第二章 女性の楽園 第七節 秀外恵中
七
ああもう、言い訳から入りたい!
ぼくはおそらく最新の医学では既に単なる病へ分類されているだろう、強迫観念と被害妄想と自意識過剰と負けず嫌いと完璧主義的思考を引きずったまま走り始めた。
自己肯定欲にも負けた。憤懣もぶちまけたかった。来賓用のスリッパだった。月歳に追い抜かれそうになったので、そこから一転、晴れやがった忌々しい運動会当日のように、存外と楽しくなった。
コンクリート塀を蹴り、フェンスを遮二無二乗り越えて、プール中央にだらりと浮かぶ、見知った背中をまのあたりにするまでは。
「ギラ――ッ、ファファファファファ!」
「あっづ――――ッ!?」
「あ熱ぢゃ――――っ!」
逆にいろいろと失念していてよかった。ここからなら救出も脱出もさほど違わん。阿吽の形相で1歩か2歩か。ナナフシの腕を伸ばし、鷲掴んで引き返す。
月歳が素早く先にあがった。よい、しょ! 熱に濡れて瞳を閉じる今の彼女は、これまでに見たどんな火菜よりも秀外恵中で、なんだか遺棄を共謀している気分になった。
逆なのに。
「ギラファファファ――――ッ!? ギラーッ!」
「熱いっ! ってか痛い! 剥けるわ!」
「本体が熱いよこいつ! 当たり前だけど!」
大股で競歩して蛇口をひねると、ざあっと雨が出たけれど、そうだそんなことより先に!
「気道確保!」
「胸骨圧迫!」
しかしいくら省略してもいいとは言っても、見ないようにしているうちにずいぶんと母体に近づいていて、正直この状況では三重の意味で邪魔だった。心臓が一番熱かった。
「あー! もう! あっち! シャワーかけながら、顔にかからなきゃいいだろ、」
「おし!」
今度は谷に落ちたアンドロイドの修復に精を出す機械工。養殖マグロの捕獲シーンを思い浮かべて逆効果。と、そのとき口が、水をゲぼっと吐き出した。
がばっと上体を起こして茫然。透明な鼻水が一滴。くしゃみでしかめてどどっと咳き込む。
大丈夫かと背中をさすろうとして、思わず抱きしめてしまったのは、ふたりとも同じタイミングだった。
「ぬゎ~っ!? あつくるしいっ!」
抗議に構わずふたりでふがふが。
ほっぺにちゅーして耳がぶぅがぶ。
「うひぇ、こそばゆい! んふふ……! んぅ♪ ……んぇ? ちょっ、んん――っ!?」
5,000キロもの道のりを自力で踏破してきた愛猫を寵愛する飼い主だと自負していたけれど、冷静に鳥瞰するとこちらの方が、たった1分姿が見えなくなっても泣いちゃう犬だった。
「どこの骨も折れていないか!?」
「内臓破裂とかしてないか!?」
「あー、うん。別に? しゅる。しゆ。――それよりあんた、妹は?」
「ああ、そう、それなんだけどな、お前も同じくらい大事だったし!」
「一度無様に食われた俺が残っていても、どの道守れやしなかった!」
「それに館内の方がまだ安全で、危険区域へ特攻してきたのがむしろぼくたちで、」
「おお、ありがとー」
「、そして向こうにも一応ほかのぉ~~~、なんだっけ!?」
「えー、《ふしぎ哲学魔女 リリーリュケイオン》の、」
月歳のスマホの向こうで、3ACEの眼がとらえる。金狼耳を頭に生やした黄金色の魔法少女が、自前のステッキで《一角的反復練習》。
高速で回転しながら迫り来る問題集を、ノコギリクワガタの髪型が次々と切り刻む。まだ絶望はしない顔。校庭を駆けつつ次の手を考える。たとえ少女にふさわしくない、怒りへ皺が寄ろうとも。
「嫌だああああああああああああっ! 俺は! 発展途上国在住の子どもたちを見下す悪人になんか、なりたくないいいいいいいいいいいいっ!」
杖がしゅらりと大型の三角定規へ変形、ドリルがワークへ進化する!
