第一章 白百合十字団 第一節 魔法の定義
キーワードは『定義』。
「……ああ、いえ、もう逃げました。はい。はい。毎回本当すみません。助かります。ええ、まあ、ぼくはガキなんで、そこはしっかり……、はい。それでは……、すみません……」
はるかなる大昔、娯楽の世界において大流行した、外見だけ見目麗しくて中身がまるでない、意外性第一主義的な風潮が完全に勢いを無くした凪の現在。ここから幕を開けるのは、人の数だけ異なっている、抽象概念の定義の海を舞台とした、“抽象的大航海時代”である。
「なぁに? 誰か来たの? なんかうるさかったけど……?」
「んー? あー、単一科学教の勧誘。今時単一科学なんて、信じようがないのにな?」
「ふぅん……」
もし、そうではないものをそうだと定義したまま生きていたとすれば、それはある日突然、慈悲深い真実の光によって、内臓が飛び出ようがお構いなしに、初めから実在していなかったことになり、莫大な代価を支払うことなしには実現不可能だと思われていたあれは、みんなの大嫌いなゼロ円で、初めから空気のように平然と、どこにでもありふれていたことになる。
クニマスのような事例は絶対にこの世にひとつも残っていないと、一体誰に言い切られる? シーラカンスも漁師の目には、妙な魚としか映らなかった。というのも、人は『百聞は一見にしかず』という自尊心を満タンにしてくれる諺を、初恋のママのように愛しているからだ。
人は眼球からの情報に頼り切って生きている生き物なんだから、百聞は一見にしかずなのは本来言うまでもないことだ。なのになぜ改めて言うのかというと、『一見すればオレは神!』と思うことができるため。だからわざわざ序列二位である聴覚なんかを持ち出して、視覚を持ち上げた。味覚や触覚は論外として、嗅覚を貶めると、嗅覚の分野では、人間様が犬コロよりも下位存在のサルだということを、いちいち再自覚し続けなければならないから尚更に。
しかしだな。
そんなプライド第一主義的な石器時代も、さすがにもう終わるしかないんだ。
「心ちゃん髪の毛触るの好きねぇ?」
「うん、超好き。いいにおい。肩揉んであげよっか? 肩揉みたい」
「んー、どうぞー。あー、きもちー」
一億回見たところで、フランクリン並の行動力がなければ、運動エネルギーから電気を創り出せるという真実は発見できなかったわけだし、一兆回見たところで、ニュートン並の知識しかなければ、ニュートリノに質量があるという真理には、誰ひとりとして到達できなかったわけじゃないか。
《京見は勤勉に如かず》。
一京回物を見る努力は、勤勉の生活習慣を身につける努力には遠く及ばないということ。
転じて、たった一度きりの努力で、永遠に繁栄したいと望んではならないことのたとえ。
「リンパもやる。首~」
「ああ~、上手よ~? ん~♪」
たとえば次のような例文がある。
『あなたは神さまを信じますか?』。
ぼくは無駄に広い謎の空欄を不思議に思いながらも、信じないに意気揚々と丸をつけた。担任の先生が初孫を抱いたおばあちゃんを連想させるスマイルになるほど、ぼくの解答は超王道系の大々々不正解だった。
小学三年生の春である。
何よりも、多数派に属しているという烙印を押されたことが不愉快千万だった。自分と同じ考えの人間が複数人実在しているということは、自分なんか存在しなくても構わないという結論と、寸分たがわず同義だったからだ。
裏の裏をかいたりしないで、信じるに丸をつけておけばよかったか。
あちらも思いっきり不正解だった。
先生ずるいのシュプレヒコール。
「はいそれではー、神さまという単語を赤いペンで囲みましょうー♪」
何故かぼくたちは突然黙って一斉に指示に従った。
「では次に、みなさんの信じる神さま、信じない神さま、どちらでもいいですし、両方でもいいですから、それは一体どんなものなのか、思いつく限り、下の空欄に書いてみましょう」
「せんせー、絵はだめですかー」
「んー。もう一枚あげるから、両方やってみてー。はいー」
クラスメイトの考える、三十三通りの神さまのうち、説明文が一言一句合致するものは当然ひとりもいなかった。
つまり、ぼくたちはてんでに、自分が創り出したオリジナルの神さまを、それぞれ好き勝手に信じたり、信じなかったりしていたのである。
そしてぼくは、このときやっと、よく考えれば神さまについて詳しく学んだことなど一度もなかったという、当たり前の無知に始めて直面して胃を痛めた。
先生は言った。
「つまり、握刀川君たちが信じない、『祈っただけでどんな願いでも叶えてくれる存在』――これが、神学の世界における『悪魔』の定義と、みごとに一致するわけなんですねー」
(?)
