第一章 ラムネ狩り 007 出る体質(仮)
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翌日、五日、朝。
僕は脱衣所も兼ねる浴室の前の洗面所で、扇情的な色に汚れた例のものを発見して惑溺していた。
(行け、いいからとりあえず触ろう。いやこれは手に取っていいって、問題ないって)
例のものとは、男所帯には絶対に存在し得ない――、例のものである。
(指紋とか……、気にすんな、こんな場所に置いてあるのが悪い。誰が悪くなくても)
秘密裡に咽下する羞恥にも慣れた。目をしかめて神様にもう一度アピールする。息を口からは吸いこまなかった。確信犯ですけどと良心の耳元で連呼した。なんの匂いもしなかったけれど、紫外線のように、見えないながらも影響力のあるものであると考えた。男として強くなった気がした。
キリンの舌に関する解説は、動物図鑑を幼児のために購入してもらうための嘘だ。だって長く伸ばした首だけで、充分新芽には届くじゃないか。新芽には。
清涼感が窓の外から目を覚ませと呼んでいる。手抜きができない完璧主義者の作った、絶対に間違いのない唐揚げのみ定食は、コタツの誘惑に感謝ができる、クリスマスの誕生日に似ていた。
難しいことは置いておいて、ここはここ単体で区切ろう。コーンポタージュのもとにお湯を注いでもいないのに、ふぅふぅ言いながらそれを掴んだ僕の表情はきっと、内定を取り損ねるために履歴書へ糊付けした、機械撮りの証明写真のように連続殺人犯染みている。
(舐……)
待て待て!
僕はすんでのところで顎を逸らした。おかしくはないが確実におかしい。飲食できるかどうかで言えばできなくはないと言えなくもないし、結局最後には少なからず舌に付着させるつもりなのだけれど、ちょっと待て、そこまで落ちぶれたつもりはない。
よく見てみようとするふりをして、鼻へ近づけたそのときである。
「おっ? おはよう、メリオリストちゃん。……」
メイド様が探しているのは間違いなくこれだった。動揺を隠そうとすればするほど裏目に出ることを知っていたメリオリストちゃんは、あえて何をすべきかなのかが判れば苦労しないよと動揺した。いつでも人を疑ってかかる自分のような目をしてはいないことが唯一の救いか。
「メリオリストちゃん、ここに何かなかった?」
「何か、って。何が、ですか」
ゆっくり喋ることに決めた。
これは案外と効果があった。
「んー、いや別に……あれえ?」
絶体絶命。
こんなものをポケットに隠し持っていることがバレたら人生終わる。
ふたつあっても鼓動が倍になるのだから、増えれば増えるほど疲れるのではないか?
そうだ心臓がひとつもなければどんな苦痛にも耐えられるんだ!
メリオリストちゃんは完全に錯乱していた。
メイド様は未だぱたぱたと、扉を開け閉め開けしている。
なりたくなるではなく、もうなる。
(嗚呼、ホームが冷たい都会になけりゃあなあ!)
距離が近いことの方が重大な問題になりつつあった。
後先考えずに睾丸を切除すれば永遠に賢者でいられるのだろうか?
誰かのなんかの漫画を頼りに、そうすることが最善だと結論を下したけれど、ボロが出る可能性もあるというのに、無実の通行人その一らしさを装うために、思い切ってその話題へ飛び込むなんて無駄に勇気のある行動は、僕には一向にとられなかった。
想えば想うほど筋肉が強張った。喉が挙動不審声を出すためのウォーミングアップを開始する。もう駄目だと思った。そうでなくとももう無理だった。
不幸中の幸いは、僕が初めから常に、おどおどしていたことだった。実質女の子ばかりなこの『おぷてぃみ荘』へ来た当初から、自分は何かにつけどぎまぎし通しだった。だからこれで自然に見えたのだろう。脱衣所で女性に話しかけられたためにこうなったのだと彼女は判じたに違いない。
メイド様がふいっと、別の場所を探しに行った。ほっと気が抜ける。ケインズ人格に入り込む手もあったと今更閃いて、僕は自分の無能を改めて恥じた。
「ああ、おはよう。ウルカリオンちゃんアレ知らない? 私のあの……」
(ウルカリオンちゃん!)
こしょこしょと耳打ちされたウルカリオンちゃんの表情が千紫万紅。
むかつくほどかわいい。
むむむがぴこーんになって、いきなり話はここで終わった。
「あー、ごめん。それは今うちが持っとぉ」
「!?」
拍子抜けだった。取ってくると言い残して、どたどたと階段を上がってゆく。ドップラー。今確かにこのポケットに入っているはずのものが手渡される。
(なんだ、もうひとつあったのか? いやそれで普通か。え? ええ?)
