第三章 闇髪の注瀉血鬼 02 なまえ
少し考えれば解ることだった。
手首だけを切り落としたり、電圧を数え上げたり、それが上昇するのを待ったりと、そこには明らかに人間としての人間臭い躊躇いがあったのだから。
しかし、どうして? と思わずにはいられない。何億ボルトの雷撃を撃ち込まれようとも、Zアームや減雄タンクトップをボロボロにされようとも、終いには生鮮食品コーナーに並べられたロブスターのように、自慢の鋏を体ごと、天女のブームスラングで縛りあげられようとも、体内にアレを持つ減雄が、生まれたばかりの人型無目敵ごときに、敗北するはずがないのだから。
いや、思わずにはいられなかっただけで、本当は十分すぎるほど解っていた。親父と妹では当然、対応が違ってしまうということも。俺が人間として都合よく、あいつに『メカらしさ』を求めていたということも。
轟音と共に救世主がアスファルトへ激突。爆風が巻き起こって粉塵が舞い、振動が体の芯を揺るがした。俺は目を閉じたまま、煙の奥へ声を投げた。
「死ぬな! お前が死んだら動力炉の疑似太陽が爆発して、日本列島が二時間強で終わるぞ!」
辺りがしんとした。
風が吹いた。
返事はなかった。
(もう、どうしようもないのか……?)
鬼。
吸血鬼。
紫苑の電気をその身に纏い、毒の十字と蛇を操る、ルール違反の吸血鬼。
俺はふたりの手をしっかりと握りしめ、瞑鑼を背に後ずさった。耳に響く喉の唾液が気持ち悪い。そうだ――俺はこんな場面で、より最悪な事実に気がついた。気がつかない方が幸せだったのに。
侵略レベル30未満の蚊型や蜂型を駆除した結果、こんな化物が生まれることになったのなら、安易にこいつを駆除することも、よく考えればできないんだ。人の目には見えない因果が巡って、よりレベルの高い侵略的害雷生物が誕生する未来を招き寄せかねないから。
(やはり、もう、どうしようもない)
「……負けちゃったの?」
俺は何も答えない。
「私たち、死んじゃうの?」
俺は何も答えなかった。
「なまえ」
今度は何も答えられなかった。
「なまえを、おしえて?」
な、なまえ? ああ、名前か。名前、名前……。名前?
「お、俺の名前は――」
「ふふふっ♪」
目の前の少女は、パパが大好きだった頃の顔で嗤って、右腕の注射器を天高く振り上げた。逆十字の電気毒針で処刑するなんて、人類に相当の怨みがあるんだなあ。いや――その行動が人の目的に適わないが故に、無目的に行動していると”定義”されたのが、無目敵なんだっけ? となると彼女は、ここまで凶悪で残虐で非情でありながら、何も思っていないし、何も感じていないし、何も考えていないのだ。ちょうど人が蚊やアリやゴキブリを殺す際に微塵も罪悪を感じないのと同様に。
っていうか注射器。
《器用貧乏人だから》なんてのは、妬まれこそすれ、決して羨ましがられることはないクソスキルだ。花が咲いても実はならず、全力で怯えても綺麗なハンカチは出てこない。そして全ての事象が正直言って微妙に怖い。全部ってのが痛いだろ? 百パーセント平気ってものが、この世にひとつもないんだぜ?
ボケ役をやりたいのにツッコミ役の方が向いてるって憧れの先輩に言われてしょんぼりしたけれど、食って寝たら元気出た、表情豊かでリアクションが良くて、寂しがり屋な癖に人ごみは嫌いなエピクロス派の君なら多分、解ってくれると信じてる。
低身長コンプレックスがなんだ。
人は金と外見とあったかい心のうち、どれかひとつがあったらいいんだ。
まあそうでなくとも注射器は怖いものか。致死毒も怖いし、雷も怖いし、肉を抉られるのも、血を見せられるのも、命を奪われるもの当然怖いよな。俺は今何を言ってんだ? 大粒の汗が頭から噴き出して頬を伝う。ほうれい線が取り返しのつかないほどにひび割れる。涙の前に鼻水が出る。しかし攻撃されなかった――とか、減雄が更に覚醒したとか、もう一体味方がほら、あのあいつが現れた――、なんてことは、薄情と冷淡と無慈悲がベースな現実では起こらなかった。ただ単に、何もかも間に合わなかったんだろうな。シンプルに手遅れだったんだ。蚊よりも速い蝿だって、蝿叩きであっさりと、蝿取りシートでべったりと、結局殺されるんだから。
善、プロエーグメノン、アディアフォラ、アポプロエーグメノン、悪。
俺は普通に攻撃を受けた。
そして、口から内臓が飛び出るほど絶叫した。