのか? 囚人かよ。俺たちは自由だったはずだ! よくこんな紙屑みたいな、火をつけただけで燃える家に平気で住んでいられるな!? ええ!? 三匹の子豚の長男坊を笑っていられる立場かよ! 狂ってる、狂ってる、何もかもが狂っている! 俺は地平線を探して疾走しながら、何度も姉と妹の名を呼んだ。
(みんな一体、何を食ってるんだ……?)
みんな一体、何を食っているんだよ!?
箸でつまんだお肉から、家畜の一生が流れ込んできた。ハンマーにびっくりして取り落とし、胃の中身をひっくり返すと、食べ物を粗末にするなと拳骨でしこたま殴られた。君子は庖厨を遠ざく? どこが素晴らしいんだ? 自ら偽善者であることを白状しているだけじゃないか。だから自分で殺して自分で食うのはいいんですぅ~っ! とランドセルを背負ったオッサンが言った。俺にはもう用水路のヘドロにしか見えなかった。だって沈黙は金だろ? 一位以外に意味があんのか?
おい、こんなことって有り得るか!? お日様のにおいが本当に実在していたなんて! 俺はてっきり紙面上にのみ存在する無味乾燥な修辞表現だと思っていたのだ! 太陽光線に焼かれて死んだダニのにおいだなんてことまで知りたくはなかったけれど。
(いや待て。本当にこんな世界にあいつは住んでいるのか?)
何もかもが眩しすぎる。かといって目を閉じても脳内で映像が止まらない。着衣から立ち昇る洗剤の残り香がきつすぎて偏頭痛が治まらない。どれだけ意志の力を総動員しても集中力が高まらない。あらゆる音がいつもの百倍の音量かつ平等の大きさで耳朶を打った。星明かりさえ眩しいと言って、電気をつけずに風呂に入る気持ちが今なら痛いほど解った。人間がいる限り、どこへ行っても甲高い叫び声の降り注ぐホラー映画の世界だった。
(成程。これじゃあ、寂しいと知覚しようがないわ……)
しかし、水と緑の大自然へ近付くと、地獄は一変した。俺は初めて第三番目の色を知った人の気持ちを味わった。なんだこりゃ? 蛍の光ってマジで緑なのかよ! すげー綺麗! 砂糖入りの癒しをくれる青空とは違って、冷たいけれど、甘くない。そんな癒し……。成程、緑のミントがあるのはこのためか! 赤ヤベェかっけえ! ああ、これが『ヒーロー』だ! 今全てが解った! どうしてあんなにおいしそうに食えるのかと思っていたけれど、これじゃあ野菜サラダを好きなやつがいるのも納得だわ……。
え? でもこれって、血とか見たときどうなんの?
怖くねえだろそんなもんとは、もう口が裂けても言えなかった。
見上げた十五夜にまあるい地球さま。白黒の文字が躍動を開始し、モノクロの漫画が全ページフルカラーでしか見えなくなる。
(しかしこれでは本当に、天国を目指し様がないのでは……?)
千里眼とか地獄耳とか、マンガみたいで格好良いじゃん。俺も欲しいー。そんな風に妬んだこともある自分を俺は殺害したくなった。
(やめろ、やめろ、頭が割れる、物理的に頭が割れる!)
好意を得るために興味を示したらオレが凄いからお前に好かれたんだもっと寄越せとあからさまに態度で示し始めた女。そろそろ病人に分類されるだろう悪口を喋り続けなければ死んでしまう男。確かに昔は自分も子どもだったけど子ども嫌いで何が悪いの!? わたし子どもだぁい好き(恋愛より好きとは言ってない)! うるさい! 黙れ! お前が黙れ! 静かにしろよ! アァーッ!
漆黒の夜鷹が白昼堂々闇夜で密かに翻り、全長十五キロメートルもの大王イカが、バチバチバチバチ海に沈んで、嫌われていた銀の雎鳩が死出の山へ急降下。予定通りに地位と名誉を手に入れる。
(そうだ。君が知っているように、これは過去の出来事だ)
急に視界が俺を置いて天高く昇った。初めて高級イヤホンで音を聞いたときの衝撃を飛び越えて、目、耳、鼻、舌、肌で感じられる全ての世界が更に高速で広がってゆく。全世界を知覚できるということは、自分が宇宙になるということだった。眼下には青い地球があった。ついにこのときがやってきた。
(あいつは本当に、こんな牢獄で、十三年以上も耐え続けて来たのかよ!?)
音のない実験施設で人が発狂するのは、耳鳴りではなく、体内で動く臓器が発する音に耐えられなくなるからだという。二百万個もの赤血球が毎秒死んでゆく映像。百三十億ではきかない黴菌が掌を蠢く動画。俺を形成する六十兆個もの細胞ひとつひとつが、死にたくないと泣き叫んで、全身をぞわぞわと這いずりまわる!
「ああああああああああああああああああっ!」
努力次第で完璧な善人になられると思っていた俺も、掃除次第で完全な清潔に到達できると思っていた俺も、圧倒的な真実の前では頭の痛いガキだった。原子の中には宇宙があって、宇宙の中には人がいた。食を耳で味わいたいと主張するクチャラーの顔面を全力でぶん殴った俺が逮捕される。もしこれまでに地上を歩いたことのある人間の総数、六千億人分の経験を脳味噌に刻みつけられるとしたら、人は一体どうなってしまうだろう?
どれだけ想像力がなくとも答えが出る。
「ああああああああああああああああああっ!」
俺の体は物理的に停止した。