ある画家の一生
死の影が忍び寄ると誰もが自分の人生を振り返り、そして人生の一つ一つの場面、一つ一つの選択に悔恨し、思いを巡らせる。
「どうしてこうなってしまったのか。」「あの時、ああしていれば良かった。」などと今更どうすることもできない問題に頭を抱え目の目の現実から目を背けようとしてしまう。
私も燃え盛る炎に包まれ、意識が朦朧とする中、私という人間の人生について嫌でも振り返らされる。
私の名前はジャン・ピエール・ロッソ。画家だ。
これは、炎に包まれ跡形もなく消え、誰にも知られることのないであろう私の人生の回顧録である。
私の生まれた家庭は決して恵まれたものではなかった。
そうは言っても、どういった家庭が恵まれた家庭でどのような家庭が恵まれない家庭なのかなど死の淵に立たされた今の今まで自分の家庭を持とうとしなかった私にわかるわけがないのだが・・・。
それでも、幼い私の記憶にあるのは誰かを羨み自分の境遇を恨む思い出ばかりであった。
私は決して裕福ではない家庭で4人兄弟の長男として生まれた。
両親は、二人で小さな画廊を開いていた。
父は、売れない画家であったが、私が生まれたのをきっかけに知人の画廊で働き始め私が物心つく頃には町の外れにあった売り家を買い小さな画廊を持った。
その頃には、自分で絵を描くことはなくなっていた。
私は生まれながらに体が小さく病弱で、吃音症を患っていたため、店の二階の部屋で一日の大半を小さな兄弟たちと過ごした。
それも、束の間で私の小さな兄弟たちは私を追い越すようにどんどん大きくなり、私をおいて皆外に遊びに行くようになった。
まるで私だけ時間が停止して取り残される気持ちに苛まれた。
私も外で皆と同じように自由に走り回ったり、この窓から見える景色以外のものを見たいと自分の生まれ持った体を恨み、顔や態度には現わさないがそれを当たり前のようにしている兄弟たちをひどく羨んだ。
私は一日の大半を一人取り残された日当たりの悪い部屋で過ごした。まるで生まれながらの囚人のように。
部屋には、大量の画集があり、飽きもせず毎日、日が暮れるまで部屋で読み耽った。
別段、興味があったわけではない。ほかにすることがなかったのだ。
12歳の誕生日に絵を描く道具が欲しいとねだった。
父はあまりいい顔をしなかったが、なんの要求もしてこなかった私の初めての願いを聞き入れてくれた。
父が昔使っていたと思われる古びた一式の道具を私は手に入れた。
それから毎日画集を眺め、それを真似て描く日々を相変わらず日当たりの悪いあの部屋で一人孤独に続けた。
それから3年が経ち、私だけ時が止まったようであった病弱で小さな体も同年代の子たちと変わらない大きさと丈夫さになった。
だが、それ以上に成長したのは絵の腕前だった。
毎日、見続けた画集の絵画たちが画集から抜け出し、キャンパスに飛び移ったように忠実な絵を描けるほど私の絵は上達していた。
その腕前は、以前画家を目指して挫折し、今は目利きをしている父が認めるほどであった。
それから父は私に自分の持っている絵に関するすべての知識、技術を教えてくれた。
そしてその頃から父に渡された絵と同じものを描いて練習するよう言われた。
私は、父に褒められたことに舞い上がり、素直に父の教えに従った。
あとから知ったが、私が嬉々として描いていたその絵たちはすべて贋作として父が裏で売りさばいていた。
少し前から父の画廊は経営が困窮し、借金を抱えていた。
そのようなこととは露知らずあの頃の私はただ毎日絵が描けることを無邪気に喜んで、それを叶えてくれる父に感謝していた。
それから、3年が経った。私は相変わらず日当たりの悪いあの部屋で父に指示された課題を描き続ける日々を送っていた。
少し変わったことといえば、外にはどんな世界が広がっているのか知りたいという欲求が私の中で生まれたくらいだ。
私の毎日見ている画集に載っている風景画の山の緑とは実際はどんな色なのか、海の匂いとはどんなものなのか、この木々を揺らす風はどんなものなのか、日もろくに当たらないこの部屋ではそれを知ることはできない。
もしも、それを知ることで、今のような絵が描けなくなっても構わないとさえ思った。
それと同時にその頃になると自分が描いた絵がどんなもので、どうなるのかすでに知っていたが、もし私が描き続けることを辞めれば兄弟たちが学校に行けなくなるどころか、家族全員が路頭に迷うことになるのは明らかだった。
私が父の依頼した絵を描き始めてから私たち家族の生活は質素なものから少しずつ変貌してきた気がする。
