第九十六話 終局
細い月が光る夜を昇っていく。
早々に四肢を切断した牝猪を放置して、ヴァルフとマニは山猫と二つ首を相手取っている。牝猪の例からしても四足の獣は脚一つでも動きを封じれば楽に狩れるが、厄の思わぬ機敏な動きに慎重な立ち回りを強要されていた。
不浄の塊は最早人型を保っていない。蛇の群れのように分裂したかと思えば、不意に一つに集まり瑞々しい命を求めて限界まで手を伸ばしてくる。予測不能の動きにヴァルフですら回避主体にならざるを得なかった。
二人が矢面に立つその間にアルクゥとパルマは外野の掃除に専念する。
特にパルマの働きは要だ。
ゴーレムの腕を六本に増やし、内の二本で少し距離のある前方のヴァルフたちの背中を守り、襲いかかる外野を弾きつつ、他の四本で無差別に潰していく。対複数の戦闘において大きさとは強さだ。群れたところに拳を振り下ろせば狙いが甘くてもどこかには当たる。刃が通らない相手も氷の超重量には耐えられない。アルクゥは速度と威力に優れる魔力の刃を連発できる強みを生かし、ゴーレムの鈍さを補いつつ遊撃として動く。
即席の陣形は上手い具合に機能し、魔獣を三分の一を減らした時点をもってしても有効であり続けた。
一人に攻撃が集まれば容易く崩れていただろう。ヴァルフなら捌けるかもしれないが。
しかし戦端から現在に至るまで魔獣共の狙いは不安定で移り気だ。
特に山猫と二つ首の牙はそれが顕著だった。ふとした拍子にうろうろと向きを変える。厄憑きと魔物の本能がなけなしの知性よりも上位にあるのかもしれない。より高い魔力を持つ人間、アルクゥとマニが気になって気になって仕方がないのだ。それに加えて鼻先には油断できない人間がチラつく。隙を見せる度に肉を削がれていく。
恐らくは山猫か二つ首のどちらかが群れのリーダーだ。周囲の魔獣にもぶれが伝播している。各々が思うままに動くので数の利が死んでいる。
同時にそれは使役者の不在をアルクゥたちに教えてくれた。
そんな勝機を見出しながらも、時間は刻々と流れていく。
グリフォン等の下位は簡単な相手だが、上位に名を連ねる魔獣は切っても潰しても立ち上がってくるので時間がかかる。数を半分以上まで減らした頃には、下位の魔獣までが死に難くなっていることに気付いた。
仕留めたと思った大蝙蝠が飛び付いてくるのをバラバラにし、アルクゥは空を振り仰ぐ。
月の南中が近い。夜が深くなる。
――ガルドの妙な結界、疑似幽世とでも言おうか。これはいつまで保つ?
前方の体力お化け二人はまだまだ大丈夫そうだが、パルマの呼吸が乱れ始めている。当然だ。巨大な物体を精巧に動かす魔力と集中力を消耗し続けているのだから。炎で一掃したくとも魔獣の爪は間断ない。
勝負を賭ける頃合いか。
存在を主張する胸元の宝石を引きずり出す。
「ヴァルフ!」
遊撃役を代われとアルクゥが叫んだ瞬間ヴァルフは攻めに転じた。山猫の飛び掛かりを横に回避し、擦れ違った尾を追いかけるように肉薄する。剣を下段に構え、狙うは後ろ脚。一歩、深く強く踏み込んだところで前後があるかも不明な厄が振り返り、蛇の顎のように大きく広がった。
アルクゥの息が止まる。
「死ぬなよ」
「無茶を……!」
厄と地面の僅かな隙間を転がり、山猫の股下をくぐり抜けつつ噛みつこうとした顎を柄で砕く。片手で地面を押して体勢を立て直し、平然とアルクゥの横を駆け抜けて行った。
アルクゥは山猫から目を離さずに拠点に近付いた分だけ前に誘導する。下手をすれば一撃で喉を食い破られる覚悟もしていたが、無類の速さを誇る山猫の動きはぎこちない。ふと見れば、右後ろ脚がない。気を遣いすぎだと舌打ちするも、足首切断がなければ対応出来たか自信はなかった。
魔力の高いアルクゥとマニが近付くことで標的の分散が小さくなり攻撃が激化する。
魔獣共が思考するならば、こちらと同じことを思っているだろう。自由に動けるようになったヴァルフとパルマが次々と敵を殲滅していく。
