第一章 目的捜し夢探し 02 菽水のラブラドリカ
「うちはな? 初めから人間が大好きって人の真逆やけんな? いつかそういう人が動物に対してやっとぉことを、平気な顔で人にしそうで怖いんよー」
確か夜も自己同一性その一だと言っていた。
あと闇も、死も、三日月も。
閉所も暗所も水中も。
「だからやっぱり生きてたら駄目なんと違うかなあ? なんか事件を起こす前に、今のうちに死んでおいた方が良いのでは? いや、私これ本気で言よんじょ?」
殺しても死なないから。
即答だった。
朝顔でも昼顔でも夕顔でも夜顔でもないラブラドリカ柄の浴衣が、灯を貪欲に呑み込んでしまっていて、青白い首から上だけが宙に浮いているようだった。眼帯で覆われた左目をこちらへ向けて、『どれだけ怖いのかは与り知らないけれど、こんな私を殺害してくれるなんて、ものすごく善良なお化けよね? でも常々そう思っている所為かしら、私は今までお化けなんか一匹たりとも見たことがないの……ふふっ』。
お化けも跣で逃げ出すこと請け合いの笑顔だった。
お化けに跣があるかどうかは諸説紛々だけれども。
「明日、学校行きたくなかったら行くなよ。どうでもいいんだ。学校なんて」
「ええ~? なにほれ、あかんやろぉ~、んふふ」
「あかんことなんかあるか」俺は瞑鑼の左手を掴まえた。「中学なんて行かなくても卒業できるんだよ。義務教育だからな。んで、高校は夜間でも通信でもなんでもある。それに超完璧エリートがT大入って必死で出て、ほらどうだ人生は努力と根性だ自力で受かったオレが正しいって一流企業に就職したところで、その後一生幸せに暮らせるかと言われたら全然そうじゃない時代さ、今は。むしろそういうやつは、恥をかくくらいだったら死んだ方がましだとか考えて、感情とかプライドを天才みたいに優先して、ちょっとした失敗で自殺したりするんだ」
「ふーん……」
ゆらりと身体を動かして、長い髪を夜空へ流しながら、瞑鑼がゆっくり立ち上がる。
窓から差し込む月明かりによって、窈窕たるその御髪は、より一層眩惑的に見えた。
「どうも……嫌いなものが多すぎるのよね……」
「まあ、その分、浪費しなくていいんじゃないの?」
時間もお金も体力も。
「動物嫌いの人はね? 大嫌いな動物を駆除してヒーローになられるし、大嫌いな動物をブッ殺して食らって善人になられるじゃない? それはさあ……ちょっとね……?」
しなしなと脚を折り畳み、俺の胸に細い指先を這わせ、俺の耳元で、
「ずるいと思わない?」
「世の中には動物好きでベジタリアンな人もいっぱいいるよ」
「んー、あー、そうかぁ」
どうやら虚をついてしまったらしく、瞑鑼は急にしおらしくなった。殺意も破壊衝動もどこかへ行って、今はもうただの雰囲気中二病にしか見えない。中二というのは良くも悪くもこんなもんだ。妹というものも然り。ああ、本物のエリートは死ぬまでエリートだって解ってる。
「瞑鑼、はっきり言うけどな、お前はまだまだ見識が狭い。自分の対極の一点、つまり、完全なる人間中毒者だけが人間の全てだと思ってるきらいがある。でもそれは違うぞ。世の中にはなぁ、もっとなんにも考えてないモブとかがわんさかいるんだよ。わんさか」
「むか。お兄ぃはいま、私に対して本当のことをはっきり言いすぎた」
「俺が言わなきゃ誰が言うんだ馬鹿瞑鑼。ブラコンの変態。むっつりすけべ」
「ばっ……、ブっ……、むぅっ……!? い、いのちはないとおもえ……っ!」
「やってみろ」
「がうー!」
「うんぐぅっ!?」
まさかのフライング・ボディプレス。犬猫なのは雰囲気だけだった。中二女子、すげー重い。たとえばお前、寝てたらいきなり壁に立てかけてあった五十キロのサンドバッグが倒れてきたと考えてみ? まあそんなとこで寝るなって話だが、とにかくうんぐぅってなるだろ?
「ご、五十キロもないもん!」
ごめん五十キロは盛りすぎた。
「もしかしたら七十キロに達しているかもしれない寧鑼お姉とは違ってね。んふw」
「ああ、あいつは胸が超々々々大っきいからな。犬猫っぱいなお前とは違って」
「がぶぅーっ!」
頸動脈に鋭い犬歯を突き立てられた。
痛ってぇお前はガチで俺の息の根を止める気か!?
最近また大きくなったらしいそれとか、お気に入りのブラをブッ壊したそれとか、もうやだこんな遺伝子ぃと涙目で言わせたそれとかが、コマ送りしなければ見えないスピードで、四角い画面を電波に乗って駆け抜ける。
こうなった以上遠慮なくしかし優しく丁寧にお尻を撫でさすりながら反撃の耳に吐息攻撃!
