ニセモノの心
プロローグ
銃声が鳴り響く。
わたしの意識は闇のなかに溶けていく。そこには光も音もない。
ここは何処なのだろう。ここが死後の世界だと言うのなら、わたしは死んだのだろうか。
確かにわたしは死んだのだろう。
銃声が鳴り響いた瞬間わたしの頭が砕け、その中身が皮膚に生暖かい感覚を残して流れ出ていく感覚を確かに味わった。
だが、今こうして考えているわたしの意識は確かに存在しているのだ。
わたしは何なのだろう。今のわたしには、それすら分からなかった。
だだ、ひとつ言えるのは──
1
わたしは、シートから伝わる振動を感じながら夜道を走っていた。
時計に目をやり、考えた。
そのうち家族のことを思い浮かべる。家には妻と小学校一年生の娘が待っている。
わたしはトラックを道のすみに停めると、今日は休むことにした。わたしは、ほぼ全ての時をこのトラックと共に過ごしている。家族といる時間よりも遥かに長いだろう。
わたしは月曜日になると、まだ娘が起きていない早朝に、このトラックに荷物を積み、二日かけて村に行く。水曜日は村で休み、翌朝からまた二日かけて町に帰ってくる。
明日の朝に出ても昼には家につけるだろう。
わたしは固いシートに寄りかかると、眠りに落ちた。
だが、それから一時間とたたないうちに、形容のしがたい不快感に襲われ、わたしは目を覚ました。
その不快感は、生物としての根元的な恐怖や嫌悪といった不吉なものだった。
わたしは体を起こすと、車を降りた。肌を刺すような冷気が立ち込め、道端の草を騒々しく揺らす風は冬の匂いを含んでいた。手が届くほどの範囲ですら視覚することが困難な深い闇は、わたしに不気味な想像をさせるのに十分すぎるものだった。
トラックで牽引しているコンテナに寄りかかるような形で立ち止まると、ダウンジャケットのポケットから、愛用の銘柄の煙草と、オイルライターを取り出す。煙草をくわえると、ライターをつける。
その弱々しく揺らぐ炎によって照らされ、視界が広がったとき、ようやくその何かの存在にわたしは気が付いたのだ。
それは、ゆらゆらと絶えず形を変えるスライム状の塊で、ひとりの人間と同じくらいの大きさがあった。透けとおったそれの表面はライターの光を反射して、水溜まりに浮かんだ油のように虹色に輝いていた。
息が荒くなり、くわえていた煙草が濡れた地面に落ちる。すぐに逃げ出そうとするが、脚が動かない。その不定形の何かは、ゆらゆらと形を変えながらわたしに近づくと、覆い被さるようにその体を広げ、わたしを完全に包み込んだ。
そのままわたしは気を失った。
2
わたしは、気が付くとトラックの固いシートの上にいた。
わたしはその奇妙な体験を疲れによる夢だと考えることにした。
時計を見る。昼前には家につけそうだ。妻と娘の顔を思い浮かべる。エンジンをかけ、真っ直ぐに家へと車を走らせた。
わたしは、家族との幸せな休日を過ごし、月曜の朝にはいつも通りに仕事に出た。その頃になると夢のことなどすっかり忘れていた。
違和感に気が付いたのは、仕事を終え家についた土曜日のことだった。妻や娘と会話をしていると、奇妙なことに気が付いたのだ。
どうやら彼女たちは月曜日の昼頃にわたしと会っていたらしい。当然その時間はわたしは村に向けて車を走らせている最中であり、家のなかで妻と娘に会うことなどあり得ないことだったのだ。
彼女たちの話によれば、月曜日の昼頃に帰ってきたというわたしは、トラックを盗まれたと言うと、しばらく落ち着かない様子で家のなかにいたが、警察に行くといって出ていくと、そのまま帰ってこなかったらしい。
不振に思ったわたしは、会社の近くにある交番へ行くことにした。
交番へつくと、女性の警官がひとりいた。
彼女はわたしを見ると、トラックは見つかったかと訊いてきた。
やはり、彼女はもうひとりのわたしと会っていたようだ。
わたしが、そのときの様子を訊きたいと言うと彼女は怪訝そうな表情を浮かべながらも、詳しく話してくれた。