残り十を切った。
アルクゥはひたすら逃げて回る。
蟷螂に似た魔獣の鎌を避けて、マンティコアの尾を踏む。触れた部分が首飾りの護りで焼け焦げていく。
じりじりと近付いてくる三本脚の山猫と厄の手から遠ざかろうとすると、その体側にオルトロスの二つ首が突っ込んだ。縺れ合いながら随分前に置き捨てられていた牝猪のところまで転がっていった。
「けけっ上手く誘導できたろ」
上方に跳んでいたマニが横に軽く着地する。湯気が立ちそうなほどの熱を発しているがアルクゥよりもよほど余裕がありそうだ。
「取り巻きはあと八……七か。任せときゃ問題ねェか……おい、家主!」
慌てたマニの視線の先を見る。ヴァルフが膝を突いていた。怪我をした様子はない。
――厄に触っていたのか。
思わず駆け寄ろうとしたアルクゥをパルマが怒鳴りつける。
「馬鹿二人は自分のことに集中しなさい!」
はっとして大きく後退したところに山猫が落ちてくる。よくもその欠損した脚でと舌打ちし、向かってきた厄の触手を掻いくぐる。ヘルハウンドの口内に刃をくれてやったところで、ずるりと視界が下がった。血濡れた草を踏み足を滑らせる。
起き上がろうと手を突いて顔を挙げた正面に顔のない真っ黒な頭部があった。愛し子を抱擁するように両腕を広げて黒い人型が迫ってくる。
後退か前進か。本来一択であるべき選択が相反する二つに分かれて頭に浮かぶ。
正気の沙汰ではない――前に行くべきだ、と。
アルクゥは蠅の塊に顔を突っ込みその先にある憑代に手を伸ばした。鎖骨の窪みに収まった首飾りの宝石が燃え上がらんばかりに熱くなる。予想とは違い魔力を吸い取る速度は緩慢だった。行儀よく厄の食事を待つ二つ首の腐りかけた前脚を握り締め、無我夢中で幽世に引きずり込む。
瞬間、黒い災厄はアルクゥから魔力を奪うことすら忘れて奇妙に捩れた。
疑似幽世よりも数段高い光輝の中で厄は生きられない。純粋な力が満ちる世界に解けて滅び、その依り代であった二つ首も倒れ急速に腐っていった。
ほっと一息ついたアルクゥは戦場においてそれがいかに愚かしい行為か即座に思い知ることになる。
下顎のないヘルハウンドが一直線に走ってくる。
ヴァルフやパルマに厄が見えるなら、魔獣に幽世内のアルクゥが見えるのは道理だ。
咄嗟に体を横倒して直撃は避けるも、肩から鎖骨に掛けて肉が裂けた。
――熱い。
腕を落とされた経験はある。しかし感覚がまともでないときのことだ。感覚上では初めての深手に目の前が白くなる。神経が焼き切れそうだ。傷跡を押さえた手の平に感じるぬめりに動揺が加速する。
それでも重く草を蹴り上げる音を耳は捉えて本能に警告した。ヘルハウンドが戻ってきている。
――大丈夫だ。動ける。動け!
体を持ち上げるまでが足掻きだった。真上から落ちた影に最早見上げる気力もない。血濡れの草を足で蹴るが僅かにも動かなかった。
上から迫る微かな音に目を細め、次に訪れる衝撃と昏い世界を覚悟する。
その眼前でヘルハウンドの頭がぱっくりと割れた。
以前も間際に助けられた。その記憶により白い人影を幻視したアルクゥは、降り立った二人に我に返る。
「なぜ……」
「アルクゥ様! 助太刀に参りました!」
「トゥーテ貴様周りが見えんのか! 挨拶は後だ! しかも何だこの気持ち悪い空間は!」
アルクゥの護衛だった女騎士のトゥーテがヴァルフの方に駆け出す。
ヤクシはそれに文句を溢しながら深海色の魔眼でアルクゥを一瞥し、転がっていろと刀を構えながら呟いた。
「都合良く、来ましたね」
「世の中はそんなに上手く出来てはいない」
「……ああ、ヴァルフの言っていた犬とはそういう……見張りがいたのですね」
「念の為にな。今は黙っていろ。不本意だが今回の俺の仕事は貴様の護衛だ」
痛みで霞む視界の上を翼竜が飛んでいる。
ユルドがいたから護衛を承諾したのだろうと思い付いた軽口は、結局言う気力がなくなって舌の上で消えて行った。