「うひゃへ……!」
七七七瀬瞑鑼は耳が弱い。ちろ。
「やめろっ……、んひゃはひゃ!?」
俺はこの流れに乗って、とりあえずくすぐって疲れさせる作戦をとることにした。
「にひぃーっ! ふひゃはは! あはーっ!? んふゅひきひ……! っはあはははは!」
やりすぎると変なところに頭をぶつけて大泣きさせちゃう危険も十二分にあるけれど、
「……はぁ、……はぁ、疲れた。もうおしまい」
今はもう小学生じゃないんでね。成功。俺は何より自分のために、ぶっきらぼうに背中を向けた。
「ふぅ……、ふぅ……、ふぅ……。お、お兄ぃのエロスっ……!」
「どっちが……」
ああ、なんかもう返事するのも面倒になってきた。ほんとに眠い。この歳で睡眠欲に負けた。
「で、誰なの?」
しかしまた声色が女帝へ戻ったので、少しだけ眠気が凍える。
「……は?」
「『は?』じゃないでしょ。お兄ぃの好きな人。誰?」
「あー……? そりゃあ……」
ぴとっと背中に貼りついてきて、体に腕を脚に脚を絡めてくる。指先の動きがいやらしい。ほんとに蛇かよお前はよ。と心の中では毒づける。俺は冷たく濁る頭で真剣に考えて、
「……め、瞑ちゃんだよ?」
「よし」
よしって。俺は犬か。ああ、犬だった。防御壁系の大きな人型犬だった。
「お兄ぃのエロー。ちゅん」
「エロじゃない兄貴なんかいると思うか? いいからもう寝ろ」
「無理ぃーっ! まだ寝れんーっ!」
「じゃあ最後一個! 言いたいこと一個だけ言って今日はおしまい! なんかあるんだろ? お前、ほんとに言いたいことが」
適当にそれっぽいことを真面目な口調で放り投げただけだったのだが、態度から察するに図星だったようで、瞑鑼はまず最適の姿勢を探り、結局布団の中へ入ってきて、
「どうもその、好きになるっていう感覚が、よくわからないのです」と言った。「いや人じゃなくてもな? 物でも、行為でも、なんか、私、何も好きになれない……?」
「ふうん……。好きになれないの?」
「うん……。たとえばな? 自分の応援球団が勝って嬉しいとか、地元のサッカーチームが勝って楽しいとか、バレーボールの日本代表選手が勝って幸せな気分になるとか、そういう感覚がうちにはない。ほなって他人のことやろ? 自分の体じゃない体が知覚したことなんか、知覚できひんし、したくない。きもちわるい」
「そうか……」
好きなものは好きだし、好きなものが勝ったら嬉しい。
感覚でできることを訊ねられても困る、とはこのことか。
「もしかして、超能力者?」
「ある意味そうかもな」
「それとも自分がないん? 個性がからっぽやけん、なんか入れとかなおれんってこと?」
「ちゃけばそれが正解だけど、本人の前でその台詞は禁句な。向こうは向こうでお前みたいなやつは、『ヒーローに感情移入できないクズ』とか本気で信じてるから。自己防衛のために」
「おわーっ!」
おえーっと怖ーっを混ぜたような発音。
いいんだ。ここでは本音をぶちまけとけよ。俺はどっちでもないから別段傷つかないし。
「というか別に娯楽をたしなむやつ全員が、主人公だの英雄だの、ボケだのツッコミだのになりきってるわけでもないと思うぜ? ほら、ゲームでも『男だからこそ男主人公を選ぶ派』と『男だからこそ女主人公を選ぶ派』が互いに貶し合ったりしてるじゃん。ネット上で」
「そうなん? 知らんけど……。ああ、やっぱりうちってなんにも知らんのやなあ……」
「いや、これは別に、知らなくても問題ないと思うけど……」
しかし他人に共感も感情移入もしたくない、気持ち悪い――か。
生まれついての支配人気質なんだろうなあ、と改めて兄は思う。
「ほら、いつの世もトップより従業員の方が多いじゃないか。作者より読者の方が多いし、アイドルよりファンの方が多い。そして送り手よりも受け手の方が、身近に溢れているもんだ。だからお前がその辺のやつらに異端扱いされるのは当たり前なんだよ。善悪の問題じゃない。割合の問題だ。それに全人類がお前みたいだったら、どんな業界も商売上がったりだよ」
最低限の菽と水しか売れないよ。
「なるほ……あ。自分がおいしいもん食べてもなんにも感じひんけん、余計こんなんなんかな? カニ食べておいっしいー! ってなる人やったら、こんなアホなことで悩まんよね?」
「まあ、それもあるだろうな」
あるいは、本当に全人類がこいつみたいだったら……?
「とにかくなんにも欲しくないんよー。何を体験してもほとんど忘れるし、何を手に入れても物質っていつかは壊れてなくなるやろ? ほな初めから要らんやん。んふっ」
「釈迦かよ」
「ほんま人生って諸行無常やね~?」
「定年退職間際になってなあなあであと少しだけ働くことになった夫へ向ける労いの言葉かよ」
「ぬひひ……!」
是非向けて欲しいぜ。そのときにはな。
「だからこの問題は、『最悪解決できないかもフォルダー』行きだ」
「ああー……」
「解決できるやつを解決せずに人生終える方が悪なんだから、これは一旦保留して、なんか他の解決できるやつを解決しようと試みようぜ」
「こうして俺たちの目的捜し夢探しが始まった」
「うん」
そして瞑鑼はいきなり微動だにしなくなった。
しーん。