話によると、月曜日の早朝にパトカーで見回りをしていたところ、わたしに出会ったのだという。そこは、わたしが村へ行くためにいつも使っている道だった。
そのときわたしは、トラックを盗まれ、気が付くと道端で寝ていたのだと言うと、家まで送り届けてくれるよう警官に頼み、届けを出すために交番まで連れていくと、そのまま徒歩で家に帰っていったらしいのだ。
「わたしが、いないはずの家で、家族は確かにわたしと会ったと言うのだ。それに、わたしは、あなたと話した事はないのに、あなたはわたしと会って話したと言う」
わたしは、少し間を置いて彼女の様子を見ると言った。
「馬鹿げたことを言っているのは分かっている。だが、もうひとりのわたしがいるとしか考えられないんだ」
狂人扱いされるだろうかとも思ったが、意外にも彼女はわたしの話を信じてくれたらしい。
「最近あなたと同じようなことを言ってきた男がいるの。自分のニセモノを見たって。そのときは信じられなかったけど」
「彼の連絡先を教えてほしい。一度会って話がしたい」
警官は少し迷ったようだが、すぐに連絡先を教えてくれた。
わたしは、交番を出るとその番号へ電話をかけた。
3
日曜日の朝、わたしは、電話で呼び出された場所にいた。
そこは、スクラップ場だった。高い塀に囲まれており、思い鉄の扉が付いている。わたしは、錆び付いた扉を押し開け中に入った。塀沿いには人が入れるほどの大きさの赤茶色のボックスや、壊れたテレビや電子レンジが積み重なったものがあり、敷地の中央を横切るように並べてられたドラム缶に沿って通路を進んだ先に、元の色がわからないほどに錆び付いた高さ5メートルほどの鉄塔があった。
「おーい、ジェイムソン、彼が来たぞ」
突然頭上から声が降ってきた。見上げると、鉄塔の上に座るニット帽を被った男の姿が見えた。
「君がニセモノを見たという...」
「いや、違うね。俺はジェイムソンの友達だよ」
彼は鉄塔から身を乗り出して、下にいるわたしの方を見ながら大声で答えた。
「おい」
突然後ろから声をかけられ振り替えると、そこには派手な赤いジャンパーを着て、髪をワックスで逆立てた男が立っていた。
「あんた、電話してきたおっさんだろ?俺がジェイムソンだ。あんたも見たのか?」
彼が言っているのはニセモノのことだろう。
「いや、家族から話を聞いただけだ」
「じゃあ、ケイトと一緒だな」
「そういや、ケイトはどうしたんだ?」
ニット帽の男が大声で訊いた。
「私がどうかした?」
ジェイムソンの後ろからこちらに歩いてくる女性の姿があった。
「あー、なんだケイトも来てたのか!」
「ハッカー!上から喋ってないで降りてこいよ!」
「あー、あいよ!」
ニット帽の男はカンカンと音をたてながら梯を降りてくる。
「ハッカーだって?」
わたしは、訊いた。
「そう呼んでるだけよ。彼はただのパソコンオタク」
ケイトが答える。
「さて、これで全員揃ったな。俺はジェイムソン。俺はいつも通り町をぶらついてたんだ。つまらない町だよな...そしたら俺そっくりの格好をしたやつを見ちまったんだ。自分と同じ姿をしたやつに好き勝手されちゃあ、たまったもんじゃないだろ?だから、ハッカーに頼んでニセモノについて何か知ってそうなやつを集めてもらったんだ。で、ケイトと知り合った」
「私は友達に聞いただけだけどね」
彼らが話している間もハッカーと呼ばれている男はノートパソコンを弄っていた。彼が話を聞いている様子が無いのを見るとジェイムソンが呆れたように言った。
「こいつは、ハッカー。あー、まぁ、見ての通りだ」
しばらく彼らと話していたが、ニセモノのことについては、分からないことだらけだと言う。だが、ケイトには気になっていることがあった。それは、町外れの廃協会で密かに行われていると噂されている儀式のことで、その教団がニセモノと何か関係が有るのではないかと言うのだ。
翌日わたしは仕事を休み、彼らと廃協会に行くことになった。
その廃協会は町を出て村に向かって少しのところにあった。
