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5 三章 猫の気持ち

 何もかも諦めた日。

 私のすべてが塗りつぶされた。



 目の前には少年。人のよさそうな顔をした人族の男の子。後ろには子供かと思われる鬼が一人佇んでいる。


 あまりに人の良い言葉にクスクスとはしたない笑いが出た。途端に殺気に襲われる。


 怖い。後ろに控える鬼がこちらを睨んでいる。心が折られそうになる。


 こんな何も知らない、年端も行かない男に生涯をかけて仕える羽目になるなんて、憎悪する。殺意が湧き上がる。でも、私は奥歯をかみ締め笑ってみせる。

 興味をなくした鬼は目を胡乱に少年に付き従っている。


 少しほっとした。でも魂だけは、誇りだけは渡さない。そう覚悟を込めて笑ってみせる。母を、村を焼いた奴らには絶対に屈しない。



 暗い部屋から連れて行かれたのは大きな家。恐らくこの町の何処よりも大きい。


「アカネ風呂に入れてやって、その後部屋によこしてくれる?」


 振り返ると満面の笑みを浮かべた私よりも背の高い小さな鬼。


「わかったよマスター。綺麗にしてあげるね」


 怖い。先ほど殺気を私に向けた鬼と同じとはとても思えない。

 蛮族に恐怖する。何をされるのだろうか?。


「アカネが先輩になるんだからしっかりルールを教えてあげてくれよ」


 何を、何を言うんだこの餓鬼は……こんな化け物に……。手を差し出してくる鬼に恐怖する。少年はもう居ない。怖い怖い怖い。情けないことに悲鳴が漏れる。


「ひっ……」


「大丈夫だよ?マスター優しいから……」


 何を?な、何を言ってるんだ?蛮族が、何を!?


「もう大丈夫だよ?」


 恐怖に震える体が抱きしめられる。優しい手はいつくしむように体を包み、暖かさと甘い香りに……昔感じた母の香りに。あの日からどれだけたったのか……長く忘れていた感情が蘇る。


 「泣いていいんだよ?お風呂だし、他に誰も居ないから」


 やめろやめろやめろ。私は不幸じゃない。私は覚悟を決めたんだ。私は、私は、私は……。嗚咽が止まらない。感情があふれ出す。恥ずかしげもなく泣き叫び、堰を切ったかのように声が止まらない。



「ごめんなさい。恥ずかしいところを見せました。忘れてください」


「大丈夫だよ。マスターは気にしないから」


 はじめてみる暖かい泉で、蛮族とバカにしたアカネという鬼に抱きしめられていた。

 泣いて喚いて、声を出したから、強がっていた心が少しだけ軽くなる。怖い鬼は居ない。ここに居るのはアカネという少女だけだ。


「ありがとうございます。アカネさん。これからは同じ仲間として助け合って、生きて行きましょう」


「ふふ。マスターは優しいよ?心配しなくていいよ」


 ころころと笑うアカネさんは優しく微笑んで、それを見てさらに心が軽くなる。

 我ながら単純だと思うけど、心を許してしまった。


 暗い部屋で一人。惨めだったことを思い出し、もうあんなところには戻りたくないと強く思う。きっと彼女に裏切られたら、私は壊れてしまうだろう。

 クスクスと笑うアカネさん。彼女がぬくもりを与えてくれた。

 暗く孤独な部屋にはもう戻れない。単純な私は、感謝と共に笑われてることに抗議のまなざしを返した。



 与えられたぬくもりに感謝し、呼ばれた部屋に向かう。

 仲間が居るんだ。餓鬼に何をされようが屈しない。気持ちを新たに部屋に入る。


「風呂どうだった?満足してくれたかな?うん。綺麗になったね。服は……そのサイズしかなかったから今度買いに行こう。聞こえない耳はどっちだっけ?こっち?ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね。どう?聞こえる?」


 驚いたことに私に与えられるぬくもりは数え切れなかった。


 先天的に聞こえないはずの耳がちくりとした痛みと共に聴力を取り戻す。

 奇跡。

 先ほど呆れる位泣いたのに涙が止まらない。


 ご飯を食べさせてもらった。初めて食べる料理の数に圧倒される。何を話したのかも思い出せない。


 本を見せられる。奇跡の技を記した魔法の教本。母に教わった奇跡の一端を思い出す。奴隷に落ちて無縁になるのだと思っていた。届かないと思っていた。得られない筈だった物……。


「今日から先生に教えてもらうから頑張ってね」


 専属の魔法使いが教師に付いた。ありえない。


 日々、魔法を学ぶ。3ヶ月ほど基礎をやり直し、正しい使い方を学ぶ。

 半年もたったころアカネさんと初めてギルドの依頼を受けた。役に立った。

 一年も経てば私はそれなりの魔法使いとしてアカネさんと依頼を受ける。

 一年前が嘘みたいだ。私は笑っている。朗らかに、楽しく、幸せそうに。


「アカネさん。マスターは変な人ですね。奴隷を外に出し、待遇もいい。逃げられると思わないんでしょうか?まぁ、契約の魔石があるから逃げれませんけどね」


「逃げる気なんてないのに?」


「そうですけどね。こう、なんといいますか危ういですよね?マスターは」


「大丈夫だよ。私が、私達が守るし、命がけで、何にも変えられないマスターを、居場所を、私が守るよ。私のマスター、私の、私の、私の……。エリサ、何でそんなことを聞くの?何で?もしかして……」


 アカネさんは狂ってる。でも私も狂ってる。


「ありえません。呪い殺しますよ?いいからその手をどけなさい。あの方は私のマスターでもあるんです。独り占めしたくなるでしょう?」


「ふふ、判ったよ。じゃあそろそろ一人で寝れるようになってね」


 クスクスと二人してくだらない事を言い合う。マスターに会えて幸せだ。買ってもらって幸せだ。くだらない事で笑い合える素敵な友達ができた。嫉妬することもあるけど……。


 ぁぁ、私が塗りつぶされていく。幸せに、幸せに、濃く、濃く塗りつぶされる。

 もう、白くならない……でも、これでいい。私は幸せだ。

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