第二章 カレタ島の冒険 004 Silver Fox(仮)
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突き飛ばされたと解ったときにはもう目前にお尻があった。
絵心もないくせに出しゃばってデザインして結局しまぱんに改変されるそれが、まわりまわってピラミッド。突入! 太ももを咄嗟に担ぎ上げて、背中ゴリゴリ痛い痛い痛い、だんっ! ズドオちゃんが靴の裏で、折り畳まれた非常扉を踏ん張り頭セーフ、轟音!
反射的に目をやると、ふたりの隣で、あのニクラデリヒ・プリ=マドンナ氏が、接着剤をかけられたワラジムシのように蹲って呻いていた。
エレベーターを利用する派? しない派? 怪談で震えたのちの二、三日に限って乗るのが怖くなっちゃう派?
たとえばバンジージャンプ。あれは確率や恐怖症以前の問題だと思う。スカイダイビングもそうだな。仕事ならまだ仕方ないと納得できるが、妙な遊びをしなければ死ななかったのに、馬鹿だなあ親に謝れと、死してなお罵られる屈辱には生前から耐えられない。
僕はエスカレーターさえ努めて避ける男子高校生だった。飛行機なんてとんでもない。というわけで階段を選んで、こんな事故に遭ってしまって?
「いやいやどういうことなんだ!? このほぼ校舎なF棟に、保健室以外の病室はねーぞ!?」
「ははぁあっ!? ばか、しゃべるな……!」
「あッ?」
見上げると、彼女は珍しく真っ赤になっていた。反対にこっちは真っ青になりつつあった。時間がなかった。急いで伝えなければならなかった。
「落ち着け、リオンちゃん。お前は今、混乱しているんだ。自分でさっき、言っていただろう? 僕のこの喉にあるのは喉ち、口蓋垂だ! じゃない! 喉仏だ! だから妊娠はしない!」
「ひへ、くすぐったい……! ~~~っ、どこに、こんな、仏がいるのよぉ~~~っ! もぉゆるしてぇ……! ふふぅ……!」
顔を覆う暇があったら速やかにそこをどいてくれ。
「動いたらもれる」
「それはマジでやめろ」
「ぁ、だから喋ん、息止めて! エッチ! あああ!? 唾も飲みこむな!」
鼻に指、口に掌、首に全体重がうぅぐぐガチで死ぬ! 腹筋が頼りにならなかったので、脚をふり上げ、もがいて起きたらものすごい構図になった。
「……お前実は何歳?」
「じゅうななさいっ♪」
「歳とってんじゃねーか!」
もう遠慮しない。
う~ん、内側におへそがあるスカートの構造は、いつ見ても不思議だなあ。
そっと閉じて渇いた微笑を交し合う。ぱたぱたと埃をはらう。
いや、『エッチ』とか、死語だろ……。
今は『えちえち』か、『えちえちのえち!』の時代だろ。
突然、ニクラデリヒ氏が不気味に跳ね起き、四つ足でばたばたと駆け出した。
『!!』
廊下の中程で二足歩行へ。
スピードが上がる。
点と点が繋がった。
(失敗したんだ!)
どっと映像が流れてきた。
せめて態度だけでも――と、誠心誠意謝罪して、本日も最後までお小言を拝聴した。部屋を出た。独りになった瞬間に、人の目はなくなった。あるいはこの未来を約束したから、あのとき全ての説教を受け止められたのかもしれない。
屋上への扉は施錠されていた。されていない屋上には庭園があった。階段で脚を滑らせてみてはどうだろう、駄目だった。そうだ、どんなに甘酸っぱい酢豚のパインが嫌いな高層ビルにも、最上階の窓はある!
結局顔とか言っちゃう人に、愛されて創られし窓枠には、安全性よりも世間体を優先して、鉄格子が備え付けられていなかった。僕は駆けた。結局顔というテーマでのコラムを保留して。ズドオさまも駆けていた。我慢顔で、内股で。
F‐117でも間に合わなかっただろう。一度ガラスに突っ込んで弾き返されたニクラデリヒは、相対的には絶対に大きな瘤を頭のどこかで膨らませながら、鍵を外し――間に合わない。窓を開けて――間に合って殴られたらどうしよう、窓枠を力強く踏み――外した。ずるっ。
しこたま敷居にぶつけた顔から、ガヂュッと濁った音がする。
ううわあ。
その痛みにのけぞった口の中が、痛い痛い赤い痛い!!
