第一章 ラムネ狩り 001 ウルカリオン・ウルフマイン(仮)
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話が違う。
騙された。
僕は冷たいタイルに額をつけた。
どうやっても掴めない雫がざあざあと、どこへも逃げてゆけない哀音を排出し続けている。あなたはだんだんダムの底へ沈んでゆくと、暗示をかけられてはいないのに。
肺を動かすのにも疲れた。手首で剃刀を奏でた麗人と、真っ赤に染まった湯船が浮かんだ。勇気があれば自殺なんか試みないだろうに。
こんなところで――、心臓がドキリとした。
こんなところで、こんなことで、人生詰みたくない!
――生まれて初めての感情だった。やっとと言うべきか。ぴたぴたと歩いてきた掌によって、ふくらはぎがぺとりと濡れる。わらわらと群がってきて、両腕まで痙攣する。これが『新時代の鞭』だった!
「だれかぁ」
守るというのは贔屓し差別するということだ。利己的に人間を選別する悪人側の集団へ脚を踏み入れるということだ。全員助ける系の主人公に、ぼんやりと憬れていなくはない自分は、その場その場で最善の選択をする能力にまるで秀でていなかった。
(しかしこれでいい、僕が女の子に依存するゴミカスになった方が、総合的にこの場合は!)
昔から心の声だけはやたらと威勢がよかった。体言止めを多用してはならないというマヂ有り難いお説教が、どうしてか今聞こえた。マヂありがてえよ。
滑って転んだら目を閉じて対処すれば捕まらないのか!?
いやそもそも、そんな地点に至った時点で全てがアウト?
界隈一のドMこそが、ただ共感欲を満たそうとしただけで、同類以外を破壊し尽くす暴君と化す場合も多々あるように、善意一色で駆けつけてくれた彼女も、今回は飛び越えてとにかく鞭だった。
ゼブラマウスにアナボリックステロイドだった!
回し車を与えてほしいと想い続けるべきではないのだけれど。
いつまで待っても『ゆとり』と揶揄されなくなる日は訪れないのだろう。
『近頃の若い者は』だと長いから。
あるいは、今回も。
「ああー、これ? いける、いける、だいじょうぶ。うちも来たときやられたけん、ほんなに自分を責めんときよ? でもうちもショックやったなあ。うおーってなったわ。はは」
「え」
なんで?
それから全員の性別が変わったのだろうか。
まさか。
「いや、さすがに同級生のとか大人のを見ようとしたら、ぬけがけマセガキみたいな扱いをされるけどぉ? いや、車の内部構造を知りたい欲とかあるやろ? それと一緒。ふふ♪」
ああ、高校生のお姉さんが稚い男の子のを――だと『善行』になるのか。
心臓がギシギシ軋む。
蓴羹鱸膾があればよかった。
このご時世、女性に生まれてこられたらどんなによかっただろう。
全身整形は痛そうだ。
「ほなさっさと洗てしまおか。あ、でもこのことメイド様には黙っときよ? そのー、あの人、我が子の性別は全員男って、本気で信じ込んで生きとぉけん」
だからこそ――女である彼女にも、男である彼にも、お掃除や食器洗いと同じ感覚で、お願いすることができたのであった。
深層意識では判っているのだろう、当たり前だ。男とは違って入念に洗わなければならない――のかどうかは知らないけれど、直に触るとなると、弥が上にも知覚してしまう。
雰囲気大浴場ならまだしも!
こんなものはフルマラソン中にあーんされたTボーンステーキだった!
受験勉強中に学年一位が平気で購入する週刊少年漫画雑誌だった!
あまつさえ女子の脂肪!
ふざけて触っても怒り狂わなさそうなパーソナリティ滲むその挙動!
――しかしながら最後のそれが、ガリガリ骸骨系男子の心を、こっぴどく萎えさせた。
(僕は据え膳を食いたいんだ)
プライドの問題に限らず。奥手でしとやかな恥じらいのある女性しかいなかった大昔ではないからこそ。こんな自分でも、あと少しの努力でそこへ到達できそうな気がして。
「な、名前、僕まだ憶えられてないん、よね」
「ああ、名前? ほな今覚えましょう! この子がメルルリヴラで、この子がウルラロロラ、この子がリララルラウで、この子がメロラララル、でぇ、この子がラルメロルメ。憶えた?」
「無理だ……!」
「あはは!」
二次元の女子しかしまぱんを穿かないというのは本当だった。
ニプルに羞恥を覚えない海外の女子アスリートの目には、威風堂々とワキ毛を見せつける日本人男子アスリートも、無知でふしだらな未開人に見えるのだろうか?
驚きの洗浄方法。
縁側付きの庭に出た、お爺さんの背中か。
そっちの方が車の内部構造だ。
お湯で泡を流す係というのもどうなのだろう。
僕は同級生の身体へ視線を固定した。
むしろ叱ってほしかった。
「……残念っ、と思たやろ?」
なんにでも驚いてしまうのだ。女子に見えない話をされて、更に混乱するのも自然。
女子にというか、びしょびしょに濡れた、ほぼ全裸に白T一枚の女子に。
残念?
