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先生

作者: そらきち

「どうか、しましたか」

 先生は、教科書と睨み合いをしていた私をみかねて、話しかけてくださいました。先生は私の対面の席に腰かけると、手元を覗き込んできました。

 窓硝子越しに射す夕日が、ワックスのかけられた床を紅に染め、そこはかとなくノスタルジィな雰囲気を醸し出していました。どこまでも幻想的。

別世界のような赤の鮮烈さが、私の視界の多くを支配しています。

 私がその情景に目を奪われていると、つい、と先生が顔をあげました。

その瞬間、目の前の風景は、一つの絵画的作品へと昇華していました。私は息を呑みました。

「ここが、わからないのですか」

 先生は、微笑しながら、赤いバツ印の書かれたところをトントンとボールペンで突っつきました。

 他の人がその動作をやれば、とても嫌な挙動なのでしょう。しかし、先生がすれば、どんな動きだって無駄のない洗練された流麗な動作に見えるのです。

「ええ、まぁ、はい」

 私は少し目を伏せ、しどろもどろになりながら返答しました。恥ずかしいことに、私の数学における成績は芳しくなく、こうして補習をしていただかなければ授業から置いてきぼりを食らうどころか進級すら危ういという有様なのです。

 大体、学生の時間、いや青春の時間を削ってまでややこしい数式とランデブーをしなければいけないというのがはたして正しいのでありましょうか、いや、正しいはずがないのです。

 昔の人は言いました。

「命短し恋せよ乙女」と。

「乙女よ大志を抱け」と。

 誰が言ったか、そもそも言ったのかすらわかりませんが、そんなことはどうでもいいのです。そう思いついた私の脳内にはもはや数学などという些末なものは存在しておらず、大切な大切な、「初恋」のみがぽつねんと在りました。

 そう、「初恋」。

 私はこの齢になるまで一度も男性に恋をしたことがなかったのです。それどころか、嫌ってさえいました。

 同級の友がやれ誰が好きだのやれ誰が失恋したなどと私にとっては何が面白いのか到底わからない(今になっては過去のですが)話をしているなか、私は一人寂しく千羽鶴を折っていました。いや、入院している人がいるというわけでもないですけれど。

 そんな根暗でじめじめした中学校生活を脱却し、高校生となった私は、人生の中で初めて一目惚れをしました。

 衝撃でした。恋というものに全く触れてこなかった私でさえ、本能的に恋愛というものを理解しました。

 それからというものの、私は恋という甘美な概念の虜となりました。いや、この表現だと語弊があります。

 私は、彼――つまり先生の虜となってしまったのです。

 先生のすべてが愛おしい。

 先生のためなら、死んでしまっても構わない。

 そう思えるくらいには、私は「初恋」しているのです。

「では、一緒に解いてみましょうか」

 先生は私の瞳をこれ以上ないくらい真剣な眼差しで覗き込んできます。

 私は頬が熱くなるのを感じながら、先生を見つめ返し、「はい」と応えました。

 教室には、拒絶的ながらも温かい、不思議な紅色で染まっていました。





 私と先生との邂逅は四月、桜の花弁の舞う時分でした。

 受験という戦争を終局まで戦い抜き、見事勝利を収めた私は晴れ晴れとした気分で入学式を迎えておりました。

ですが、長々と続く校長先生様のありがたいお話を聞いていると、この選択は誤っていたのではないかという疑心暗鬼に陥りそうでした。隣に座っている黒髪の女の子も、反対の隣にいる活発そうな男子も、首をこくりこくりとしていました。

恐るべし校長の怪電波。

そういえばなんで校長先生と言えば禿げ頭を連想するのでしょうかなどと目の前の校長先生の禿げ頭を見ながら他愛のない妄想を繰り返しながら職員席に目をやりました。

特に意識したわけでなく、本当に気紛れです。ですが、運命はいつも気紛れの中にあるもの。私は、そこであの姿を見たのです。

 そう、先生の寝顔を。

 とても心地よさそうでした。

 体育館に入り込んできた陽光に照らされた先生の顔は、とても穏やかでした。

 いや、教職員が寝ちゃ駄目でしょう。

 と一瞬思いましたが、次の数瞬後には、そんなことすら考えられないくらいに、その寝顔に目を奪われていました。

 心臓は、普段の二倍のスピードで鼓動を打ち。

 呼吸は、じりじりと乱れ。

 心中は、今までに無いくらいにざわついていて。

 胸が苦しくて、切なくて。

 バイタルサインは滅茶苦茶で。

 発狂寸前のように感情が流れ込んできて。

 ああ。

 これが。

 恋なのだと。

 理解してしまったのです。





 それからの高校生活は、優美で甘美で目くるめく楽園のような生活であるとともに、また、苦痛と拷問に染められた無間地獄のような生活でもありました。片思いがこんなにも苦しく、切ないものであることを知りませんでした。

 先生は、私の担任でした。

 朝のホームルームで会うたびに、胸が締め付けられるような錯覚に襲われます。ですがそれと同時に、一日を有意義に美しく過ごそう、という活力が体の隅々までいきわたるのです。

