第零章 上京 036 幽霊の浜風
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何が起こったのかというと、めちゃくちゃなことが起こった。
とにかくこの情景を、小説の原稿へ子細に落とし込もうとする試みが、正気の沙汰では無いことだけは確かだった。
肩に覗いたブラ紐どころの騒ぎじゃない。
大猿去って数の暴力。
エリザヴェータ・リュディア=ガーが、後先考えずにカワイイを連呼した観光客のように、しかし何も与えていないのに、ラフな衣服をキーキー引っ張られる。
まつわりつかれて噛み破られる。
引き剥がしにかかった世宇が、1匹、2匹、3匹と、揉み合って殴り合って転げまわる。
理伊雅の蹴撃は、操られた一般市民に襲われたパターンにも、鋭く突き刺さりそうだった。
饗庭姉妹は鼻や唇で、果実にするように、露わになった地肌を貪られていた。
――ほら、薄情に静観しているように見えるだろ?
違うんだ。速読してくれ、この辺は。
アルヴィオーラ=インファンタは、また全力を込めてしまったことが裏目に出た様子。
ほら、その、ギネス級に膨れ上がる“姉妹”がさ……。
タイマン好きの闘鶏は決まって、弱者にフルパワーでぶつかってはゆけないものだ。
基本パン一だった所為か、非暴力にも程がある、くすぐったさごときに負ける。
それぞれにニュアンスが違う悲鳴も、溶け合ってしまえば同じに聞こえた。
これ以上に空しい発見もなかった。
そういえばフルネームを知らなかったハイドも、秒で殲滅できる能力に恵まれていながら、罪悪感の見えないぬかるみに足を取られてしまった模様。
ヴェスヴィア=ルーベラは何をしているのかというと、全身を隈なく覆った漏電のバリアで、真っ赤に直立したまま、セクハラの魔の手から身を守っていた。
表情はいつもの、『無』×『ジト目』×『への字口』。
三つ編みでぐるぐる巻きにされてる先生も、頭上でビリビリ感電してるけど大丈夫か?
――案の定、緊迫感が伝わらない。
でもこれだって立派な非常事態だ。
多分……、成長が速かったりして。
その時だった!
「!?」
爆風を伴う閃光弾の炸裂を想像させる“何か”が、一瞬だが強烈に、前のめりで駆け寄っていた立山の背中を圧した。
緑のお供その一が、冗談めかして口にしていた台詞が、否応なく脳裡によみがえる。
恐る恐る振りかえると、風なんか吹いていないのに、髪の毛が凛と棚引いていた。
確実に濃い紫だったのに、ひと昔前の銀髪を意味する薄紫に輝きながら。
めちゃくちゃ――
勿論、襲われているのは知己だけではなかったので、地球が誕生する際の、小惑星同士の衝突のような、相反する能動同士のぶつかり合いが群発していた。
レイ様の不思議な煌めきも、その内のひとつでしかなかった。
つまり何が言いたいのかというと、悠長に首をかしげる暇もなく、今度は“ユニコーン”が現れた。
ユニコーン?
星座が描く獣の様な雄々しい跳躍。
斬撃だけが冷厳なコンプライアンスをすり抜けて、少女にたかるコバエを一度に薙ぎ倒す。
確かに『一角獣』であることに間違いは無いのだけれど――、
馬にヒゲってあったっけ?
一瞬目が合っただけで、不安な気持ちにさせられた黄色い瞳は、蛙と同じ横長瞳孔だった。
――山羊じゃね?
っていうか背中には白鳥の翼があった。
なにあれ?
また見逃した!
花とラユアを抱き起こした時にはもう、ばたばたと倒れていたほとんどの者が、日ごろ鏡でよく目にするあの、痛覚、摘出済み。みたいな悟りの表情を、各々の顔面に湛えていた。
苦悶の表情ではなく、人間味の欠落した、ちぐはぐに晴れやかな諦めの口元がそこにあった。
気持ち悪い。
ネコ科のように低く唸るでもない、なんとも不快な、血に濡れたまま骨肉を奪い合う奇声。
超自然に選りすぐられた小猿共は既に、リアルなチンパンジーのフルアダルトサイズにまで育っている……。
仕舞は天から訪れた。
その瞬間に、頭の中で更なる進化を遂げていた桃太郎の一行も煙と消えた。
バタバタと、今度はしっかりと? 分身の人面猿たちが倒れてゆく――
苦しげなうめき声は、実際に聞かされると、ストレートに不愉快だった。
ガチガチと奥歯を鳴らしながら、塩をふられたナメクジのように、腕を抱いて縮こまる――
深夜の方がよっぽど明るかった。
何度見上げなおしてみても、どよどよと、今にも泣き出さんばかりの暗雲が空一面に、渦を巻いて立ち込めている。
『!!』
麻痺してしまっていたのは好奇心だけだ。
立山らは身を寄せ合いながらすくみあがった。
しわしわと、コツコツと、猿の手が渇きにあえぎながら、其処此処で干からびる……。
……、ちょっと待て。
ちょっと待ってくれ!
いま何が起きた??
集団でバタバタと?
寒気と貧血を訴えて――!??
ちょうどその時、冷たくなった亡骸の向こうから、犯人がぴょこんと顔を出した。
『!』
「なにあれかわいい!」
ひっくり返した親知らずに、シルエットは似ている。
角の生えた搗きたてのお餅には、翼まで生えていた。
「あっ! コウモリ!?」
夏なのに突風が異様に冷たい。
爆弾低気圧のゆりかごが、魂を誘い出すように、ちらちらと雪の花を降らし始めた。
見上げる灰色の渦潮へ、一斉に舞い上がってゆく蝙餅。
もう一度地表に吹き荒れた暴風は、雪を載せて正気を奪う猛吹雪へと急速に成長した。
女子連中にせがまれるままに、木偶の坊3人で嫌々肩を組み合ったあの瞬間が、300年も昔の出来事の様に、立山には思い起こされた。
いきなり耳が痛かった。
何もかもが何者かに誘導された『能動』のような気がした。
吹雪がやめば顔も上げる。しかし、そこに『己の意志』は無いのだ……。
風の凪いでいる台風の目。その更に中心へ、吸い込まれてゆく苺大福の大群。
『…………!!!!』
幽霊の浜風が喜色満面にほころび、
胃袋に収まりきらなかった静脈血が、
《雪吸血鬼》の口の端を伝った。