変わらないのは、あの湿ったかび臭い部屋で絵を描き続ける私だけだった。
また、私がひどく弱い小さな生き物だった時と同じような自分だけが時の経過に取り残されたような想いが蘇る。
今思えば、あの時から少しずつ私の家庭はしまいには全てを壊滅させる大きな病に少しずつ蝕まれ始めていたのかもしれない。
私の絵を売って得た金を資本に父が故郷の友人と事業を始めるためにある日、一家で別の地へ移り住むことになった。
そのとき、初めて私はあの狭い湿った部屋以外の広い世界を見た。
はじめて蒸気機関車に乗った。
窓から見える景色は私が今まで見てきたどの画集の絵より美しく色鮮やかであった。
私たち家族が移り住んだ家は、私が生まれた下水の臭いが立ち込める街と違い、美しい山々と湖に囲まれた中に立つ一軒の古い屋敷だった。
その美しい土地と相反するようにこの地に移り住んでから私たち家族の関係はどんどん冷たく冷え切り、心は醜くなっていった。
人は分不相応の大金を手にすると今までの人格や大切にしてきたものを簡単に捨て去ってしまうのかもしれない。
少なくとも私の家族はそうだった。今まで自分たち同じような暮らしをしていた人間を蔑み、位の高い人気には媚び諂った。
父の事業は順調な様子で、実業家の家族らしい生活に私たちの家族は染まっていった。もちろん、私を除いて。
父は、今の生活に馴染まず、あの街にいた頃と変わらぬ様子の私を見ると昔の惨めだった自分を思い出すのか必要に私を避け、家族もそれに合わせるかのように私をまるで存在しないもののように扱った。
それでも、来客した客人をもてなすために絵を描かせられたり必要なときのみは私の存在が突然そこに現れたもののように利用した。
家に居場所のない私は、美しい自然に身を寄せるように屋敷の近くの山や湖で朝から日が沈むまでその情景を描き過ごした。
その頃の私はあの湿った部屋にいるときのように描きたくもないものを描かされるのではなく、自分の描きたいものを描けることに喜びを感じていた。
彼に出会ったのも夏のある日いつものように湖で一人キャンパスに向かっているときだった。
モーリスは、パリ市内に画廊を持つ老紳士だった。
ちょうど、休暇でこの南フランスの長閑な土地に訪れていた。
モーリスは、私の絵を見て、いくつかの質問をしてきた。
いつから絵を描き始めたのか。誰から習ったのか。ほかにも描いたものはあるか。など
普段、家族ともまともに話すことのない私は聞こえるのか聞こえないのかわからない声で吃りながら視線を合わせずそれに答えた。
モーリスの勢いに気圧され、その日の夜に私の家に彼が作品を見に来る約束を取り付けられた。
彼に私の住む屋敷の住所を教えた。果たして、あの意地っ張りな家族は見知らぬ来客にどう応えるのだろう。
私の心配は杞憂に終わった。彼は、湖で会った時とは別人のようなまさしく上流階級の人間である気品溢れる姿で私たち家族の前現れた。
私の卑しい家族たちは自分よりも位の高い人間と思うや彼を必要以上にもてなした。
彼はそんな振る舞いを見透かし、慣れた様子で何気なく気品を持った態度で応えていた。
この出会いが私の人生にとってもっとも大きな転機と言えるだろう。
彼は、私の絵を気に入り、ぜひ自分の画廊に置きたいと言った。
そして、休暇を終え、パリに戻る際、一緒に私にも付いてきて欲しいと言われた。
もちろん、私は彼の要求に応えた。
自分の描きたいものを描き生活できると心が躍った。
しかし、パリでの暮らしは私の思い描いたものとは違った。
モーリスや評論家たちが求める絵もまた私の家族が私を利用したときと同じものだった。
私は自然の美しさを描きたいが、彼らはそれを評価せず、人物画や私の描きたくないものばかりを要求した。
私は再び描きたくないものを描かされる日々が訪れた。
あの頃と違うのは、そこがかび臭い日の光もまともに入らない狭い部屋ではなく、美しい絵や花に囲まれた明るく広すぎるほどのアトリエになっただけだった。
皮肉にも私の望まない私の作品は、高く評価された。贋作すらできるほどに。
モーリスは私の成功を心から喜んでくれた。ただそれが嬉しかった。
モーリスは、私にとって唯一の友であり、良き理解者だ。
彼からはたくさんの事を教わり、私にたくさんの経験をさせてくれた。
本当の家族よりもたくさんの思い出を作った。
私は自分に誓った。彼が生きている間は彼や評論家たちが求めるものを描き続けると。
