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精霊のシジル  作者: 染料
幕間
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第九十一話 明暗の境



 吹き抜ける風からは秋の匂いがした。


 乾いた岩に座って本を読んでいたアルクゥは顔を上げる。故国ならばまだ茹だる様な暑さが地面から立ち昇っている月だ。グリトニルの夏と比べるとティアマトの夏は酷く貧弱だ。湖に釣り糸を垂らしてうつらうつらと揺れていたマニが冷たさの混じる風にくしゃみをする。穏やかな時間だ。

 マニには全てを話した。

 解決策はない。だが暗雲は晴れたようだ。もし人でなくなりそうになったらどうにかしてやる、と。それだけで安心した。

 本の内容に意識を戻そうとしてふと見ると釣り竿が大きくしなっている。マニを起こそうとした途端に沈黙し、次の瞬間、櫛のような牙を持つ頭大の魚が水飛沫を上げながら跳ねた。特別駆除指定の魔物だ。仕留めようと身構える前に、魔物に次いで飛び出してきたケルピーがその尾鰭に噛み付いて水中に引き摺り戻す。拠点の間近と言っていいこの湖にも増え続ける魔物の気配はにじり寄ってきていた。一体どこから湧いてくるのだろう。

 その騒ぎにマニはハッとした顔で一瞬覚醒するが、何事もない水面を見て再びまどろみ始めた。昨夜は遅くまでクロとクルニクとカードで遊んでいたから眠いのだろう。すぐに起こすのは忍びなく。湖から上がったケルピーが仕留めた魔物を食べ終えたところで控え目に声をかける。


「マニ、帰ろう。拠点で寝ればいいから。ほら起きて」


 むにゃむにゃと寝呆けるマニの背を押してケルピーに乗せて自分も跨る。艶やかな毛並みの首筋を二回叩いて家路を任せるとゆったりと速歩で進んだ。行きがけに撒いてきた魔除けのセティが道標のように拠点まで続いている。

 然程の時間もかけず到着した拠点からは丁度ユルドの翼竜が三頭飛び立つところだった。上昇間際に目が合ったユルドは綺麗な笑みを残してデネブの方向に飛び去って行く。


「もう少しで王都に戻るらしいな。クロが言ってたぜ」


 マニは大きな欠伸をしながら言ってケルピーから飛び降りる。それに続くアルクゥに手を貸そうともしないところが何ともらしくて、気分を上向きにさせてくれる。


「そうなんだ。寂しくはないけれど」

「ならないのかよ。お前らの関係って何だよ」

「仕事の上役と同僚だった人たち」

「上役と同僚ねえ。片っ苦しいもんだな」


 数えると半月ばかりの滞在だったろうか。

 良い思い出がない王都でのかつての仲間と同じ屋根の下で生活し、顔を合わせればごく自然に挨拶して会話をする。思い返せば奇妙な心地だ。

 別れは寂しくない。静かになった拠点を空虚に思うことはあるかもしれないが、人が去るということはそういうものだ。

 寂しくはない、とアルクゥは心の中で繰り返して少し眉をひそめた。

 気掛かりだけが一つだけ。別れて繋がりが切れてしまえば、安否を知ることができなくなる。

 注意深く観察するにあたり、第三者たちは契約を件を知らない。無事に契約履行が認められ、問題のある人間を野放しにした責任を負わずに済んだか。知りたいのであれば本人に直接伝えるよう願うしかないのだが――それをどう伝えるべきなのか。

 報告をもらってどうなるという気持ちもある。もし苦しい立場に追い込まれたと告げられたらどうする。王都に赴いて自分の身柄を差し出し助けるのかと言われたらそれは否だ。けれど気になるものは気になる。


「どうしたうんうん唸って。腹でも壊したか」

「マニはもう少し言葉を遠慮で包まないといけないよ」

「あァ? ……お腹でもお壊しになられましたか?」


 努力は認めよう。

 昼寝をしに自室へと戻ったマニを見送ってアルクゥは無意識にネリウスの研究室に向かう。考え事をする頭で重い扉の取っ手に手をかけたとき耳が人の会話を拾った。動きを止められずに少し開いた隙間から「アルクゥか」と確認するヴァルフの声に、アルクゥは体の半分を扉に差し込んで中の様子を覗く。

 ヴァルフとサタナ、そしてガルドがいた。

 積極的に接触を避け会話する場面すら稀であった二人と、拠点に住まいを移してからパルマ以外の誰とも接点を持とうとしなかった記憶喪失者。何の悪巧みかと勘繰るのはアルクゥにとって自然なことであった。