「うち、あんまし肉付きよぉないけん。あっ、それはめっくんの方か、ふふっ♪」
「はっ、ハハ……?」
精一杯笑ったつもりである。
ふざけんな。
肉付きが良すぎるからこんなにも煩悶しているというのに!
生唾が耳元で自立する。いま自分は完全に、ひとりになった途端『カップ エロ』と血走るスマートフォンと同期していた。
先程は湯気で、アングルで、曖昧にしか見えなかったし、今はお湯が、波紋が、メルラロラメが首から下を覆っていて見えない。
緩みきった表情。
(無防備なのか完全防備なのか……)
じっと待っていたら何も気にせずに上がるだろう。
全裸の千倍卑猥に見えると、知ってか知らずか。
けれどもそのときは躍動する肢体によって、凝視できる時間もチャンスもブチ潰されるに違いない。
普段快活な人こそ腹を立てた際により恐ろしく感じるものだが、ぴょこぴょことかわいらしく動く、長めの『アホ毛』だけが妙に白い、チェリーセージショートの彼女、ウルカリオン・ウルフマインも例外ではなかった。
「うる……りん。うるりん」
「そぉそぉ♪ ほかになんか言いやすいあだ名あったらほれでもええけど。『ウルちゃん』はよぉ言われるな。『ウルリ』って呼びすてにされるときもある。でもな、ああそうやな、理由説明してなかったけど、『さん』づけされたら、うち、胸がきゅーって悲しくなるんよ?」
両目がVになる。
「ほなけんな? あっ、『めっくん』でなしに、『バーミやん』の方がよかった?」
「え。いや、いえ、その……!」
「『バミちゃん』、『メリちん』、ほぉ言えば『メリオリスト』ってどういう意味なん?」
「えっ、ええと、それは――」
まったく操舵を握られない。口のうまい男を別段、侠だと思っているわけではないのだけれど……。
ホストにも詐欺師にも、結婚できない、あるいは家庭円満でない大御所にも憧れようがなかったので。
いやそれよりも、このあとにふたつも質問を返さなければならないことの方が大変だ。憶えていられる自信がない。
「語感がよかったから?」
白文鳥のようにくりっと傾げる。
「いや、あの、人間の、あ。え。『メリオリズム』ってのが、『人間の努力による世界改善説』って意味らしくて、そ、っ。だからそれを実行する人? って意味。らしい」
「ふーん。超かっこええな。『人間の努力による世界改善説を実行する人』……なんかすげー。壮大? ふふふ♪」
「め、めちゃくちゃ名前負けだけどね、世界一と言ってもいいほどに……ハハ」
嗚呼、好きだ。
「ちゅ……、ごほん! う、うるりんは、いや、うるりんの名前の由来……、その、『ウルカリオン』って名前も、僕個人は超かっこいいと思うから! あっ、うるりん本人が気に入ってなかったらごめん……!」
「ううん、ぜんぜんほんなことないよ? うちはただ、他人行儀な感じが好きでないだけやけん。それだけ♪ ああ、意味はなー、普通に『火の神』+『百獣の王』だったと思う。造語? あれ、これは意味と違うか」
普通に……。
「ぴ、ぴったりだよ!」
思いつく限りの賛辞を口にした。
褒められ慣れていることに、結構最初の方で気がついてしまったけれど。
バスタオルを持ってきたのは正解だった。ボケることなく、
「えっち、見んといてっ♪」
かわいい……。
今更すぎるだろうお前、とハキハキ突っ込めばよかった。
そんな風に女子とお話できる勇気がそういえば欲しかった。
「えっ……と、その……、肉付きよくないとか、本当に貧乳な女子の前では言わない方がいいよ、とは思った、危険だから! ご、ごめん、セクハラ発言だったら、あ、あんまり謝ってもいけない?」
「え? なにが? 貧乳? うん?」
脱衣所というか、洗濯機の前の、某狭すぎるスペースである。
子宝に恵まれた新婚夫婦のようだ。
「ああ、肉付きて、おなかのことよ?」
「おなか!?」
「え? 最近の男子って、めるめるのもちもちピザっ腹みたいなんが好きなんでないん?」
「それも絶対そういうおなかの女子に面と向かっては言っちゃだめだよ!?」
「えー? なんで? うちはコンプレックスやのにぃ、このおなか。いやほんまに今の女子はおなか餅ってないとモテんよ? ただでさえ性格が男子っぽいとか言われとぉのに……」
スポーツをしているためにどれだけ食べても腹筋になるのだというようなことを、うるりんはしみじみ語った。
IとかJとか、そういう次元だ。
四人目の《オヤジ転がし》だ。
メイド様やメドウさん以外の女子と、上手にコミュニケーションをとられている姿が想像できない。
ここにいるララララララちゃんたちは別として。
そんなもの分かるはずがなかった。こちらが教えて欲しいくらいですw なんて、酸素を愛する虎のように切株へ毒づきながら野兎に恋する“眼高手低”よろしく、内心でぼやいてみたりもした。身長が百七十七センチで、体重は五十四キロしかない、目を覚ますと深夜の二時三十五分だった、心身ともに尫弱な自分には。