(ということは、ぼくはただ単に、悪魔を信じていなかっただけなのか……?)
「それでー。神学の世界における、本当の『神さま』の定義とは!?」
好奇心を刺激されたぼくたちが焦らされて、教室がしいんと静まりかえる。
「おいしいごはん! ――誰かが作ってくれているけれど、もとをただせばなんですかー?」
「ぶたー!」
「うしー!」
「にわとり!」
「だいこん!」
「カレー!」
「カレーはブー。じゃあそのもっと前はー?」
「くさー!」
「おみずー!」
「ぎゅうにゅう!」
「ぶたのフードww」
「んー。はいじゃあそのもっともっと前はー?」
誰かがぽつりと土とか言った。海……? 雨……? びせいぶつ……と皆が顔を見合わせた。それ以上は、当時のぼくたちには解らなかった。
「じゃあお母さんは誰から産まれて来ましたかー?」
「おかあさんのおばあちゃん!」
「ちがうよおばあちゃんで、おかあさんの、おかあさんで、」
「はいじゃあまとめー。静かになったら先生喋りまーす」
いきなり机につっぷして昼寝を開始したので、ぼくたちは議論を放り出して十秒間、耳鳴りにちょっぴり恐怖した。
先生が、がばっと起きあがる。
「楽しいな。嬉しいな。ハッピーだな。幸せだな。――自分のもとへやってきた、そう思えること・ものを、どんどんどんどん遡っていくと、過去の物質・昔の出来事の、ほとんど全てを指すことになります。
マンガにゲームに太陽光、果てはビッグバンに至るまで、私たちの幸せを形作るのに必要だった、全ての事柄をひとつずつ名前で呼びながら感謝してたら、人生ガチで終わっちゃうぞ。何かこの、”感謝したいもの全体”にふさわしい呼び名はないかな? うちのクラスのみんなを端的に簡単に説明できる、『三の三』のような名前があったら、いただきますと、ごちそうさまと、ありがとうを言うときに便利だな。
――はい。もうわかりましたね? こうして誕生したのが、『神さま』という、”人が感謝したい対象全体”を指し示す便利な単語です。
鮭おにぎりに必要とされた生き物の全て。教科書作りに精を出してくれた先生方の全て。私たちを含む、この世に産まれて誰かに幸せをもたらす存在の全て。それが本当の神さまの定義なのです。
神さまとは、信じるとか信じないとかいった種類の事象ではないのです。ですから、『あなたは神さまを信じますか?』とかいった、意味不明なセンテンスにまったく違和を感じられない、自主的なお勉強がもっともっと必要な大人だけは、なるたけ信じないように心がけましょう♪」
あの日、無神論者がこの世から、いや、ぼくの中から、初めからいなかったことになった。
さて。
独断と無断で掲げた虎の威を借る看板だけで、おおよその展開からベタであるべきオチまで読み解けてしまったと思うので、口を滑らせてしまわないよう早々に切り上げることにするが、それでもあと少しだけは詳らかにするべきなので、ぼくもまた、独力で独学したんだもんと、クソふてぶてしく呟こう。
何もかもがそろいにそろった先進国に生まれながら。
苦心して獣道を開拓してくれた先人のおかげで、トップページへ来訪してくれる読者の数が激増した後の“温室”の内部から。
嘘と政治の入り混じった、お料理中の甘ったるい嬌声しか届かない、母胎の最奥から。
『殴る蹴る』さえ愛しいと、目を細めて感じてくれる、血と肉と漿液の学習机から。
酷く生意気に。
いけしゃあしゃあと。
魔法。
魔法の定義。
ぼくがわたしがてんでに考える、一般的な魔法の定義。
それでは。
きみは一体、どんな魔法が現実世界に実在しないと信じない?