わたしが仕事で使っている道からも、その背の高い建物ははっきりと見ることが出来たが、それはそこらの石や樹木と同じくぼんやりとした景色の一部でしかなかった。教団の噂については、以前から妻との会話で話題に上がることもあったが、それは些細な世間話のひとつに過ぎず、別段気にするようなものでもなかったのだ。
道をそれて膝の高さほどに生い茂った雑草を踏み分けて進むと、廃協会の入り口が見えてきた。先頭を歩いていたジェイムソンが真っ先に入り口へ向かって走っていった。わたしとケイトはその後に続いて大股に歩いていく。
ハッカーは、平日の昼間から遊んでいられないと言って、来なかった。彼らは見たところ学生のようだったが、学校はどうしたのだろうか。
真っ先に入り口についたはずのジェイムソンは、何故か中には入らずにいた。
どうやら扉が開かないらしい。
「畜生!鍵がかかってやがる!」
彼は怒鳴ると扉を蹴飛ばした。わたしとケイトは、他の入り口はないかと教会の周りを探してみたが、いくつかの窓と、別の扉がひとつあるだけで、いずれも鍵がかかっていた。
「何をしている」
諦めて帰ろうかと考えたとき、後ろから声が聞こえた。その声は老婆が発するしわがれたそれでありながら、しかし、張りのあるものであった。
声のした方を見ると立っていたのは異様な格好の女だった。フードのついた黒いローブを身につけ、顔はベールに覆われてた。
「今日は儀式の日でない」
女はわたしたちを、儀式に参加しに来た者だと思ったのだろうか。
ケイトが女の方に一歩近づくと言った。
「あなたたちは、この教会で何をしているの?」
女はゆっくりとケイトの方を見ると間を開けて言った。
「儀式よ」
「おいおい、ばぁさん、俺の質問に答えろ」
ジェイムソンが割って入る。
「質問?」
女は聞き返した。
「あのニセモノはなんだ」
「...悪魔よ」
「悪魔?」
「この町はいずれ彼らで溢れるときがやってくる。神を信じ、崇める者のみがそこで生き延びることができるのだ」
女はそれだけ言うと踵を返して立ち去っていく。それと入れ替わるように、ニット帽の男がこちらに向かって歩いてきた。
「ハッカー、どうしてここに?」
ケイトが訊く。
「学校が早く終わったから見に来たんだ。あー、もう、終わりか?」
ハッカーが、立ち去る女の後ろ姿を振り返りながら言った。
ジェイムソンが、歩き出す。わたしたちは、スクラップ場へと向かった。
スクラップ場に入ると、鉄塔に向かって歩いた。
「うあああああ!!」
突然鉄塔の方から悲鳴が聞こえてきた。
「ジェイムソン、離れろ!そいつはニセモノだ!」
鉄塔の上からハッカーが叫ぶ。
さっきまで一緒にいたもうひとりのハッカーは、わたしたちが周りから離れていくのに気が付くと、必死の形相で叫ぶように言った。
「違う!俺は本物だ!さっきまで一緒にいたじゃないか!」
「黙れ!ニセモノ!」
鉄塔の上を見ると、拳銃を構えたハッカーが立っていた。
銃声が鳴り響く。
下にいるハッカーは反射的に手で頭を守るようにしてしゃがみこむ。標的を外した銃弾が地面に当たり砂煙を立てた。
二度目の銃声が鳴り響く。続けて三回、四回と銃声が続き、六度目の銃声が鳴り響くと、鉄塔の上のハッカーはその場に頭を抱えて座り込んでしまった。
銃撃で巻き起こった砂煙が落ち着くと、血だまりのなかに仰向けに倒れたハッカーの死体があった。その見開かれた目は、どこを見るわけでもなく、ただ何もない空中を見つめていた。
わたしは呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
静まり返ったスクラップ場で聴こえるのはハッカーのすすり泣きだけだった。
しばらくして、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
4
わたしは、奇妙な違和感を覚え、家を出た。
家族には警察に行くと言ってあるが、トラックのことは既に届けを出してあるので、その必要はなかった。
家族との会話に確かにすれ違う部分があったのだが、やはりわたしが、原因なのだろうか。
