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精霊のシジル  作者: 染料
六章
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第九十五話 戦端


 窓辺に頬杖を突き日暮れに合わせ透き通っていく月陽樹の葉をただ眺める。

 ベルティオの奇怪な行動とそれに対する王宮の対処がアルクゥの思考を占めていた。その他の憂慮は隅の方に押し遣られたが喜ぶべきかは微妙だ。

 ベルティオはなぜわざわざ王宮に出向き捕まるような真似をしたのか。攫ったという王宮魔術師がそれほど重要だったのか。

 そして王宮側はなぜ人の口に戸を立てなかった。侵入を許し、捕えたにも関わらず逃亡を許し、更には国の財産たる魔術師を奪われたなど醜聞でしかないだろうに。恥を晒した意図がわからない。騒ぎが大きく隠蔽が不可能だった状況も考えられたが、昨日の出来事が即記事としてばら撒かれている辺りやはり隠す気がなかったと見て間違いはないだろう。

 大々的に恥を広報する意味とは何だ。

 敵を欺くような情報戦だとか。そういえば軍部は近衛騎士団が嫌いだったが、まさかそちら方面の理由だとすれば非常にくだらない。その他には――。


「警告……それも、可能性としては」


 むしろこれが正解だという気がしてくる。

 記事として広くばら撒けば味方の居場所を気取られることなく伝えられる。

 各地に散らばりティアマトの混迷の原因を調査する者たちがいる。彼らにとって最も疑わしき魔術師の動きは非常に重要だ。

 ――もしかすると彼らは狡猾な魔術師を追い詰める段に迫っているのかもしれない。

 ベルティオの失態がその考えを後押しする。

 アルクゥは肩の緊張を解いて脱力した。ようやくあれは裁かれるのか。

 サイドテーブルからベルティオの短剣を取り出す。最初の罪がもう随分と昔に感じられる。錆びて見える刃に魔力を込めると鋭利な輝きを宿し真っ赤な夕陽を反射した。

 太陽が稜線に落ちていく。

 暮を惜しむようにひと時だけ輝いて、真っ逆さまに姿を消した。

 東から追いついた昏い夜が淡い残光すらも食べ尽くす。

 生と死の領域が入れ替わる。人が光を手にしても尚支配に能わない魔の時間が。

 日没。

 陽と月の交代劇を眺めていたアルクゥは、そのとき空に無数の亀裂を見た。

 大きくゆっくりと目を瞠る。

 夜の欠片を割るようなひっそりとした破壊の音と共に拠点を守る結界は落ちた。


 強く吸った息が喉を擦って短い悲鳴に化ける。


「ヴァルフ、どこ!」


 先程は下でベルティオの記事と睨み合っていたはずだ。

 部屋から転がり出て階段を飛び下りながら一階に急ぐ。

 そこで剣を握って廊下を駆け抜けようとする兄弟子を見つけ、結界が術者が倒れたせいで消えたのではないのだと安堵するのも束の間、押し寄せた違和感のままアルクゥはヴァルフに飛び付く。小揺るぎもせずアルクゥを受け止め律儀に足まで止めた兄弟子を思い切り後方に突き飛ばした。確認するまで先には行かせない。

