第零章 上京 021 受け継がれる肉叢
新しい顔に勢いよく撥ね飛ばされるシーンこそが心待ちにされている年下の売れっ子には、教わることなど何もないが、息の長い年上からは、いつだって堂々と盗みを働いてきた。
手作りのサンドイッチも、世界一うまいハンバーガーも、開いて見れば雀の涙が粘着するし、餃子の餡なんて、良心が痛むまで吝嗇してなお、めちゃめちゃにはみ出してまだまだ素人。
入っていなかった時に全身へ広がる敗北の味と、入っていた場合に全身を駆け巡る歓喜との間を隔てる差異を生み出すものが、たった数グラムの『昆布』であることは、驚嘆に値する事実である。
しかしながらその昆布が、今度は100グラムも200グラムも冷蔵庫で保存されていると、反対に、『期限までに食べきらなければならない』という、重々しいプレッシャーを放つものへと変貌するのだ。また、同じ味が続くことも、予見できてストレスになる。
かといってスーパーでは、何度も通う煩わしさから解放してくれる未来が予測できるために、ある程度内容量の多い商品を購入した方が、多幸感を得られるのである。
執筆マニュアルは、今までに集めた自分のやつで十二分だけれども、そういえば丁度いま、立山はアレが欲しかった。
「……残尿、ですかね」
「ぶふっ! あっそうかい? そういえばぼくも、その境を自覚した時、オッサンになったなあとショックを受けたよ。絶対になりっこなかったもんなぁ、17の頃とかは」
「――ですね」
饗庭花。
ヴェスヴィア=ルーベラ。
理想の三つ編みを作るには毛量が足りなかったみたいで、無機質な灰色の瞳にパッと明るい影が差した。
「『執筆マニュアル』なんて10年弱あれば、誰にだって手に入るんですよ。頭を垂れて教えを乞うのがプライドに障ったわけではないんでしょうが、命を奪い合う戦場で、『自力で解読する楽しみ』まで悠長に欲張っちゃう温室育ちの美食家に、『へたくそ』と吐き捨て続けられることでも、幼稚園児のオリジナル料理は、一流のフレンチへと成長できます」
しかしながらこの話は、『不可能』か『可能』かで言えば『可能』というだけであって、『10年』を代価に約束される『絶対』は、微塵も現実的ではない。
10年……。
こんなものは『ヒトの一生』と断言しても過言ではないだろうよ。
飯を食うための職を手に入れるために、10年かけるのをよしとすれば、一体どうやって、その10年間、飯を食っていけというのか?
スネを齧り、当たりのバイトを引き当て、粗衣粗食につとめて細々と耐え忍ぶことも、やってできなくはないだろうが……、やはり10年もあれば、普通、ヒトは死ぬだろう?
10年もあれば、普通、ヒトは死ぬ。
オリンピックで通用するアスリートに倣って、『物心つく前から最終目的地へ導いてくれる両親』に恵まれた上で、そのゴールが、二次性徴をむかえた自分の本音にも嫌悪されずに済む努力??
そんなものはどの時点からも開始できない。
「建築家、あるいは建築士と一緒だった。――これは合ってますよね?」
「ん。あってるねえ」
恋愛ジャンルは大得意!
SF“は”任せてくれ!
勉強大好き、歴史もっと好き!
馬鹿だけど、ギャグならできる!
――誰でも最初はこういった、自分の中に見つけた、かすかな希望にすがるものだ。
絶望の井戸の底から。
原因はここで詳しく記す必要もないだろう、別の畑の『若手芸人』なら、大ブレイクを果たしたところで、一発屋は消えていくものだと理解できていながら、同じ畑の一発屋は、『大ブレイクを果たした成功者』として妬んでしまっていた――これに尽きるからだ。
「注意深く読みかえせば、大好きな『古典の探偵小説』の中にも、大嫌いな『成功哲学』あるいは『自己啓発』的な、『人生のネタバレ』は、差し込まれていたことに気がつくものです」
「そうだね」
キッチンだけは設計できますが、他はできません。
寝室だけは設計できますが、他はできません。
子ども部屋だけは得意。バス・トイレだけは得意。リビングだけは得意。客間だけは得意。ベランダだけは得意。屋上だけは得意。階段だけは得意。玄関だけは得意。駐車場だけは得意……。
二兎追う者は一兎をも得ず。――この忠告を真面目に聴き入れたつもりだった。
また、無意識に、常識的に、ミステリからお笑いまで全てのジャンルを研究して我が物にする――なんていう発想が閃かなかったし、当然そんなことは頭の良いエリートにしか実行不可能だと、頭から決めてかかっていた。というのもある。
ではこの行為が、不可能ではありませんでした。
紆余曲折を経て、二十歳を過ぎてから執筆を開始したのにもかかわらず、奇跡的に、10年間をほぼ無傷で切り抜けられました。
――するとどうなるか?
大成なんて夢のまた夢。
今度は、『体力・気力』の方が、大いに失われてしまっているのである。
あれだけのことが当たり前にできるようにならなきゃいけなかったのに、それでもまだまだ、あれもこれも必要だと注文をつけてくる!
そういうのはもういい!!
誰からも何も言われなくなる地点が、永遠にやってこないというのであれば、この先どんな些細な努力も、積み重ねる『気力』が湧きません。
「しいたけでビタミンDを補ったり、まいたけで免疫力UPを期待したり、豚肉のビタミンB1を、ニンニクのアリシンで吸収したり。カルシウムもお酢と太陽光で吸収率を上げ――いろんな方法で栄養不足を、今更になって取り戻そうと試み始めたんですが、いかんせん体力が戻らない。気力が蘇らない」
思い当たる原因は山ほどあった。
次は自分たちの街がやられる。
エアコンプレッサーで死ぬとは思わなかったチンパン以外は、普通、こんな不安を抱えながら生きているものだから。
「結婚も人生の墓場ではないんでしょう、免疫力と新陳代謝の高い“選手村”にとっては。女性が膀胱炎になる仕組みを理解した時は脳味噌がしびれましたね。命を懸けて辿り着いた天国で、愛し合うためにも、我が子に会うためにも、更にハードなリスクを冒さなければならないのなら、一体どんな男子が全力で努力できますか? 女性サイドから仔細にわたって事前説明がなされていなかったことを責めはしませんが、『ヒキニーは高収入を得られるようになったところで、フレンチキスまでしか肉体が耐えられない』と初めから分かっていれば、自分だって園児の頃から、毎日々々筋肉痛に歯を食いしばって、オリンピック選手を目指しましたよ」
無論、脳味噌まで筋肉では、肉の関門は通過できても、収入の面で辛酸をなめるリスクにつきまとわれるのだろうが。
自身が女体側だったなら……よかったかなとも立山は考えたが、男性には経験の有無を明確に見極められる身体的特徴さえ無かった。
なんにせよこの世は地獄である。
王族でさえ逃れられない。
受け継がれる肉叢からは。
「30でなくてもいいですけど、ガクッと体力を、見失った時期ってありましたか?」
そしてそれをどうやって、先輩は切り抜けてきた――??