第一章 三目人形 10 USB時代
今から約一年前、超でっかい隕石が、六千五百五十万年ぶりに飛来した。
ユーラシア大陸に直撃。
ウルトラ・スーパー・ブラック時代が幕を開けた。
いや、笑ってる場合じゃないって。ガチで大変。もう、エクストリーム負の連鎖。地球が黒くなったり、国家が消滅したあとに誕生した更地を巡って戦争が始まったりと、大体誰にでも想像できるような悲劇が悲劇を産んだ。
とりわけ心配だったのは、舞い上がった塵芥の所為で、太陽光を満足に浴びられないこと。アホなおれは数日で死ぬと思った。でも死ななかった。大昔の話だが、どうやら哺乳類はもともと日陰暮らしに特化した、裏方の生き物だったらしい。むしろ紫外線や放射線の浴びる量が少なくなるため、より長寿になるのだとか。
大洪水以前のように、真っ暗な世界でモヤシみたいにひょろひょろ生き延びてもなあとぼやいてみたけれど、よく考えれば葉緑素も持っていない上に、変温動物でもなかったので、直撃を免れてしまったおれは、逆に死にようもなかった。
死にようもなかったというのも不適切かもしれないが。
生きたいと思い続けるのが難しかったのもまた事実だ。
まず酸素の心配をしろって? うん。そうだよな。でもなんだろう、目に見えない方の心配は後回しになっちゃったというか。青空が戻ってきたらどうにかなるだろうと思っていたというか。昼が消える以前にも、標高八千メートル級の山とかで暮らしてる人がいなかったわけでもないし。
結果的に、未だに雲の晴れない現在でも息ができていることに違いはないわけで……。直射日光を浴びたら枯れちゃう、縁の下の力持ち系植物が、相当数働いてくれているのだろう。流石に昼間はうすぼんやりと、しゃ、シャークグレーに――いや使いどころはここじゃないか――明るいし。うん。あいつの髪を見たときに――だ。
でなけりゃ、ユカタン半島沖がやられたあの時も、半年以上続いた夜の間に、六割と言わず十割の生物が酸欠で死に絶えていなければおかしく、人類など誕生しなかったことになってしまうからだ。なんだそりゃ。わけわからん。
多元宇宙?
並行世界?
時間遡行?
第三者の介在がなかったとは誰にも証明できない?
つまり、平凡ではなくとも、平民であることには間違いないおれたちにとって大事なのは、謎解きよりも飯の調達。反省や憂慮はほどほどに、今日生きて今日飯を食らうこと。就職難や大恐慌が小三の算数ドリルに見える、このUSB時代を生き延びる方法を考えること。
そしてハグ!
だってちょ~寒いからぁ~、欧米式にやってかないと生きてられねーの!
おれはかにんちゃんを近所の空き地に着陸させ、逃したあいつらを思い浮かべながらオリザ姉に甘えてやろうと勇み足で玄関へ向かった。
――のだが、
「はぁぁぁぁん♪ みんな、つるつるで、とぉっても綺麗よぉ……っ♪」
「お肌が? お肌がってことよね? それとも髪? どこ見てんの? ちょっ、近い……!」
「近眼だからよく見えないのよでも近眼だからこそ近くのものは普通の人の千倍鮮明に見えるわ美しいッ!」
「怖いわっ!」
風呂場の窓から溢れ出てきた灯りと湯気を目に、聞き覚えのある声を耳にして足を止めた。
「ああっ、こんなにもうへへ、うっ、うふふ……、いっぱいが、いっぱイィヒヒ……!?」
「ねえちょっとだけ。ちょっとだけでいいから見せて? ずっと見たかったのお願い!」
「だめぇっ! 右目はっ! 右目だけはぁっ!」
「あー狭い! お前らさっさと体洗え! あっ、そうだ。どうせこれだけの髪を洗うなら……」
『わ~、泡風呂だ~!』
「だめ! まだ! ちゃんと足の裏とかを洗ってから!」
「足の裏『とか』ぁ~~~っwww いや~んwww わかりましたぁ♪ 洗ってあげま、」
「あーもういいよ入れよ!」
ざばーん。
ばしゃーん。
きゃははは!
「…………」
帰る家を間違えたか?
泥酔してもいないのに?
おれのことだ。大いにありえるが――、表札を見る。
そこには確かに『狼坂』と書かれていた。
もしかしておれ、実は死んでた?
壁をすり抜けられなかったからやっぱり生きてた。
プラスに考えよう、実体があってこそハグできる。
なんにせよ。
隕石が降ろうが夜が明けまいが、女は変わらず元気です。
玄関の扉を開ける。
人数分の靴を確認。
さっきの声が幻聴という線も消えた。
「はあーっ、なんでもいいけど、普通はあれだけキャラが濃かったら、それぞれ別のクラスになるで」
トイレのドアをかちゃりと回したところで、おれと目が合う。
「しょ……」
その声と背丈と髪の色から全てが判っていても、『誰?』と思わずにはいられなかった。
何故ならヘアゴムを外して髪をおろしただけで、十二分に印象が変わっていたのにもかかわらず、あの特徴的な瞳の色まで、普通のこげ茶になっていたからだ。
ゴールドラメ入りのライムグリーンの虹彩及び縦長の瞳孔を生まれながらに持つ人間などいるわけがないことは、生物学的見地から鑑みても明らかだったし、校則をガン無視して髪を染めるような女が、カラコンを装着する確率が低いとも微塵も思わなかったのだが。
「きゃーっ!」
双眸が押さえられて、
やっぱりそこか!
「きゃーってどうし……キャーッ、ストーカーッ!」
「その台詞! お前にだけは言われたくねえよ!」
「え? なに? なんで狼坂がここにいんの?」
「おれの家だからだよ! 全部天真爛漫川の罠だ! っていうかお前の恥部はほんとに右目だけなのかよ!?」
「? 別に初めて見るわけでもないでしょ?」
「せ……、成長したなあー、うん。すっごく綺麗になったよおぉふっ!?」
同時に襲いかかってきた赤と青の拳を、いくらできるからといっても、ねじりあげちゃったらアウト。とんでもない絵面になる。かといって今大袈裟に転んだら、わちゃわちゃして笑いがぶれちゃう。よっておれは、直立不動のまま耐え忍ぶ道を選んだ。我に返ったふたりが、バスタオルを巻き終えるまで待ってから両目を開け、両手でTの字を作る。
「ごめんちょっとトイレ。いやマジで限界で」
「私が先!」
「お前は別に風呂場ででも、」
「ひとりで入ってたらね!」
「節水!」
「べぇーっだ! えっち! 向こう行って!」
ばたん! かちゃ! ざぁーっ! ざざざざ、ざざざざざざざざざざざざざざざざざざ――!
(あの野郎……!)
すらりと伸びた脚の後ろでは、見開かれた淫佚の左目が、ローアングルから自慢の海馬へ、高速で連写のシャッター音を鳴らしていた。