車を走らせるだけの日々。家に帰っても、そこはわたしにとって心の安らぐ場所ではなかった。
休日を彼女逹と過ごしたという男は、いったい誰だったのだろうか。はっきりと妻がその事を口にしたわけではないものの、わたしが家にいたその短い間に交わした会話で容易に察することが出来た。
わたしはいつもトラックで通っている道を進んだ。町の出口に差し掛かった頃、前の方で、見知った後ろ姿を見た。それは右に曲がると、そこに建つ倉庫の影に隠れて見えなくなった。
わたしは、その後をつけることにした。
あれは紛れもない娘だったからだ。
5
警察で事情聴取を受けたあと、ジェイムソン、ケイト、わたしの三人は家に帰ることが出来が、ついにハッカーが、帰ることは叶わなかった。彼は完全に発狂していて、うつむき、頭を抱えて震えるばかりで、ニセモノのことを警官から訊かれると、恐ろしい形相で叫び声をあげると、警官に殴りかかったのだ。
家に帰ると家族には心配されたが、知り合いが事件を起こし、その件で事情聴取をされていただけだと言って安心させると、そのことが再び話題に上がることは無かった。発狂したハッカーや、そのニセモノについては言わなかった。
仕事は休んでいたので、家で家族と過ごしていたが、事件から三日経ったある日の昼過ぎ、ケイトから電話がかかってきた。
彼女は酷く動揺しており、今すぐにスクラップ場に来てほしいと言うので、わたしは、家族に友人と出掛けるのだと言って家を出た。
わたしが、スクラップ場の重い鉄の扉の前で、ジェイムソンと合流した。どうやら彼も電話を受けてここに来たらしいのだ。
二人でスクラップ場のなかに入っていくと、そこにケイトはいた。
ケイトと、ケイトでないはずの何かが、向かい合うような形でそこに立っていたのだ。
「動くな!」
ジェイムソンは、拳銃を取り出すと、彼女逹に交互に銃口を向けた。
「ニセモノはどっちだ」
彼女逹は全く同じだった。顔も服装、細かい仕草ですら同じで、判別する術はなかった。何も知らない人が見たのなら双子だと思っただろう。
「ジェイムソン、止めるんだ」
わたしは、ジェイムソンの目の前に立ちはだかった。
「彼女逹を調べれば、ニセモノのことが何か分かるかもしれない」
ジェイムソンは、わたしの肩を押すと前に進み二人のケイトの前に立った。
「俺の家の二階に使ってない部屋があるんだ。電気が壊れててな。本物のケイトには悪いが、おまえらにはそこで過ごしてもらう。少しでも抵抗してみろ、そいつはニセモノとして撃ち殺す」
「わかったわ」
ひとりが震える声で言った。
その夜はジェイムソンの家で過ごすことになった。その家はスクラップ場の裏にある二階建ての古いがしっかりと掃除された家だった。二階にケイトとそのニセモノが、壊れて電気が通らなくなっているという階段を上って突き当たりの部屋と、左手にある部屋にそれぞれ軟禁されている。
一階には大きな暖炉があり、赤く大きな炎が燃えていた。暖炉の前には小さい机と、それを囲うようにして置かれた赤いソファーがあった。
ジェイムソンは、軽く俯くようにして、ソファーに深く座っていたが、その向かいに座っていたわたしは、どうにも落ち着かない気分になったので、外の空気を吸いにいくと言って立ち上がった。
わたしは外へ出た。
吐く息の白いのを見て、トラックのなかで眠っていたときに見た夢を思い出す。
そうして、しばらく家の前の段になっているところへ腰を掛けていた。
寒さを感じ半ば無意識にダウンジャケットのポケットに手を入れると、ひんやりとしたものに触れた。オイルライターだった。
夢を見てから一度も煙草を吸っていない事を思いだし、潰れた箱を取り出すと、煙草をくわえる。だが、オイルライターに火を灯そうとしたときに、家のなかからジェイムソンの何か焦ったような大声が聞こえたので、ポケットに煙草の箱とオイルライターをしまうと、家のなかに向かった。
一階にジェイムソンの姿はなかった。ジェイムソンがわたしの名を大声で呼んでいる。声は二階から聞こえた。
その声色からただ事ではないことを感じ取ったわたしは急いで階段を駆け上がる。ジェイムソンは突き当たりの部屋の前にいた。
