第一章 ラムネ狩り 002 自宅探偵(仮)
2
やはりそうだった。
僕は初めから百パーセントの自信を持ってこちらの説を選んでいたことに今決めた。
負けたら無駄に悔しいから。
そう、夫であるヘイヘル・ヴィトキェヴィッチ氏が、その日に限って、午後六時という普段よりも数時間早い時刻に帰宅していたことの方が、遥かに不自然だったのだから。
先月の十一日にティーシャーツ島で起きた、ラウリー・ゴルドグラン氏殺害事件はこのように、その娘、キルティ・ヴィトキェヴィッチ夫人の正当防衛を解に据えて幕を閉じた。
猟奇性はなくとも話題性はあった事件だった。真新しさというのか。いずれにせよ不謹慎なのだけれど。いや、真新しくもなんともないのかもしれないけれど。とにかく――罪をなすりつけ合うのならまだしも、ヘイヘルとキルティのふたりは、互いに自分ひとりで殺したと主張した。その点に限定すれば、この事件は現実離れしていた。現実離れ――この表現が一番しっくりくる。なにも密室での殺人だけが捜査を難航させるわけではないのである。
ラウリーは寝室で50インチのテレビに頭を突っ込んで死んでいた。彼は平凡な父親の類に漏れず、娘を溺愛していた。襲われたから抵抗したのだとキルティは供述した。世間の目を気にしたのだろうか。
都会の高級住宅街ではなく、田舎の離島……ヘイヘルが午後六時に自宅にいたことを証明する“超管理社会”の方がなかった。同居はしておらず、金曜日の夕方に、娘夫婦の住む戸建てへ、ゴルドグラン氏が乗り込んだという形である。
三時過ぎでも丑三つ時でいいのだ。ああ怖い。推理小説にまるで興味を覚えられないくせに針を呑んだ、にわかも大爆笑の自宅探偵だからこそなのか、なにか言い様のない違和を感じたのだが、だからこそ僕は、ここで考えることをやめた。主に以下ふたつの理由によって。
第一に、キルティが犯人ではなかったところで、ヘイヘルが犯人という可能性しか残っていないため。ああ、共犯の線もあるか。第三者の犯行――であったところで、ラウリーはもう生き返らない。
第二に、現実の世界こそ、無理矢理なこじつけが、不都合な真実が、黙認されがちなものだから。ネットでいくら暴いても、偽りの歴史を書き換えるには至らなかった事例なんて腐るほどある。バレバレの嘘でも穴だらけの理論でも、御上が馬を牛と言えば牛なのだ。
真実は常にふたつある。個人と社会が同義語になる日なんか訪れてたまるかよ。いや自宅ではないのだけれど。甘やかされると駄目になっていく――といった結論には、心を傷つけられた覚えすらない。自分はもっと奥にある問題で悩んでいた。『何もしなくていいよ』――そんな馬鹿な。極端だ。まあ、体力をつけてもいけないと、怒鳴り込んでくるわけではないのだろうが。
ライトロード島における女子生徒連続神隠し事件には、悪い意味で進展があった。
今月三日、日曜日(つまり昨日である)、午前九時ごろ、私立ブリュースター女学園高等部のプールから、一年生のグラーラ・フォイブエ、ルガーナ・ウルキアーガ、二年生のレシッタ・シスモンディ、三年生のアマデオ・ランベオが、更衣室に水着以外の所有物を全て残して忽然と消えた。
ここにもまた、人工知能の目を光らせにくい状況があった。
これで、集団で失踪した女子生徒の数は、合計三十二名になった。
(神様はロリコンだと帰納するより他にない)
競泳部の顧問は、十五分前行動ができない生徒を社会に送り出したくはなかったのだろう。悪いのは犯人だ。そんなにも卑怯な点を狙うなんて。僕はごろりと寝返りを打った。誰も添い寝してくれてはいなかった。
これだけ大規模な誘拐事件である。
爆笑探偵バァーミ君にもおおよその犯人像は掴めていた。
