第零章 上京 029 サルゴリナイト
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緩急の、話をしよう。
いやいや、半年以上も『緩』ならぬ『急』ならぬ『休』をぶちかましておいて、何を自信満々に――??? と思われる方も若干名いらっしゃられるであろうが、まあまあ。そこはどうか、まあまあ、無料でMVを視聴し放題な現代に免じて、どうか恕していただきたい。
教育に悪い『デス♀バード』なんか、どれだけ更新されなくても、『Flamingo』を1日にほんの数回再生するだけで、きみは十二分に幸せだった。
通信制限はさておいて。
不朽の名作となってやっと、人様に娯楽を提供できたことになる――と、考えてはいる。
その地点に到達できてはじめて、『申し訳が立つ』のである。
なんであれ『一緒に成長』ガチャ――は、試みたくないのだ。
巨大魚を苦心して釣り上げた際に湧き上がってくる歓喜の情動は、食料としての畜獣を養殖する知識と技術が実在していなかった、原始時代に限定しなければ“純粋”ではない。
車両にも船舶にも、当然のことながら、積み込める荷物の量には限りがある。
同じ様に限界がある人間の脳味噌にも、確実に『名著』の誉れを得た書籍だけを、搭載すべきではないか?
イルミネーション。
ダイナソーパーク。
獰猛な肉食恐竜の鉤爪から、ひとまず逃げおおせた物陰で、身を寄せ合いながら ほっと胸をなでおろす瞬間があったとする。
その地点は間違いなく、万人にとっての『緩』であると言えるが、その直後の絶叫シーン、そいつは、劇中の主役にとっての『急』であるだけに過ぎないのではないか。
つまり、ベタであるなりネタバレされるなりして、『次に急が来る』という予測がついてしまえば、実際に劇中で『急』が描かれたところで、観客席に波風は立たないのである。
緩急をつけることが大事だと理解していて、間違いなく緩急をつけたのに、受け手には『緩緩』であると感じられてしまった。
緩急、緩急、緩急、緩急。
緩の次に急、緩の次に急、緩の次に急、緩の次に急。
…………。
たとえば『26』は『急』であった。
ではその次の『27』は?
先の切迫感を殺してしまわないように、『急』を引き継いで始まったはずだ。
そして最後まで『急』で駆け抜けておきながら、『26』で寄越された不安を、今度は綺麗に取り払って、安堵、すなわち『緩』を残した。
それではその次は?
『緩』が来るのか? 『急』が来るのか?
安心しきった心にブチ込まれれば、悔しさに悶えながらダメージを食らうことになるので、それだけは避けなければと、『急』を見据えて身構えていたら、まただらだらと『緩』を続けやがる!
――一応『急』が来て終わった。
『29』は?
また『緩』始まりだ。
人の心は不思議なもので、爬虫類愛好家はマイノリティどころか病原菌扱いなのに、『イケメン』といえば爬虫類顔を指し、広義のアジアに限定されるかもしれないが――絶対正義なのである。
大多数がヘビを嫌悪しているのなら、親戚も同然であり、確実に温かい血の流れている“サル顔グループ”に心を奪われるタイプこそが、人類という種族に置けるマジョリティでなければおかしいではないか。
ヒトは何故、サルよりもトカゲへ近づいた顔を、美形だと認識する?
あるいは太古の祖先の面影を、鋭く取り戻したゆづの目鼻立ちを。
鷲鼻は無論、爬虫類よりは鳥類に関係があるのだけれど、ヒトが鳥を好きかどうかの話を掘り下げるのはやめておきたい。
というのも、単純に『好き』と言っても、空を自由に飛べることに対する嫉妬がそこに、含まれていなくはないものだからだ。
直後に必ず『唐揚げが特に♥』と続くだろう。
動物好きをアピールする駆け出しのアイドルへ、『人間よりも?』と陰険な質問。
『あなたのことが好きです! ……2番目に』。
最初は『サプライズ3』が、蓋然性のグラフの中で、どうしようもなく幅を利かせていた。