「《逆叉的仕事中毒》ゥゥゥウ!!」
「《金字塔逆転式階級制度》ッ!!」
しかし今回は全弾命中したのにもかかわらず、テカテカにパンプアップした逆三角の肉体に、ことごとくはね返されてしまった。
威力の増した《逆叉的仕事中毒》でさえ、男子の憧れを打ち破って、詳らかにすることはできなかった。
『恋』『友』『夏』――これで全ての標語が判明。
反省する暇もなくなった。
「《職種別五目機械》!!」
「きゃああっ!?」
嗚呼、奴はなんて男子小学生の夢なんだ!
ボコボコと5つ、目玉が浮き出たランドセルからノズルが放たれ、《帰納》の魔法少女を蟹挟む――。
しかしながら、そこから先の映像は、大別してふたつの理由で見られなかった。
第1に、ぼくの妹がいてもたってもいられなくなり、カメラウーマンに撮影する余裕がなくなったから。そして第2に――、
お箸にまとめてさらわれる、おそうめんの気分を実体験したぼくは、サドルくらいつければいいのにと考えた。
飛べればいいから的な思考で、未だなんの装飾も改造も施されていない箒。同乗した持ち主は先端に燐と屹立していて、それなら別に必要ないのかもしれない。暑いだけ、風が強いだけで、特にインナーは渇く気配を見せなかった。
しかしどうして急上昇?
『うおああああああああああああっ!?』
「《炎の稲妻かかと落とし》アアアァァァ――――ッ!!」
標的へ直撃するべき右のかかとへ、なんと垂直に接続された『YES』の先が、じゃごっと120度展開。『↓』が真っ赤を越えて恒になる。
熱烈ってレベルじゃない。
N字になった我らの頭が炎を噴射し超加速。島ごと消滅させる気か。声が消えておでこが露出しそういや耳が痛かったっけ。眼鏡をなくしたぼくが葛藤、地表来た!
「《摩天楼崩し》ッ!!」
閉じた大顎を用いての邀撃!
主を爆弾のように投下した箒が、すれすれで方向転換したために、激突の衝撃は背中で感じる結果となった。
そうでなくとも眼鏡がない今、園児に泣かれるほど藪睨みをしてみたところで、何もかもがぼんやりとしか映らなかったのだけれど。
山場のGを臀でこらえて天が眼下へ流れ去り、再び地上が降ってきた。停止を待たずに飛び降りて、ふたりがかりで刃楼を止める。
信じられない推進力。
ぼくはついに来たかと思った。
握美ちゃんは中学へ上がってからだったらしいけれど、肉体が女性ならいつその日を迎えてもおかしくはないのだから。
少なくともこれは、目覚める直前の迸り。
前兆。
前触れ。
ある種のサイン。
しかし火事場の馬鹿力というものは、単なる偶然の煌めきに過ぎず、たとえ華々しく開花したとしても、自衛隊で訓練を積んだ熟練の魔法少女と比肩できる強さを、いきなり手に入れられるわけがない。
現に今、無能力者ふたりの力で結局抑え――破片が足元に突き刺さって、デジタル表記の3の花。3人して硬直。いろいろと混ざりすぎなゲテ歳がまた、探り探り変な笑い方をして、自己中心的な平等論を、見知らぬ資産家へ投げつけた。
《リュケイリュカオン》に続いて、《ピュリティブレイド》も戦闘不能。
メンタルが人一倍脆弱なぼくは、絶望するではないにせよ、最早ここまでだと潔く受け入れる方が心を守れる段階にまで、ひとり勝手に追い込まれた。
それともこう考えるべきだろうか。
どうせここには本部があるし、きっと他の魔法少女が、あるいはぼくのママたちが、もうすぐ駆けつけてくれるはずさ?
ヴァイラスを圧制した古今未曾有の白血球は、またしても眩い炎だった。