年齢は置いておいて女性ばかりを狙うことから、男性。単独犯ではないだけであって、同種の団体ではあるだろう。被害者にとっては別人であっても同じことだ。つまり――
《海賊》。
本当に神隠しに遭った可能性も、無きにしも非ずだけれど。
(そういう世界観ではないという説明は確かに誰からも受けていない)
どうせもう助からないと吐き捨てる。夢の同衾共枕は、クーラーのリモコンの取り合いで、離婚届を突きつけられるまでに至った。
扇風機の折衷案も意味ない、ハグしたい。仰向けになって両腕に、夏でも欠かせない羽毛布団で、うるりんとメドウさんを同時に抱いた。
ビッグスリー島南西の海岸に打ち上げられた、『下顎から上』及び『両脚』が、もぎとられた遺体は、同島の市立中学校へ通う三年生、モルデン・ジョイデスのものであると判明した。
見るからに人間の仕業ではなかったからなのか、社会的影響を考慮した結果なのか、地元民による匿名の書き込みが主に有力な情報として、血も涙もないアフィリエイターたちに面白おかしく取り上げられている。
完全犯罪。
(エンターテインメント性を犠牲にしたら、いくらでも実現できてしまうものなんだよなあ……)
架空の頭を撫でてみる。
それは放送禁止用語のように。
ポリ袋の前にキッチンをつけてみたり、九千九百九十九個を超えてみたり。
冷めてしまえばいくらでも、合法的に禁忌は犯せるのである。
ザイヤンとシュネウォにいじめられた経験はなくとも、頭の回転が早く口喧嘩には滅法強いキョロ太郎に、後ろの席からひそひそと、みんなを味方につけながらイジられた経験はあるだろう。
背の高いイケメンなんかは比較的大人しい。
ガチで親に暴力で育てられたやつは硬派だ。
世の中が思い通りにいかなかった経験に乏しい、甘やかされた洟垂れ――彼らには、他人を馬鹿にして感謝されるテレビの中と、現実世界の違いがまるでついていない。
口で負けるというのは、体育の授業で恥をかくことに似ている。テストに瞬間記憶能力は求められない。だから努力でどうにかカヴァーできる。才能に恵まれていなくとも、体力がなくとも。
あの感覚は死ぬほど痛い。
中高生で大袈裟な、と大人は笑うけれど、大人の社会も、大人の会社も、同じようなものらしいじゃないか。
システムが、学校と。
精神年齢が学生時代と。
今を耐えられないのではない。死ぬまで耐え続けなければならないことがなまじ想像できてしまうから、今死を選びたくなるのだ。そうだろ? 『何もしなくていいよ』――そんなアホな。三十歳で結局自殺できなかった先輩をネットで見た。
いや、そういうことではなく、どうせ自殺しないのなら――
そうして精神的に追い込まれた同類がついに海へ身を投げたのか、それとも、頑張る場所を間違えた、おもしろ芸人の模写ができているだけに過ぎない、自称クラスの人気者が、反撃に遭ったのか。
海賊にさらわれて遊ばれて捨てられて、サメに食われでもしたのだろう。
僕はあえて現実的な推理をした。
どれほどの怨恨があって、人が人の上顎と両脚を切り取るのだ。それは個人を無視しすぎている。それでは傍観者が後腐れなく楽しめすぎる。犯人以外が不幸にならない結論を導き出したいのは乳児だ。
それとも、現実世界で起きた事件だから、探偵小説のように込み入った、謎解きのし甲斐がある犯罪計画は練られていないと、深読みをしすぎたのだろうか?
――なんにせよ。イジられっ子を死へ追いやるイジリっ子が、死をもって償わされた事例は、圧倒的に少ないことだけは確かだった。
彼らの死は大勢から至極前向きに望まれている。だからその想いがそろそろ形になっても、なんら不思議ではない。
トイレへ向かう。共同であるにもかかわらず、ドキドキ☆ハプニングすることはなく、やっと気がついて感想は、小気味よいテンポで走り抜ける、ぬけがけマセガキの語感の良さは異常。