「いやぁー、ちょっと気になってしまいまして。すみません」
と屈託なく頭をかくウルカリオンちゃん。
「気になったって、あなた……その……、出る、体質なの?」
「ううん? 全然出んかった。あと気持ちよくもなかった。あはは」
「気持ちいいって……」
またメイド様が小声になった。
「張ったら痛いから、抜いたら痛くなくなって、それが結果的に、気持ちいいという感情に、分類されるだけなのよ……?」
今度は全部聞こえてしまった。
すごくえちえち。
リップ音に関係なく、女子の声そのものが、男子高校生には刺激的すぎた。
使ってもいいけど元に戻しておいてねと、うるりんが注意される。メイド様が居間へ消える。口に出すのは恥ずかしいのに、今のアレを使用している姿を見られても平気というのは、どういう個性なのか。メリオリストちゃんには何も解らなかった。
虚しい。
それが率直な気持ちであった。
自分に関係なく事件が解決して、僕は今悲しかった。そこまで構ってはくれないんだな、の寂寞というのか。一方的にポケットへ這入ってきて、優しい嘘で罪を肩代わりしてくれ、優越感たっぷりの脅し文句で、千倍に膨らんだ借金の返済を強要してくる、なんでもお見通しな人造ドSお姉さんなんか、この世にはいなかった。
(放置プレイだけは嫌だ、放置プレイだけは嫌だ、放置プレイだけは嫌だ、放置プレイだけは嫌だ!)
しどろもどろ、おはようと返す。彼女はにっと笑ってトイレへ入った。用を足す音を聴きたいマンになるわけにはゆかなかったので、僕は仕方なく全力で慎重に命からがら自室へ逃げ戻った。
ごそりと取り出し、机の上にコトリと置く。今はもう助けてと相談したい感情しかなかった。最終的には口頭で説明するにしても、ひとまず文章にしよう。僕はスマートフォンに依存した。
「ほぉかもなーっ!」
ついに超大型豪華客船を追い越した。
想像上の海獣を思わせて、力強くぐんぐんとせり上がってくるジェットフォイルから放たれた飛沫をかわしきれなくて、うるりんが笑う。
シーブリーチャーに追い抜かれて、僕も笑った。
一時的な完治を悟られないよう、しぶしぶと。
グリップが前方へねじられた。
「デートとかも屋外でするのが基本っ」ああ、敬語の方が喋り易いのに。「っだし!」
「ほな逆効果かあーっ、まーえーわ! もーしゃーない! あはは!」
今日は何島へ行くのだろう。
僕は未だ見ぬ目的地に思いを馳せた。
この、後ろから全力でしがみつくスタイルも、リストリクトを蹴破りたい衝動に、拍車をかけるだけだったから。
巨大な女子がいい。三メートルくらいの。骨盤ダイエットとかふざけんな。だからその点は逆にありがたかった。しかし――、
(ショートヘアって言えよと荒らすほどに、ショートカットは嫌いだったはずなのに……)
性格とも合致した方が良いからだろう。
言ってしまえば長髪は、かわいい男子にさえ似合うのだ。
「じゃあ、女子に嫌われるんですかーっ!?」
「ええ、なに!? なんでーっ!?」
姐御肌と持ち上げて、味方につけた方が得か……。
他の可能性を探る。
欠点、欠点……、九割方それでできたネガティヴなボーイとは違って、ポジティヴなガールにはひとつも見当たらなかった。痩せたおなかをそうだと見做すレベルである。あっ、
「それなら、ポジティヴってこと!? その辺ー!?」
「あー、んー、まー、せいかーいっ!」
「ど、どうし――、なにが困るのー!?」
「明るすぎて重いってー、しょっちゅう言われるーっ!」
しょっちゅう――木陰人格の吐露した心中が使い回される。再度腰を意識。まるで人魚だ。できるけど続かないケインズ人格も、この人を参考にしていたのかもしれない。妹と同様に。
誰にでも悩みはあるもんだ。
こちらも悩んでいないと言えばそうなのだから。
沖に漁船。海はどこまでも穏やかである。メリオリスト死亡説も、あながち間違ってはいないらしい。親も子を選べないも休み々々言え。
あっと言う間の一時間だった。今日、いつものおっちゃんは、その辺で獲れた魚介をくれた。
もうそういうことでいいです。
「って、ここ、僕らの本拠地、リトルピース島じゃん!」
と発言してから赤面する。
あああ、今更ウケを狙いすぎた所為にしても遅い。
だから帰ってきたんだって。
今のドライブ以上のものを求めていたのかこのアホは!?
「リトルピース島!」
すごくおもしろいポーズ、からの素顔。
シャンファで笑って真顔に戻る、めるにゃんの間の取り方と完全に一致。
「ほないっぺんほれ置きにいこか。ああ、ついでに着替えとこ」
「え……、まだどっか行くの」
なんて訊いちゃって馬鹿が死ねよクソがボケ。
「しんだぁなった方がええんよ、体は。いらんこと考えんで済むし……? って聞いたけど、次目ぇ覚めたときにヤバいよなあ? 元気になりすぎてムラムラーっ! と来ると思うけど、そこまでは知らんわ。あはは」
ブラチラも興味なかったのにと言える次元ですらない。




