第三章 鬼謀 B‐13 新緑色の稲光
流し込まれた醤油でむせ返る味噌顔ティシューペが、太鼓腹を蹴り上げられて嘔吐する。
「朧ォオッ!? ゲェ――ッ、ゲゲ!」
思い出せ、傍観者。
モモペ、杣山、千見錦、細流らいあ、よし全員居る! しかし――、いつものごとく抑えの利かないキュリオシティで、せっかくの擬態を自ら台無しにする若作り丸分かりインスタ蠅が、我が子を隠れ蓑にして四方から山のように迫り来ていた。
邪魔だ。
逃げられるか?
あのときはどうだった?
「ケァ――ッ!? ッ、ッケァェ――ッ……! ッ、ッッ……?!?」
歩きスマホ、やめろおや。
確かこんな感じだったな。
「……なぎく……なや……!」
「!? っぐ、……食って……ねえ、んだス……?」
それからブスって言うなとか、自分が面白ければいいのかとか、ドSならダメージを受けるなとか言って、まったく別の悪事を働いた、深夜にやかましい暴走族を掃討したんだ。
「うなぎッッッ! 食うなやああああああッッッ!!」
『!!!』
再び膿血が飛散することはなかった。手足の指先が踏み潰されることも、頭蓋を陥没させる一撃が顔面へ面白可笑しくぶち込まれることも、焼鳥の串で角膜に落書きを施されることも、超絶上向きの超絶団子豚鼻を高温の鉄板へじゅうじゅうと押し付けられることもなかった。
四度目の夕食で九十キロを大幅に超過したドラム缶。
圧迫感を緩和できるよう、ゆとりをもって設計された高い天井。
おれは生まれて初めて“においやか”という言葉の本然を自得した。
沸点に到達した瞬間、事務的に一応輝いてみせたあと、跡形もなく消え去ってしまう慣れ親しんだ羞恥が、今は、続編を二次創作するしかない幻の短編のように感じられた。
誰がこんな寒い夜中に、窮鳥を突き放したいと望むだろうか。しかし行かなければならない。杣山と千見錦へ押し付けて踵を返す。乱暴でもいい、膝裏を左腕で掬い上げると、百千鳥モモイロペは、思ったよりあっさりとつかまった。
軽い……。
両手で顔を覆った百千鳥が、おれの懐へ顔をそむける。新品のバスケットボールを思い切りバウンドさせてみた音だった。白い骨はどこからも突き出していない。他人の虫歯の痛みほど、ちっぽけに思えてしまうものはない。費用そっち持ちで救済しろと訴えかけてくる遭難者の瞳には、威圧感には程遠い、身勝手な自信が漲っていた。
「たすけてぇぇ……っ、たっスッけてぇ……っ、うあぅいだいよぉ、だずげで誰がああんっ!」
口元だけが一足先に富裕層。
粛清Z印の巨漢がパチパチと、場違いにも程がある拍手を開始する。
空恐ろしい独りアプローズは、みるみるうちにこの斬新な映画館を包み込んだ。
アメコミ体系なる国産ヒーローの例にもれず、彼の背骨もぴんとまっすぐ居丈高に反り返っていた。
おれたちはそれらしい理由でもって己へ向けられる嫉視を、謂れの無い怨恨を、理不尽極まる中傷を、まさかの主食に変えることによって、劫初以来生き延びてきた。徹底して率先して積極的に能動的に、被害者認定を受けられそうな道を返上してきた。願い下げてきた。
それゆえに、明確な動機のない悪人には太刀打ちできない。意趣返しできない。
いや、誰だってそうか。
誰だって、無差別殺人鬼に襲われれば殺される。
本物の不死身でもない限り。
もう一度電話が鳴った。あいつはあれ以上何を知らせてくれようというのか。どの道にしろ、こっちはこっちで手一杯だった。なにもかもわけがわからなかった。むしろこっちが、
助けて誰か?
うっそだろ。
東側の壁には既に螻蟻を阻む余力も残っておらず、落盤の微かな予兆が悲鳴を一層研磨した。
うっかり描写し忘れていたのだが、おれは実は眼鏡男子じゃなかったんだ。
先端が稲妻状に節くれ立った、オレンジ色に発光する長い髪。
額に一角、右目に眼帯、手に刀。
そして、高学年と見紛うほどの低身長……。
新緑色の稲光を縦横無尽に迸らせながら登場した謎の少女は、弱者のピンチに駆け付けた、新たなるヒーロー以外の何者にも見えなかった。