 扉を押し開けて外を睨み付ける。

 息を切らせて逃げ込んできたメイを建物内に押し込みながら周囲を見渡した。結界障壁の崩壊はあまりにも唐突すぎる。侵入者があったのでもなく、魔術が使われた気配もない。

 表には興奮するケルピー以外に何もいない。


「おいおい、何がどうしたよ」

「マニは上から拠点の周りを確認してください。メイさんを灯り代わりに持って行って。誰か、何かがいたら大声で呼ぶように」

「よくわかんねェけど、わかった。おら行くぞおっさん!」


 ぜいぜいと肩で息を継いでいたメイは、マニに担がれながら切れ切れに訴える。


「魔物の影が、空にすごい沢山、リリくんに尻ひっ叩かれて、教えに」


 それから乾燥した喉が張り付いたのか強く咳き込み、落ち着いてからは長々と溜息をついた。


「でも遅かったみたいだね。ああ、本当に死ぬかと思った。ここ一帯の魔力が濃くなってるようだ。転移の目印からずれて落ちたのは屈辱だよ、僕は。けれど、まあ」


 メイは月陽樹と拠点を擁する草原の境に目を細める。


「悪名高い魔獣の群れに出会えたのは貴重な体験なのかなあ」


 森林に続く暗がりに二対一組、数多の光が潜んでいる。

 胸元の宝石と右腕の鱗が爛れるように熱かった。あの中には悪意を宿すものがいる。

 しかしまだあの距離だ。結界を破壊したものは別にいる。


「お二人、逃げるにしろ倒すにしろ判断は急ぎなさいよ。夜が更けるぶんだけ僕らは不利になる。朝と夜の魔物の強さは仔猫と野犬ほどにも違うのだからね!」


 二階にメイの声が遠ざかっていく。

 今のところ暗がりから出てくる気配はない。統率がとれている証拠だ。

 一歩前に出るとヴァルフに首根っこを掴まれた。怖い顔が見下ろしてくる。


「あ……さっきはごめん。でもまだ前には出ないで。せめてマニの報告を待ってから。何がいるか分からない。もしヴァルフがガルドさんみたいになったら嫌だ」

「ならねぇよ。……ったく」


 眉間に深い皺を寄せているヴァルフだが、渋々ながら頼みごとを受け入れてくれたようだ。後ろから状況の把握を始める。


「見える限りで二十、三十……何匹だ? 囲まれてるな。おっさんの言う通り全部魔獣種なら厄介だが、なぜ動かねぇ」

「確実に勝てる時間を待ってるとか」

「夜中を待つか。賢しいな。使役者がいるなら……魔女婆が一番広く探知できるな」

「ネロ。ガルドさんを呼んできて」


 ケルピーは窮屈に体を曲げて扉をくぐりガルドを呼びに行く。

 けれど、とアルクゥは魔物から目を逸らさないまま眉を下げる。


「術師がいたとして、そちらを狙うにしても多勢に無勢だ」

「向かっていくのが得策じゃねぇことはわかってるよ。距離を取らないと転移もできねぇな。正面の包囲を突破できれば……アルクゥ。あそこまで炎は届くか」

「ヴァルフがそうして欲しいのなら。でも森に延焼するかもしれない」

「そうなったらその時だ。俺が尻を持つ。合図したらやれ。ケルピーに乗って逃げろ」

「ヴァルフは? それにネロだって皆を乗せられるわけじゃ……」


 そこで言葉を止めてヴァルフを振り返り、アルクゥは語気を強めた。


「もしネロに括り付けられて送り出されたとしても、私は絶対に戻る」

「アルクゥ」

「戻るよ」

「……頑固だなお前は。わかったよ。傍にいろ」


 ふん、と鼻を鳴らしてアルクゥは目を閉じた。

 マニの周囲には誰もいなかったという報告、現状に怒り出したパルマの怒声、メイが屋内に結界の構築を始める気配を意識から排除して瞼の裏に映る炎のみに集中する。

 狙いは甘くてもいい。あくまで数を減らすだけだ。魔獣共の間近に火種を撒くには少し遠い。それなら。

 アルクゥの魔力に夜気は退き周辺の温度が上昇していく。

 体の周りを遊ぶ赤青混じった燐火を暗がりに射った視線に乗せた。

 炎は渦を巻きしなやかな獣のように奔る。

 届いた――そう確信した瞬間に炎は霧散する。


「何を、されたの? 防がれたのかしら」

「と、いうよりは……」


 消されたと言うべきか。

 やはりいたなと目を眇めるも動揺がアルクゥの手を震わせる。

 姿を現したのは三頭の魔獣だった。牝猪パイア二つ首オルトロス山猫グーロと全て種族は違うが、その後頭部から背中にかけて人型の影が癒着している。黒い蠅が集まって形を成しているかのような汚らわしいものだった。炎はあれに打ち払われるようにして消えた。

