第四章 BRBB 12 共感と地獄
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巨人ファンと阪神ファンが、同じ時間に同じテレビで巨人対阪神の試合を観戦――これが、血縁的家族内部で必然的に発生する地獄だ。
ハシブトガラスから命からがら逃げのびたオオカマキリのもとへ、ナミアゲハが産まれる。カマキリに暴力で育てられたアゲハのもとへ、モンシロチョウが産まれる。
私は暴力で育てないように一生懸命頑張った! 私がしてほしいとどれだけ願ってもしてくれなかったことを、全部あなたにはしてあげているのに、どうしてあなたは文句ばっかり言うの!? ――と、彼女は、我が子にミカンの新芽をたっぷり与えながら怒鳴り散らす。モンシロチョウの幼虫は、キャベツしか食べられないという当たり前の事実も知らないで。
現在の人間社会とはこのようなものだ。絶対に虐待をしないためには、全生物の生態を完璧に暗記するように、この世に存在する全ての嗜好を研究し、正気を保ったまま甘受しなければならない。そんなことは、笑っちまうほどに、ガチの神さまにしかできない。
人間がもし身体的特徴によってのみ住み分ける生き物であったなら、倫理なんか微塵も必要なかっただろう。しかし人は何を好きで何を嫌いかといった、目に見えない心の特徴で住み分ける生き物なのだ。そして現実世界では、そういった性格や個性、趣味、嗜好は、知識と同様、ごく曖昧にしか肉体的には遺伝しない。ところがこの科学文明の真っただ中にありながら、大嫌いな占いと同じように、このこともまた信じたくないと密かに考える人間が、数多く存在している。何故なら良い働きアリになるように、機械的な能力を向上せることが善だと育てられてきた結果、道徳心が僅かしか発達しておらず、共感以外から幸せを得る方法をほとんど知らないからだ。
よくマンガやアニメで『更なる強大な敵を前にした際』に、昔の敵が必ず仲間になるのは、『生と死』に関して『共感』できる状況が発生したためだ。借金取りを前にした仲の悪い両親や、大災害を前にしたいけ好かないお隣さんと、手を取り合って幸せになられるのも同じ理屈。『共通のものを嫌いになる』という『共感』で、幸福感が産まれている。
大切なのは『共感による幸せ』をもっと意識して認識することだ。手に入れられてもそれはそれと逆に気を引き締める天邪鬼。手に入れられなくても、他のものから摂取すればいいやと潔く切り替える勇気。この両立が大事なんだ。共感以外からも幸せを得る方法を探せ。幸せを欲するたびに共通の敵を渇望するようでは、共感の強要地獄を永遠に打破できない。
共感以外からも幸せを得られる人は、スポーツマンシップに則って、肉親だろうと関係なく大嫌い。あいつのことなんか笑顔で顔も見たくない。敵チームを好きになるバカがどこにいんだよ。と、当たり前のように考えて生きている。だから潔く大嫌いでいいんだよ。共感できない肉親なんか。人生とはある意味においては確実にスポーツなんだから。好きなものが違うというのは、贔屓の球団が違うということさ。それだけなんだ。悪じゃない。
彼氏がドラマ嫌いだったから別れた。彼女が犬好きだったから別れた。親友が、おすすめした本をつまらないと言ったから絶交した。――こうした不幸は、共感を適切に求める能力が、ほとんど鍛えられていない場合に発生する。共感以外からも幸せを得るマニュアルを、ひとつも探究しなかったがために巻き起こる。
一途であることの神聖視。
悪行潔癖症による“やる偽善”中毒。
共感からのみ幸せを得ようとするライフスタイル。
この三つの組み合わせが、史上最悪の地獄を産む。
ひとりの人間に『共感という癒し――という甘い汁を寄越してくれる、自分と全く同じ個性』と、『共同生活をより豊かなものにするための、自分に欠けているものを補ってくれる個性』を同時に求めるのは、不可能ではないとはいえ、圧倒的に非効率だ。
ともしなくとも理不尽だ。
一途が絶対王者だった時代は、家の外で浮気をして当然だった、人類の暗黒期同様、永遠に過去のものとなる。それからしか幸せを得ることができない人間は、将来必ず自分が育てた愛しのカラスに――反哺の孝なんてとんでもない――、寝首をかかれることになるのだから。