カツカツ、コロコロと前歯が転がる。あああ、くそがあと毒を吐く。いるかもしれない他人よりこいつだ、先輩の真似事をしてもいけないんだからな!
三十六計! 僕はズドオちゃんの腕を掴んだ。
そこには体毛がびっしりと生えていた。
「うぅうわっ!?」
「踏みやがったな……!」
「え、なにが!? え?」
コックピットの内部のように、魅せるための風がすさぶ。
ブルーのラメがきらきらと、押し流されて廊下に溶けた。
鋭く突き出た三角の耳と、アームカバーに見える腕毛に、サイハイソックスに見える脚毛は、キアロスクーロのない漆黒。闇に染まったクリアピンクへ、白銀の霜が降る。金色だった瞳がこげ茶色へと沈んでゆく――
そこは普通逆だろうとぼんやり心で突っ込みながら、僕はしゃがんで撫でていた。すごく肌触りがいい。踵から先がずぐずぐ伸びて、爪先だけが足の裏。相対的に靴が超でかくなる。
あっ、尻尾!
握ろうとしてもすり抜けて、何故か無性にテンションが上がる。
「正確には乗った――いや、叩いた、か」
「だ、だから何が――」
途中で気づいた。
空がピンク。
猫がいた。
幼いころに絵本で見たような、頭部が横に巨大な猫が、泣きじゃくるニクラデリヒを片手で押さえつけていた。
何故と問う暇もなかった。
語気を荒らげて高圧的に質問をぶつけることによって、自分だけはそんな偽善を阻止できる。こんなに踏み込んだ地点からでも、回れ右ができるパワーが僕にはある。安寧を希求したい本音を書き換えてほしいなんて頼んでいない、俺たちは見ず知らずの他人の暇潰しのために特攻させられる捨て駒じゃないんだぜと僕だけは――目先の金に目が眩んだ腰抜け共とは違って――発言できる。
そんな自信ごと砕かれた。
何故ならば、親がすごい選ばれし被害者たちは、ひとり残らず結局最強な異能力の保有者であったからだ。
助けたいというよりは、罪悪感に耐えられなかった。
執筆マニュアルの開示事件も、このようにして始まったのだろう。
どんなに素晴らしい未来が見えても、驚いてくれる観客がいなければ虚しい。
醜いあひるの子のまま絶命されたら、過去の自分が更に汚れる。
《浮遊幽霊》と《妖銀狐》の間に産まれた、現在”母娘丼モード”の人間は、人の毛を掴んで言った。
「端的に言うしかねえだろうが、一から説明してたら四十六億年かかる。行間を読め、曲解するな。なんにも解んないのなら黙ってろ。
いいか、要するにてめえが強くなりゃ全部丸く収まるんだ。生きるってことは食うことじゃねえ、殺して食うことだ。負けた方が死ぬ。恨みっこなし。初めからそういうルールだったろ?
生きたくないなら今すぐに飛べ! 勝ちたいのならこいつに噛みつけ! いい歳こいて、助けてほしそうに泣くんじゃない! 男が泣くなッ!!」
「だから飛ぼうとしたんじゃないかっ!」
「止められることが分かってたからな」
「わーっ! ワーッ! ああーっ! むり、もぉ無理ぃいいぃいいいっ!? 嫌、痛ゃあぁああああああああああああああああああああああっ!!」
苦労して捕まえた化猫をあっさり手放して、瞳を閉じ、厳かに手を合わせる。
べきべきと容赦なく押しつぶされた頭部からぽろぽろと、銀杏のように歯が落ちた。
こういうのが見たかったんだろと言ってやりたかったのに、見せられると吐き気がした。
「それじゃ行きましょ」
「その格好でか」
「えっ、やっぱ今風じゃないかな。それとも既出? ショートがよかった?」
「かわいいよ。すげーかわいい。特にお尻が」
「お尻は変わってませんっ!」
最近の新人までは調べていないけれど、現実問題、黒がベースのリアル銀狐は、大好きなアニメの銀豺or銀狼にすげえ似てる白狐よりは少ないんじゃないか? いたとしてもここまでシンクロはすまい。
ベリサリオン・イイポズドオSFちゃんは靴を拾って、やっぱりショートがよかったかなと繰り返した。