部屋のなかが燃えていた。部屋の奥のすみには頭を抱えるようにしてうずくまっている人影か見えた。
「バケツだ!水を持ってこい!」
わたしは、頷くと一階に降り、部屋を見回す。すみに置かれたバケツを見つけると、それを掴み水道から水を汲みとって、二階へ行きジェイムソンに手渡した。火に向かって水をかけると少し勢いが弱まる。
わたしは、空になったバケツにまた水を汲んでくる。
それを何回か繰り返し、ようやく火が消える。部屋のなかには黒い煙が立ち込めていた。
ジェイムソンが換気のために窓を開けようと部屋に入っていく。煙のなかにその後ろ姿が消えかかったとき、ジェイムソン絶叫をあげながら、転がるようにして部屋を出て来た。
「化け物だ!化け物がいる!」
彼は叫ぶように言いながら、拳銃を取り出すと部屋のなかに向けて三発、闇雲に発砲した。
わたしとジェイムソンはゆっくりと後退りながらも、部屋のなかを見つめた。
黒い煙が収まってくるにつれ、徐々にその姿が見えてきた。
わたしは、その姿に見覚えがあった。透明で不定形のスライムのような塊で、人間ほどの大きさがあり、表面は虹色に輝いている。それは、紛れもなく夢のなかで見たものであった。
それはゆらゆらと形を変えながらこちらに向かってくる。ジェイムソンは、悲鳴をあげ、拳銃を取り落とすと、階段の方によろけながら走っていく。わたしは、拳銃を拾い上げ、不定形のそれに向かって発砲した。三発目を撃ったとき、それはゆらゆらと揺れ動き人間の形をとろうとした。子供が粘土で作ったような不格好な姿になったあと、その顔からずるりと目玉がこぼれ落ち、地面で溶けて白い煙をあげた。それから皮膚や、赤い肉片がぼとぼとと剥がれるようにして地面に落ちると同じように白い煙を上げて消えていった。後には何も残らなかった。
呆然と立ち尽くすわたしの後ろで、ジェイムソンはその様子を見て、絶叫をあげると階段を転がり落ちるようにして降りると、外へ出ていった。
もうひとつの締め切られた扉を内側から叩く音が聞こえた。
「何が起こったの?ここから出して」
わたしはケイトの声を聞き流していた。一連の事態によって発覚したひとつの事実がわたしを困惑させた。吐き気と目眩に襲われ、膝をつき頭を抱える。
ケイトのニセモノは死ぬと白い煙となって消えてしまった。脳裏にハッカーの死体が浮かんだ。血のなかに仰向けに倒れ、何もない空間を見つめる大きく見開かれたその目からは恐怖が読み取れた。あの死体は消えることはなかった。
あの死体はニセモノではなかったのだ。
6
ケイトは、もう、この件とは関わりたくないと言って帰ってしまった。ジェイムソンはあれから行方不明になっている。警察には通報しなかった。死体は残っていなかったし、話したところで信じてはもらえないだろう。ジェイムソンは元々一人暮らしだったため、いなくなったことに気が付いているのは事件の関係者だけだった。
わたしはジェイムソンを自力で探すことにした。町を回って、何人かにジェイムソンのことを聞いたが、有益な情報は無かった。
町の外へ行ってしまったのだろうかと考え、しばらくは途方に暮れていたのだが、そんなある日、町の出口の近くに住む住人のひとりがジェイムソンを見たと言って、連絡をしてきた。
その住人は夜、ふと窓の外を見ると町から出て走っていくひとりの男を見たらしいのだ。その男は派手な赤いジャンパーを着ていたのだ。
ジェイムソンの行き先について思い当たる場所がひとつだけあった。
廃教会だ。
その日の夕方、わたしは廃教会に向かった。
橙色の夕日を背おい、黒いシルエットになった教会は、大きな黒い塊となってわたしに不吉な影を落とした。
扉は開いていなかったが、しばらくそこで待っていた。
はたしてわたしの予想の通り、あのローブの女は現れた。
「何をしている」
女は静かに訊いた。
「人を探している」
「ジェイムソンか」
わたしの言葉に被せるように、女がその名前を言った。
「なんで...知っているのか?」