私は、きっと、昔、私の絵を見て純粋に喜んでくれた父の顔と彼を重ね合わせていたのかもしれない。
私がパリを訪れてから7年の月日が流れた。
私は30歳になっていた。
私は画家としてある程度の地位を得てここ数年はモーリスの言葉もあり、自分の描きたかったものばかり描きモーリスと穏やかに暮らしていた。
そんな穏やかな暮らしも長くは続かなかった。
出会った頃から分かっていたがその年の冬モーリスとの別れが訪れた。
彼は私と出会った頃から心臓に病を抱えていた。
何度か発作を起こし倒れ、私が病院へと連れて行ったことも急いで医師を呼びに行ったことも少なくなかった。
彼は、3人の息子がいると言っていたが、彼が倒れたことを告げても彼らからは何の音沙汰もなかった。
ある一段と寒い日、昼近くに起きてた私はモーリスが起きた様子も出かけた様子もないことに気づいた。
いつも朝日が出るとともに起き上がるモーリスがいつまで経っても寝室から出てくることがないことに不安を感じ彼の寝室へと急いだ。
彼は、静かに自分のベッドで永遠の眠りについていた。
窓から指す光が彼の冷たくなった体を厳かに照らしていた。
彼が亡くなった知らせを聞いて、ようやく三人の息子たちは私の前に現れた。
ただ、誰一人モーリスの死を悲しむことも、死に目に会えなかったに後悔する様子もない。
それぞれが、自分の取り分を主張するように彼の残したコレクションや財産を取り合っていた。
私はその醜い光景が耐えられず、葬儀が終わると自分の少ない荷物を持ち、パリに来てから住み続けた彼の家を後にした。
モーリスの家を出たものの、特に行く当てがない私は一度も帰ることのなかったあの古びた屋敷に戻ることにした。
あの家族に会いたいというよりは、私に絵描くこと楽しさを教えてくれモーリスと出会った場所であるあの自然溢れる景色をもう一度見たいと思ったからだ。
100キロ以上の道のりを馬車でゆっくりと旅した。
道中で、美しい風景を見つけては心を癒され、心に突き動かされるままにスケッチブックに模写した。
徐々に見慣れた景色が近づいてくる。
数年振りにあの屋敷へと続く道を進む。
私は、一歩進むごとに懐古さを感じるとともに、家族の誰かに出くわすかもしれない恐怖と緊張を抱いていた。
そんな私の前に現れたのは、人の住む気配がまるで感じられないまるで廃墟と化したあの屋敷であった。
ショックを隠し切れない私は、村の人々にあの屋敷に住む家族に何が起こったのかを聞いて回った。
あの家が廃墟と化したのは私が出て行ってすぐ父と母が不運な事故で亡くなり、兄弟たちが遺産を巡り血で血を洗う醜い争いを行い、いがみ合いながらそれぞれの取り分を。つまり、分不相応の大金を手に入れた。
しかし、父の跡を継いだ弟は事業に失敗し一家心中、ほかの兄弟たちもギャンブルや金銭トラブルでそれぞれの一家は離散し行方不明となったそうだ。
そして、所有者を失い、買い手のつかないこの家は廃墟と化した。
私がモーリスに付いて行かなかれば何か変わったっていたかもしれないと思う一方で、きっと何も出来ず今となっては廃墟となってしまったこの屋敷で亡霊のように部屋に篭り絵を描き続けている自分が容易に想像できた。
私は、残りの人生をこの呪われた廃墟で過ごすことに決めた。
屋敷を買い取り住めるようにするため、一度パリに戻り、半年間、自分では何の価値も見いだせない絵を描き続けそれを売り十分すぎる資金を得た。
その資金で廃墟となってしまった家を買い取り、中を改装し大きなアトリエを作った。
それから毎日山や湖に向かい好きな絵や時折、生活のために金になる絵を描いて過ごした。
生活能力のない私は、カロンという少年を雇い、家事や雑用を任せた。
彼は私のことを先生と呼んだ。
カロンは、母親を病気で亡くし、それ以来毎日働きもせず酒を飲んでばかりいる父親とまだ幼い妹と三人で暮らしている。
私の家で働く前は、隣町で靴磨きをしたり、村の農作業を手伝っていたそうだ。
村の人に彼が一人で家計を支えている話を聞き、昔の自分を思い出し雇った。
真面目で物覚えが早く私の家で働き始めて1年になるが今では欠かせない存在となっていた。
ただ一つ気になるのは、彼が時折顔や体に痣を作っているところだった。
その原因は簡単に予想できた。きっと、父親の暴力だろう。
特にここ数日は、年齢にそぐわない思い詰めた顔をしている。
何度か、それとなくカロンに尋ねたが、はぐらかした答えしか返ってこない。
私に何とかすることはできないだろうか?
