第一章 白百合十字団 第四節 仔牛肉のサルティンボッカ
『凶暴』というテーマから、いつだってぼくは、Saint-Exupéryの『夜間飛行』に付された、『空のいけにえ』を思い出す。
ぼくとしては、わざわざ見に来て、低評価を押して、『かわいそう』だとコメントを残していく層の思想の方が謎だ。
何がしたいのか全く解らない。
見たくなければ見に来なければいいのに。
そもそも『やる偽善』に、どうしてそんなに自信を持っているのかから不思議だが。
(『かわいそう』発言と『やる偽善』を、どうやって関連付けたのかも皆目不明である)
では逆に、なぜ見ないのかを考えよう。
(シンプルに、グロ耐性がないから――かな……)
なんであれ明快だ。
仔牛肉のサルティンボッカを見て踊りだしたくなる人の方が、多数決で勝っているのが、正常な地表だろうから。
個人的には『おいしそう』などとは微塵も思わない。むしろ真逆で――そうだな、汚ねえな、下品だな、低能だなと『不浄』を蔑めば、ただそれだけで、あるがままの人間の知性の、輝きが増すように感じられるから――かもしれないな。
(ヒトが撥ね飛ばされる事故動画を漁るぼくよりは確実に徳が高くなるから)
『偽善』について何度も語ろう。
まずもってして、『やらない善』というものがありえない。
だから『やる偽善』なんか、一つもやる必要がない。
ぼくはそう考える。
たとえばゴミ。
生産しない方が、リサイクルをするよりも、エネルギーの浪費を抑えられるなんてことは周知の事実だ。むしろそのまま埋立地の一部に変えた方が、洗浄して乾燥させてもう一度熱を加えることよりも、コストがかからなかったりする。
よって今日一本ジュースを我慢した――それだけで、買って飲んで容器を捨てた並行世界のきみに比べれば、きみは、ゴミをペットボトル一本分、地上に生産しなかった善人になる。
たとえば自殺。
きみが今日命を絶ったとする。
人口過多で食糧危機真っただ中の地球における、よその家庭の立場に立って考えた場合、職場の座席がひとつだけでも空いた――、この結果は純粋な『悪』なのか?
視点さ。
普通に考えて、発行部数を増やしながら、森林伐採を減らすことなんか、できるわけがないじゃないか。
美人ちゃんをGETできた元NEETは、孫の顔に期待が膨らむ両親を感涙させられるが、キモオタに愛娘を奪われたあちらの夫婦は、子孫の外貌に悲しみを覚えてむせび泣く。
そこは『諦めない想いの力』なんかで、どちらの行為も善であることになど、できやしないポイントだ。
どの視点から眺めても善になる行動は、当たり前ながら、電子なる書籍よりも発見し辛い。
従って更に『偽善』なんか、やってる暇はないんだよ。
人は『できる善』を見落としすぎている。
全力で目を背けていると言っても過言ではない。
たとえばぼくが今日一日黙っていれば、傷つかずに済んだ人間がどれくらいいただろう?
全員が一生黙っていれば、誰一人として永久に傷つかずに済むのに、誰も彼もが率先して喋り散らす。
あの一言が、あの愚痴が。
あの呟きが、あのマウントが。
無神経に吐き出されることが、もしもなかったのであれば!
虚栄心に負けた? そいつは悪だ。
自己顕示欲に負けた? そいつは悪だ。
感情を制御できなかった? そいつは悪だ!
何度でも『ワインと泥』の話をしよう!
ここに『我が子を愛する母』という、極上のラーメンのスープがある。
こちらには『性欲で企むストーカー』という、毒にしかならないドブの水。
そして真ん中の容器に、スープを6、下水を4の割合で注ぎます。
円グラフで正確に視認して、いつものように四捨五入♪
偽善は善でも悪でもないけど大別するなら善になる――と主張するのなら、どうしてきみは、疑似餌にも見えない毒針つきの死肉に、一切箸をつけないのかね?
相手にしか取り分がない儲け話――そんなものは、純粋な悪となんら相違がないからだ。
一度でも汚水と杯を交わせば、そいつはれっきとした生粋のドブなのさ。
この世には善と悪しかない。
ほんとはそれって、『やりたくない善より、やりたい悪』なんじゃないの?
一緒にお風呂に入ってほしくて、高価な宝石をプレゼントする努力を、やめろとぼくは言わないよ。
むしろ満面の笑みで奨励する。
好きな人には出来るだけ沢山プレゼントを贈った方がいいからな。
もしぼくがかわいい少女だったなら、財布とバッグとコートをそろえて3月14日に持ってこいと、笑顔でてきぱき注文しながら、クラスの男子全員に、手作りチョコを渡すのだろうし。
手汗を練りこんだ飲食物。
そいつは“悪”でいいじゃないか。
せめて偽善認定を受けたいと喘ぐ、潔癖の利潤がわからない。
見返りを渇望する一方的な自己愛入りの、行動は全部『悪』でいい。
サイドを伸ばして不自然に被るよりも、ひと思いに丸坊主にした方が格好いい。