わたしは、戸惑いながら訊いた。
「...」
女は答えなかった。
「今夜ここで儀式が行われる」
暗くなるには、まだ時間がある。わたしは女を残して教会を立ち去ると、一度町に帰ることにした。
町についてすぐ、わたしは見覚えのある後姿を見つけた。
それは娘だった。こんな時間に外をひとりで歩いていることを不振に思ったわたしは、彼女を呼び止める。彼女は、こちらを振り返り、驚いた顔をすると走り出した。その後を走って追いかける。娘が角を曲がり視界から消えると、すぐにわたしも、角を曲がる。
突き当たりにある建物に入っていく娘の姿が見えた。木製の小さな小屋で、窓がひとつ付いていた。
わたしは、その窓を覗き込む。その光景を見た瞬間、わたしは走り出していた。とにかくその場から離れたかった。
日が沈み、辺りは闇におおわれる。わたしは、教会に向かって、何かから逃げるように走った。
あの部屋のなかにあったのは散らかった机を挟んで向かい合って座る、もうひとりのわたしと、娘の姿だった。
7
教会は異様な熱気に包まれていた。手に火の付いた松明を持った、あの女と同じ格好をした教団の信者たちが集まっていた。あの女とは違い顔を覆うベールはつけておらず、中には町で見知った顔もあり愕然とする。
30人近くはいただろう。わたしは、そのなかに入っていく。
室内に照明はなく、彼らの持つ松明の灯りによって、ぼんやりと照らされていた。
木製の長椅子が整然とならび、その間に人々は立っていた。座っているものはいない。
中央の通路には、長さ3メートルほどの柱が寝かして置いてあり、焼けたような跡があった。その先端は奥の祭壇に届いている。祭壇の周りを照らすものはなく、最前列にいる者の持つ松明の弱々しい光によってのみ様子を知ることが出来た。
祭壇には、白い布がかけられた机が置いてあり、その上には火のついていない金色の燭台が置いてある。そこにあの女が立っていた。
「...ここに集いし救いを求める者達よ。我らが親にして慈悲深い神のもと、今宵の処刑を執行する」
女は抑揚の無い声で言うと、ゆっくりと手を前にかざした。それを合図に柱の近くに立っていた何人かが、柱を掴むと、それの先端をゆっくりと持ち上げていく。何か小さな影が先端についているらしい。持ち上がるにつれ、人々が掲げる松明によってその影が取り払われ、見慣れた姿を闇のなかに浮かび上がらせた。
「そんな...なんで...」
思わずわたしは、声を漏らした。
その柱の先端に縛り付けられていたのは、紛れもない娘だったのだ。
わたしは、信者たちを押し退けて、中央の通路に出た。
わたしは、娘の名を叫んだ。
「パパ、助けて!」
「どうして、ここに...?」
女が答えた。
「あなたと、今日の夕暮れ時にあったときに、あなたの跡をつけていたのに気が付かなかったのかしら?彼女は知っていたのよ。大人になるにつれて失われるそれをまだ持っていた」
「ふざけるな!」
わたしは、柱に掴みかかる。水に濡れたような感触があった。
松明を持ったひとりが柱に近づいて来る。わたしは、これから行われようとしている事態を理解した。柱を濡らしていたのは水ではなく、油だったのだ。
わたしは、近づいて来る信者のひとりを突き飛ばす。
「やめろ!」
「何をしている。あれはお前の娘ではない。ニセモノ...悪魔だ!悪魔を焼き払え!」
女は徐々に語気を強め、最後には叫ぶように言った。
信者たちは、その声に続くように、口々に恐ろしい呪詛の言葉を叫びながら、柱に押し寄せてくる。
「違う!娘はニセモノじゃない!」
わたしは、叫びながら、信者たちを突き飛ばすが、圧倒的な数に押され、ついには地面に汲み伏せられてしまった。
「悪魔を殺せ!」
その声の方へ視線を向けると、見覚えのある男の姿があった。ジェイムソンだった。彼の他の信者と同じような奇妙な輝きを宿した目をしていた。
わたしの目の前で、ついに松明の炎が柱に燃え移ると、それは一瞬のうちに柱全体を包み込んでしまった。
わたしは、わたしを押さえ込んでいた二人の信者 を振り払うと、娘の名を叫びながら、柱に向かう。