 不思議なものです。

 嬉しいのに、辛い。

 楽しいのに、悲しい。

 一見二律背反な事象に思える二つが共存しているこの感情は、なぜだか嫌いではありませんでした。





 私は恋に恋しているのでしょうか。

 私はふと、恋について思考をしていると、不安に思いました。

 恋をしている自分が好きなだけで、先生が好きなわけではないのではないか、と。

 艶やかな黒髪の級友にその旨を相談したところ、思わぬ返事が返ってきました。

「そうなんじゃない」

 無表情のまま言い放つ我が級友。

 こういう時は「違う」と一言言うのがマナーであり、流れというものではないのでしょうか。それをこのまっくろくろすけと言ったら情緒も解さず空気も読まず、あっけらかんとばっさり切り捨てやがりました。

 外道が。

 と思わず口に出そうとした瞬間、友人は口を開きました。

「でも、そんな恋だって、そんな勘違いから始まる恋だって、いいじゃん」

 友人は、自分で言ったことの青臭さ加減に照れたのか、窓の外をわざとらしく覗いています。長い髪の向こう側にちらりと見えた少しだけ赤くなった頬は、熟れきってない林檎のようでした。

 私は、級友には恵まれているのかもしれません。

 初恋のおかげで、いい友人を得ることができました。

 そんなことを、まさに青春の一ページを思い返しながら、今日も恋を、この初恋を大事に育んでいくのです。





 雨。

 私は、リノリウムの発する冷気を全身に受けながら、立ち竦んでいました。

 頭が、心が、脳が、感情が、体が。

 自分という人間を構成するありとあらゆるパーツが数刻前に起こったことを拒絶しようとしているようです。

 消毒液の匂いが肺の奥深く、肺胞の一つ一つに這入りこんできているようでした。

 病院は嫌いです。

 みんな死んでしまうから。

 終わりの、地点だから。

 内装の白が、わざとらしいから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 くすぶった焼香の匂いが嗅覚の全てを奪い去っているようです。ただでさえ重苦しい空気がスポンジのように夏の雨を吸い、さらに不快な重みを纏っていました。

 耳に入るのは、窓硝子に水滴が叩きつけられる耳障りな音と、悲しげな数人のすすり泣く声でした。

 私は、頬を流れ伝う涙を感じつつ、前方の黒い布を着た肉の壁と、殺され刈り取られ、今ではただ美しい姿のまま死を待つだけの白い菊をぼうっと眺めておりました。

 これは、失恋。

 なのでしょうか。

 先生が倒れたあの日も、確か雨だったなぁ、とぼんやりと思いつつ、喪主の方の言葉を聞き流します。

 先生は、死んでしまいました。

 私の愛した人は、この世からいなくなってしまいました。

 ああ、命って。

 こんなにも儚い。

 まるで砂上の楼閣。

 なんと脆い。

 私は棺へと近づき、先生の顔を覗き込みます。

 その死に顔は、とても安らかで。

 心地よさそうで。

 最初に見たときの、あのままに、先生は息絶えています。

 いやだ。

 どこかにいかないで。

 わからない問題もあるのに。

 いやだいやだ。

 私は先生の顔に手を当て、ついっ、となぞりました。

 まだ、伝えていないのに。

 好きでした、って。

 一目惚れでしたって。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 気が付くと、私は叫んでいました。

 叫んで、叫んで、叫んでいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「骨がしっかりしていたのでしょうね。いやはや、こんなにしっかりした遺骨を見るのは初めてです」

 お坊さんが丁寧に骨を配置しなおします。

 終に先生はカルシウムの塊と成り果ててしまいました。

「若いからでしょうか。いやはや、本当に、このたびは、どうも、お悔やみ申し上げます」

 お坊さんはお骨に関してのお話を始めましたが、私の耳には、そのすべてが入ってきませんでした。

 先生のいなくなった今、どんなに為になる話でも、どんなにいい話でも、いりませんでした。

 別に話を聞いたところで、先生は帰ってこないのですから。

 自分でもわかるほど虚ろな目で骨を見ると、なぜだが、そこから目が離せませんでした。


 美しい、人骨。


 頭蓋骨、しゃれこうべ、髑髏。視界に入った瞬間に、私の理性は吹き飛びました。

 手に入れたい。

 美しい。

 恋。

 これが。

 体が勝手に動き出す。

 黒い肉の壁を叩き壊す。

 理性は殺された。

 法なんて関係ない。

 モラルは崩壊した。

 乱暴に、しかし割れ物を扱うように『先生』を奪い去り、雨の降る外へと駆け出した。

 髪が、服が、靴が。

 腕が、足が、頭が。

 雨に濡れて。

 風に吹かれて。

 自分自身が、まるで暴風雨になったかのように。

 ああ、そうか。

 私は、壊れた。

 いや、正常になったのか。

 恋のために、愛のために。

 ああ、初恋よ、ありがとう。

 美しき世界に。

 先生に会えて。

 先生を手に入れられて。

 この素晴らしき世界を。

 ありがとう。

 カミサマがこの世界を祝福するように、光で私たちを―――――――――――――――――――――





 刹那。








 鈍い音。




 肉が。




 潰れ。




 骨が。




 砕け。




 そこに残るは。



 赤と白のみ。












 ――――先日未明、高校一年生の女子が、車に轢かれ、息を引き取ったとの情報が―――――――――


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