 幽世側に存在する厄。

 王宮を襲った粘体と同じだ。生命喰らいは魔力でさえも吸収する。

 二つ幸運がある。今回の厄は前と比較にもならないほど小さく、周囲を守る魔術師もいない。しかしより悪いことに、素早く駆ける脚を持つ魔獣が憑代だ。

 と、真横を銀色の閃光が過る。ヴァルフが不意打ちに投擲した剣はパイアの右前脚を半ばまで切り裂くが、血は流れず、痛みの声も上げない。


「あの三頭の背に影が見える人は?」


 手を挙げたのはマニだけだった。

 厄憑きの魔獣をどうにかしない限り他の者は戦えない。アルクゥとマニはあの三頭を処理しなければならないが、後ろには他の魔獣が控えている。幽世に入って三頭を相手取るとしても、身体強化すら使えない空間では食い殺される未来しか想像できない。生きながら内臓を食まれる感触を想像して吐き気がしてきた。


「ねえねえ、結界作ったけど君たちも入る?」

「無意味です」

「それを早く言いたまえよ。無駄骨じゃないか!」


 メイが投げ付けた白墨が床にぶつかって折れる。

 ヴァルフが前に出ようとしたので服の裾を強く握った。その隙をついて前に出たパルマが扉口に立ち「フリュム」と冷気を喚ぶ。構築された氷の巨人が三頭の頭上から拳を叩き付けるも、触ることすらできずに解体された。パルマが愕然と目を見開く。

 オルトロスが嘲るように遠吠えを上げると、暗がりから他の魔獣も姿を現わす。力のある個体がリーダーになるという野生の掟が通用するのであれば、厄を背負ったあの三体のどれかが異種の群れにおける司令塔だろう。分かったところでどうにもなりはしないが。

 忌んだ鱗に爪を立ててみても、何の力も湧いてこない。肝心な時に役に立たない屑だ。


「影っていうのは幽世の死霊なのかな?」


 場違いな明るい一声が誰のものであるか理解するまで少しの時間を要した。

 視線だけを動かす。ガルドがアルクゥを見つめている。艶やかだった髪は褪せ、目は充血して酷くやつれているのに、瞳だけは魔獣のように爛々と輝いていた。


「厄です。人の形ですが死霊と違って恐らくあれに自我はない。似たようなものですけどね。魔術は効きません。命を貪るだけの存在です」

「そう。そうか。それなら……それで都合がいいんだ」


 ガルドはにっこりと笑ってどこからか取り出した黒い珠を投げた。

 アルクゥたちの目は反射的にそれを追いかける。

 放物線を描いてオルトロスの手前付近に落ちた珠は、薄氷を踏み抜くように容易く割れた。内部には黄金と見紛う輪状の魔法陣が何層にも折り重なっている。それは空気に触れた瞬間大きく球体に展開した。

 拠点の周囲に光の雨が降り注いだかのようだ。球体の内部には幾分か薄く感じるものの、恐ろしく見覚えのある光が舞い踊っている。

 ヴァルフが眉間を強く押さえながら呟いた。


「人型の影ってのは、あの三頭か」


 途端、ガルドが腹を押さえて喉をひくつかせながら哄笑する。成功した、と。


「――ワタシの胸ぐらを掴むより先にすべきことがあるのではないのかな? いつまでもつか分からないよ。それに腕は隠した方がキミのためだと思うけれど」


 何をした、と叫んだのだと思う。

 目の前に掴み寄せていたガルドを乱暴に突き放し、右腕を隠しながらヴァルフたちを振り返る。憂慮に反して皆意識も動きもはっきりとして見えた。


「何ともない?」

「魔力が扱い難くなった。あとは息が少し苦しい感じだが、動くには問題ない。婆が何をしたのか知らんが見えてる内に動くぞ。あの黒いのに触れなきゃ魔術も消えねぇんだろ」


 頷くと、ヴァルフは戦力外の老人二人を追い払う。


「パルマとアルクゥは魔術で雑魚を掃除、俺とマニは厄介な三頭の足止めだ。急所は狙うな。とうに死んでる。足を壊せ。それが起き上がり駆除の定石だ。常に拠点を背に意識しろ。一定以上離れるな。老人共の、特に婆の援護はあてにすんなよパルマ。あの目はどう見てもイカれてる」


 師を悪く言われてもパルマは文句一つ漏らさない。

 全員は互いの目を見交わし合う。

 長い夜が始まった。


 

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