だが、凄まじい勢いで燃え盛る柱に近づいたとき、目眩を覚え、よろけるように柱から離れる。
炎に包まれた娘が、恐ろしい叫びをあげる。
わたしの、ゆらゆらと揺れる歪んだ視界にひとり明かりの無い祭壇で手を広げ天を仰ぐようにして立っている女の姿が写った。机の上には燭台があるが、火は灯されていない。
娘の叫びは消えていた。死んだのだ。
炎に包まれた死体が白い煙となって消えることはなかった。
わたしは、ゆっくりと立ち上がると、拳銃を取りだし、祭壇の女に銃口を向けて叫んだ。
「あの女はニセモノだ!」
わたしは引き金を引いた。
銃声と同時に、辺りは時がとまったかのように静まり返った。
女の額には穴が開き、後ろの壁に飛び散った中身が白い煙となって漂っていた。
女の輪郭がぼやけたように乱れると、右肩から先がずるりと根本から抜けるように落ちた。女は足元に落ち、白い煙をあげる自らの腕を見ると、残った左腕で頭をかきむしるようにすると、ベールが床に落ちてその蛇を思わせる醜い素顔が露になった。そして、狂ったように叫びを上げはじめると、その叫びは徐々にスロー再生のような、不気味に引き伸ばされた低い音になり、ついには湿った何かが泡立つようなゴボゴボという音しか聞こえなくなった。顔をおおった左手の指の間から溶けて卵の白身のようになった目玉が机にこぼれ落ちる。左手で喉をかきむしるようにすると、薄い肉が皮膚と共に剥がれ落ち、喉の骨が露になる。骨が白い煙をあげはじめると、ついにその重みを支えきれなくなって、ゴトリと机の上に頭が落ちた。頭部を失った体は立ち尽くし、その醜い断面から血を溢れさせていた。
眼球を失った虚ろな眼孔はこちらを睨み、口は呪詛の言葉を呟くように動いていた。
ひとりが叫び声をあげたのをきっかけに、信者たちは、雪崩のように出口に押し掛ける。
わたしは半ば押し流されるようにしながら、教会を出ると、信者のひとりが脱ぎ捨てたローブを拾い上げ、そのまま町を目指して走り出した。
あの女をニセモノだと言ったのは、ある仮説に基づいた予想だった。そして、その予想が当たったことで、仮説は確信へと代わった。
わたしは、あの小屋に行かなくてはいけない。
背後では廃教会が夜の闇を照らす松明のように燃えていた。
8
ドアを叩く音がして、振り替える。
鍵をはずし、ドアを開くと黒いローブを着てフードを目深に被った男が立っていた。
その男は、机をはさんで向かい合った椅子に腰を掛けていた娘の方を見ると、二人で話がしたいから外で待っていてほしいと言った。
娘がわたしの方を見たので、うなずいて見せると、静かに椅子を立って小屋を出ていった。
「あの子はニセモノだ」
男は言った。
「分かっている」
わたしが、そう答えると、男は一瞬驚いたようだが、すぐに落ち着きを取り戻すと小さな声で、そうか、と呟くと、フードを下ろして、素顔を露にして言った。
「わたしは、おまえのニセモノだ」
10
目の前の男──もうひとりの、本物のわたし──は戸惑っているようだった。
小屋は静寂で包まれる。遠くでサイレンが鳴っていた。
「わたしは、おまえのニセモノだ」
わたしは、もう一度言った。
わたしは、教会で娘を包み込む炎を見たときに、ジェイムソンの家の二階での火事を思い出した。燃え盛る部屋の隅でうずくまっていたケイトは、ニセモノだった。ニセモノが自ら正体を現したのはあのときだけだ。それほどにニセモノを追い詰めたものは何だったのか。火だ。わたしは、ニセモノが火を恐れているのだと考えた。教会の祭壇に置かれた火のついていない燭台を見たときに気が付いたのだ。あの女はニセモノだった。わたしは、その考えが正しかったことを確信した。
そして、気が付いたのだ。わたしが、ジェイムソンの家の暖炉の前で感じた不快感の正体を。煙草を吸っていなかった理由を。燃え上がる柱を前にして感じた目眩の原因を。
火だ。
わたしは、ニセモノだったのだ。
あの女が教会で言っていた。娘は気が付いていると。娘は知っていたのだ。わたしが、ニセモノだということを。