極力、人との関わりあいを避けてきた私らしくないと心の中で思った。
次の日、私はカロンに黙って彼の父親に会って話をしようと思い街の酒場に向かった。
カロンの父親は私のイメージしたものとは、まったく違う容姿であった。
薄くハゲ上がった頭に気弱そうな顔をした酷く人生に疲れ切った風体のまるで覇気のない男だった。
私が、カロンの雇い主であると話すと、こちらが不憫に思うほど恐縮しきった態度を見せた。
本当にこの父親が子供たちに日常的に暴力を振るう男なのか、人との接し方をほとんど心得ていない私には判断がつかなかった。
ただひたすら謝るばかりの情けない男に私は一方的に捲し立てその場を立ち去った。
次の日、いつもの時間になってもカロンは現れなかった。
私は少し不安になったが、作品の完成間近であったこともあり、そこまで気に留めなかった。
それから、数時間一人暖かな日差しが差し込むアトリエでキャンパスに向かった。
後ろに人の気配を感じたと同時に背中に抉るような痛みが走った。
その痛みに思わず、獣のような声を上げ、私はそのままキャンパスと一緒に倒れ込んだ。
必死に後ろを振り向く。
そこには・・・。
母が病気で死んでから、心の弱い父は酒に溺れた。
そのせいで、仕事を失い僕たちはその日食べるものにも困った。
それだけなら、僕が必死に働けばそれで済んだ。
だが、父は、決して自分より上の人間には立ち向かわず、抵抗できない弱いものにはありったけの嗜虐心を向けるクズへとなり下がっていた。
僕は、妹を守ることに必死だった。
酔った父が暴れ、狂ったように暴力を振るうのを亀のような姿で妹の体に覆いかぶさり耐えた。
僕はどんなに傷だらけになってもいい妹さえ守ることができれば、だが、僕の精神は限界に近づいていた。
いつからか、誰かが僕たち兄弟を救い出してくれることや父親が昔のような優しい父親に戻ることを期待している僕はどこかに消えてしまった。
その代わりにいつかこの男を殺してやろうという気持ちばかりが募っていた。
家に帰る道のりは不安ばかりが募る。僕がいない間に妹があの男に暴力を振るわれていないかいつも妹が無事であることを祈りながら急いで帰路に着く。
祈りながら家のドアを開ける。現実は残酷だ。妹に覆いかぶさり殴りつけようとするあの男の姿が見えた。
ついに妹にまで手を出そうというのか。
気が付くと妹に嗜虐的な笑顔を向けその牙を向けようとするその男の懐に飛び込み突き飛ばし、そのまま妹の手を引き家を飛び出した。
後ろから「お前があの画家にべらべら喋ったからだ!お前のせいだ!お前のせいだ!」という意味不明な喚き声が聞こえる。
「私は余計なことをしてしまったのかな?」
「・・・・先生は悪くないです。でも、僕は妹を守らなくてはいけないんです・・・。そのためには、何でもしなくてはいけない・・・。」
「たとえ人殺しだろうと・・・。強盗だろうと・・・かな?」
「・・・はい。申し訳ありません。」
やはり私は人と深く関わってはいけないのだと思った。
私と一緒に倒れたキャンパスを引き寄せ、転がっていたペンで先ほど描き終えたばかりの私のおそらく最後の作品にサインをした。
彼はそれを不思議そうな顔で見ている。
「これを持って行きなさい。それとそこの金庫にしばらく二人で暮らせるだけの金が入っている。一緒に持って行きなさい。」
彼はただ驚いた顔をしていた。
「早くしなさい。それと私にタバコとマッチを取ってくれるかな。」
彼はすぐにタバコを私に渡した。
それから近くにあった袋に金庫から金を入れ、布で私の先ほどサインしたばかりの絵を被った。
「今すぐ、その金を持ち蒸気機関車に乗りなさい。そして二度とこの地には戻るな。」
「・・・先生。」彼は涙を滲ませていた。
「早くしなさい!」背中の痛みに耐え叫ぶ。彼は走り出した。
彼が屋敷を出たことを確認し、這いながら油絵が並ぶ部屋の隅に向かって擦ったマッチを投げる。
次々に絵が燃え始める。
そしてその炎は部屋全体に広がっていく。
彼らはこれから幸せに暮らしていけるだろうか?
画家が死ぬと絵の価値は格段に上がる。
本当であれば、彼に渡した絵は相当な価値が付くだろう。
だが、急に分不相応な大金を手に入れて、幸せになった人間を私は見たことがない。
彼らにはそうならないで欲しい。
そのために、私は自らあの作品に贋作のサインをつけた。
嫌がらせでそうしたわけではない。金銭以外の何かしらを旅立つ彼らに渡したかったのだ。
あの二人が、幸せになることを心から祈っている。
そして、できれば私という人間を覚えていてほしい。
私の名前はジャン・ピエール・ロッソ。画家だ。