第九十二話 前日
星が満天に輝く夜の下、水で割った酒であるかも怪しい果実酒を小さく舐めるように飲む。月は南中、各々食べ物を買い込んでささやかに始まった別れの食事会はよいを深めながら続いている。思った以上に人が集まり、階下は陽気に騒がしい。感謝の意をと言って個人的に美酒や食べ物を持ってきた騎士団長らは初めこそお固い顔をしていたが、酒精の力を侮るなかれということか。
アルクゥは屋上の縁に腰掛けてほろ酔い気分で足を揺らす。
明日の早朝にサタナたちは王都に発つ。
結局、その後を連絡して欲しいとは言い出せなかった。何度も切り出す機会はあったのだがあと一歩のところで言葉はつるりと喉を滑って腹に戻って行くのだ。他人を気にすることがこれほど疲れるとは知らなかった。
まあ言い出せないのならその程度の憂慮だったのだろうと、恩人に対する薄情をもやもやと蟠る胸の内に仕舞い込み、果実酒をまた一舐めする。興味本位で持ってきたが舌に馴染まない。下から見上げてくるケルピーに合図をして落とすと、魚の尻尾で器用に受け止め喜々としてグラスを運んで行った。
手を突いて夜空を仰ぐ。視界の端では月陽樹の透明な葉に散らされた夜光が幻想的に踊っている。
「ここでしたか」
落とし戸が開かれる音に振り返ればサタナだった。柔らかな笑みを浮かべて近付いてくる。微かに酒気が香るも酔った様子は微塵もない。相好が崩壊するほど酔ってヴァルフに絡んでいた騎士団長はこの慎重さを見習うべきだろう。
立ち上がろうとしたアルクゥをそのままにと留めて、大きく間を取ってサタナは隣に腰を下ろす。アルクゥの苦手意識を十二分に理解した距離だった。
「ああいった場は嫌いですか」
「得意ではないようです。誰も気付かないだろうと思って抜けてきたのですが……私に何か御用でしょうか」
「これを返しに来ました」
手渡されたのは細長い皮張りの小箱だ。了承を貰って開けると紛失したと思っていた黒い宝石のネックレスがふっくらとした青い緩衝材の上で不思議な光沢を放っていた。千切った覚えのある銀のチェーンは元通りに直されている。
あの後に拾って修復に出してくれたのか。特殊な魔具の修理費を頭の中で計上してアルクゥは慌てた。
「ごめんなさい、ありがとうございます。修理代をお支払いします」
「いいんですよ。私が壊してしまったようなものですから。長さは合っていますか?」
「長さ? えっと、待って下さい。大丈夫だと思います」
「付けてみましょうか」
サタナは細い鎖を器用に摘んでアルクゥの背後に回る。
今はそんな綺麗なものを付ける格好ではないと遠まわしに辞退したが、前はいつも付けていたでしょうと不思議がるように指摘されて口を閉ざした。
目前を黒の光沢が滑り、鎖骨の窪み付近に見た目に反した重みが収まる。ひんやりとした石の温度が衣服越しに伝わってくるようだ。
アルクゥの白い項にしな垂れかかる黒髪を指先がするりとすくいそっと払う。正体不明の緊張を感じてアルクゥは肩を強張らせた。
後ろの温度が遠ざかりほっと力を抜く。丁度良い長さだと改めて礼を言ったアルクゥを、隣に座り直したサタナは軽く身をかがめて覗き込み、
「ああ、よく似合っている。綺麗ですよ」
歯の浮くような台詞に眉を下げたまま目を逸らす。言い慣れて過ぎて舌が腐れそうなお世辞とわかってはいても、褒められて耳が熱くなるのは仕方がない。
熱さと言えば、とアルクゥは胸元を手で探る。
「そうだ、火傷……これに触って怪我をしませんでしたか?」
パルマは酷い火膨れが出来てしまい、マニと出会った北領では兵士の腕が焼け焦げていた。共通点はアルクゥに大なり小なりの敵意があったことだが、アルクゥの行動を阻もうとしたサタナはどうだったのか。すぐに言葉短く「私は何とも」と答えは返る。発動基準がよくわからなくなりながらも知人への火傷被害の拡大がないと知って安心した。
「良かった。敵意に反応するのだと思うのですが、はっきりとした条件は分からないので……本当ならはっきりするまで身に付けるべきではないのかもしれません」
「気味が悪く思いませんか?」
アルクゥは考えるまでもなく首を横に振った。
「師匠に一度見てもらったとき、強い守護の意志が込められていると教えてもらいました。実は誰からの贈り物なのかさえ分からないのですが、あの騒ぎの後にそれほどまで案じてくださる方がいたというのは、上手く言えないのですが……嬉しく思います」
「……冥利に尽きるでしょうねえ、その贈り主も」
「いつかお会い出来ればいいのですが、私は余程のことがない限り王都には……」
寄り付かない、と続けようとして軽口を噤む。無神経だった。嫌でも王都に戻らなければならない人間が目の前にいるというのに。
迂闊な口を内心で罵り恐る恐る様子を窺う。何の感情もない顔で夜空を見上げていた。唇が動いてぽつりと呟く。
「この段になって死ぬのが惜しい」
唐突な告白に掛ける言葉が見つからない。
「私は聖職者ですが碌に祈ったこともない。でも貴女の祈りなら神は聞いてくれそうだ。ああ、いや、祈れと言うのはおこがましいな。それなら、せめて――私のことを考えていてくれませんか」
たったそれだけのことでも気が紛れるのであれば。
「はい」と夜風に攫われてしまいそうな声で承諾する。するとサタナは弾かれたようにアルクゥを振り返る。自分から望んだことであるのに、思ってもみなかった事を申し入れられたような驚いた表情をしていた。
何かを間違ったかと心痛を催す反応にアルクゥがビクついていると、サタナは口元を手で覆い隠して立ち上がり、辞去の言葉もそこそこに足早に屋上を後にする。白い首元が羞恥で赤く染まっていた。
あれは何だったのだろうか、と自問を思い付く頃になれば、階下も静けさを取り戻していた。
翌日の早朝、翼竜の背に乗って客人は帰路につく。
サタナと交わした別れの言葉は定型文をなぞったようなもので特筆すべきことは何もない。実にあっさりとした、朝露の匂いが漂う涼やかな別れでだった。
それでもしばらくは頭の片隅を占拠して離れないだろう。
翼竜の影が雲間に消えるまで見送って大きく背伸びをする。ふと寝ても覚めても、と言っていたサタナの言葉を思い出した。まさかそれに対する小さな意趣返しかとも疑ってしまうのは穿ち過ぎだろうか。
青ざめた顔でぶんぶんと無心に手を振っていたマニが、いよいよ二日酔いに負けてしゃがみ込む。ヴァルフが呆れた様子で背中を擦っている。薬はどこにあったっけと考えながらアルクゥはのんびりと屋内に戻り、泡沫の日常に溶け込んでいった。
幕間・了
次が最終章の予定です。長々と申し訳ありません。