わたしは、机の上に置いてあったナイフを掴むと、それを自らの左腕に突き刺した。鋭い痛みが全身を貫き、呻き声を漏らす。ナイフを引き抜くと、傷口から赤黒い血が流れ出す。それは床に落ちると白い煙となって消えていった。
目の前の、本物のわたしは恐怖の表情を浮かべ後ずさる。
「わたしは...」
彼は小さな呻き声で絞り出すようにして呟いた。
「わたしは、本物だったのか...」
11
わたしは、自分はニセモノなのではないかと考えていた。
ずっと、何ヵ月もの間、悩んでいたのだ。
家族との間に見えない壁のようなものを感じていた。一週間に一度しか会うことのできない娘は、わたしになつくことはなく、妻はいつも苛立っているようで、わたしに強く当たった。些細なことで喧嘩し、次第に家に向かう足が重くなっていった。あの夜もそうだった。長い運転で疲れ、時計を見てこのまま帰るか、休んでいくかを、決めかねていたときに、家族のことを思いだし、休むことに決めたのだ。家に帰りたくなかった。
そんなとき、もうひとりのわたしが現れたのだ。
わたしの家族は彼と過ごすときとても楽しそうにしていた。
わたしは、安心した。わたしは、ニセモノだったんだ。本物のわたしは、家族と上手くやっているではないか。ニセモノであるわたしは、何も悩むことはない。
町で自分の娘を見つけたとき、彼女もニセモノだとすぐにわかった。追いかけて話を聞くと、家に自分のニセモノがいて、逃げてきたのだと言うのだ。この子は自分がニセモノだということに気が付いていなかった。
わたしは、自分と同じニセモノを見つけたことを喜び、空き家になっていた小屋で、二人で暮らすことにしたのだ。
だが、目の前の男は紛れもないニセモノだった。
ニセモノは拳銃を握った手を下ろしたまま、落ち着いた、それでいて力強い口調で語りかけてきた。
「わたしは...おまえは、家族を愛している。トラックの固いシートの上ではなく、家族のいる温かい家で眠りたいと思っている。家族を守りたいと思っている」
話し終えると、彼は手にした拳銃を、わたしの足元に投げた。
わたしはその拳銃を見つめた。
違う。
彼はわたしではない。
姿かたちが同じでも、心までは同じではない。所詮はニセモノの心だ。
「わたしを殺してくれ」
彼は静かにいった。
わたしは拳銃を拾い上げた。
「...わたしは、娘を守れなかった」
彼の目には涙が浮かんでいた。
まるで、人間だった。
わたしは、銃口を彼に向けた。
「妻を...家族を幸せにしてくれ」
わたしは、引き金を引いた。
12
銃声が鳴り響く。
わたしの意識は闇のなかに溶けていく。そこには光も音もない。
ここは何処なのだろう。ここが死後の世界だと言うのなら、わたしは死んだのだろうか。
確かにわたしは死んだのだろう。
銃声が鳴り響いた瞬間わたしの頭が砕け、その中身が皮膚に生暖かい感覚を残して流れ出ていく感覚を確かに味わった。
だが、今こうして考えているわたしの意識は確かに存在しているのだ。
わたしは何なのだろう。今のわたしには、それすら分からなかった。
だだ、ひとつ言えるのは、わたしが人間だったということだ。
エピローグ
わたしは、小屋を出ると娘にニセモノはいなくなったと伝え、家に帰った。
それから一週間、わたしは、家族を愛していた。わたしと家族の間にあった見えない壁は跡形もなく消えていた。
あれは紛れもなくわたしだったのだ。ニセモノの心などではなく、確かにわたしの心だった。
わたしは、明日から、しばらく休んでいた仕事に戻る事になり、自室で荷造りをしていた。飲み物を取りに行くために部屋を出てリビングに向かう。
娘は机で学校で出された宿題を片付けていた。奥のキッチンでは、妻が夕食の準備をしていた。
キッチンの横にある冷蔵庫から飲み物を取り出す。妻が突然、あっ、と声を上げた。横で料理していた妻の方を見ると、包丁で指を切ってしまったらしく、細くスラッと伸びた指の先に線のような切り傷が出来ていた。
そこから血が滲み出すと、まな板の上に落ちて白い煙を上げて消えた。