「おかえり。早かったな」

「ただいま。マニが眠たそうにしていたから。ヴァルフこそ帰ってたんだ。……何をしているの?」


 問いに間を持たせて含みを匂わせるがヴァルフはさらりと答える。


「ガルドの婆がここを見たいと言って、俺はその案内だ。そっちのは勝手に付いてきたからないものとして振る舞っていい」

「またそんなことを……」


 一応とは言え客として迎え入れている本人の前で言うことではないと目で咎める。とはいえサタナはまるで堪えていないので気まずく思っているのはアルクゥだけなのだろうが。


「この部屋を使うのかい? それならワタシは早々に退散しよう。今ではキミの部屋でもあるようだから、もともと長居するつもりはないんだ」

「え?」


 室内を無言で見渡していたガルドが突然アルクゥを振り返る。その謙虚な態度には一片の悪意も見出せはしない。疑ったことを恥じたアルクゥは目を伏せて首を横に振った。


「目的があって来たわけではありませんので、私はもう失礼します」

「そう。気を使わせてしまって悪いね。キミは……」


 何を言おうとしたのか。ガルドは言葉を切って紫の目でじっとアルクゥを見詰めてくる。


「何か?」

「いいや……何でも」


 内心首を傾げながら退室してふと思いつく。もしかすると名前がわからなかったのかもしれない。ガルドにとってアルクゥはほぼ初対面の人間だ。悪いことをしてしまった。

 後でパルマにこっそり耳打ちしておこうと考えながら、アルクゥはケルピーの手入れをする為に再び外に出て行くのであった。



++++++++++



「あの子はとても綺麗なものになるだろうね」


 ガルドはアルクゥが出て行った方向を見ながら微かに声を上擦らせる。普段なら気にも留めないようなことだが、奇妙な言い回しと相まって嫌に心に引っかかる。

 ヴァルフは小さく眉をひそめ、この場のもう一人を横目に確認した。柔らかい笑みが張り付いた顔からは今の発言に対する感想は窺い知れない。

 ヴァルフは頭をガリガリと掻く。あまり長くこの二人とつるんでもアルクゥを不安にさせるだけだろう。


「早く用件を言え」

「せっかちな男だ。そんなに怖い顔をするような深刻なものじゃあないさ。二人には協力をしてほしいのだよ」

「何のだ」

「簡単なことさ。幽世を利用する害悪共に一泡吹かせる手伝いだ」


 ガルドは脱いだ帽子を手でくるくると回しながら手近な椅子に腰を下ろした。


「ワタシは敵に操られ、良いように使われて事態を大きくしてしまった。慙愧に堪えないよ。それと同じくらい理不尽に憤る気持ちがある。あれほどの騒ぎになっても尚、誰もワタシの真偽を疑うことはなかった。それは味方が能なしだったとか、敵が上手だったからという次元ではない。記憶の乗っ取り、不可視、魔術での感知すら不可能、数多くの人間を操る術。常人が敵う道理のない化物だ。あの若い聖人二人がいなければデネブは終わっていた。これはとても不公平で歪な話だとワタシは思うんだ」


 不公平、とヴァルフは繰り返す。分からなくもない感覚だ。あちらからは好き勝手こちらを殴れるのにこちらの拳は届かない。クロに聞いた話ではクーデターがそのような状態であったらしい。ヴァルフは王宮の屋外で召喚陣の破壊に勤しんでいたので知らなかったが。

 ガルドは次にサタナを向き、丁度今考えていたことを例に上げる。 


「クーデターの話も聞いたよ司祭殿。知性のない粘体の魔物に好き勝手やられて、聖域の破壊一歩手前まで追い詰められたんだって? 今回の敵と同種のものかまでは知らないけれど、それだって聖人の能力があってこそ勝利を掴めたのだろう? その時も、今回も、偶然にも彼女らがいてくれたから事件は最悪の目を見ることなく収束した。けれど次はどうなる? もし国王がワタシのように乗っ取られたら? 国中に化物が出現したら? 都合良く力を持つ人間が傍にいてくれるのかな?」


 そんな都合の良いことは起きない、とガルドは膝に乗せた帽子のつばを優しくなぞる。


「我々はね、新たな力に対して無力ではいられないんだ。ワタシたちはアレに対抗し対策を講じなければならない。そうしないと国が滅んでしまうよ。奴らはどうしてか戦争をお望みだ。今は国内に留まってくれているけれど、いずれ他国に手を伸ばさないとも限らない。奴らに賛同する魔術師はきっと少なくはない。規模を拡大されてしまっては手遅れになる」


 概ね正論だ。だがヴァルフは眉間に深く皺を刻む。

 ガルドにとって利が薄い話だ。デネブの為にサタナ、ひいては国の力を借りる詭弁にせよ、敵が不明な現状では攻めるよりも守りを固める方が賢く、そうするのであれば国の力など必要ない。

 ガルドの主張がヴァルフの中で疑念に転じる。

 ヒルデガルドという魔女は国の危機に義憤を覚え我こそがと名乗り出るような性格ではない。

 本心は別にあると悟ったヴァルフは早々に関わりを断つことに決め、ガルドがあえて匂わせた違和感を無視する。どうせ隣のいけ好かない男が話を進めるだろうと高みの見物を決め込むと、予想通り反応を示した。


「随分とお詳しい様子ですねえ。貴女は一体何を御存じなのでしょうか」

「ワタシは被害者であるがゆえに、他よりも沢山のことを知っているんだ。例えば、ワタシを支配していた女の名前だとかね。確かにワタシは記憶を失った。奪われてしまったよ。けれど、女に寄生されていた間の出来事は……どうだと思う?」

「聴取に際して虚偽の報告をしていたと、そう仰っているように聞こえますね」

「さて、その辺りの記憶は曖昧でね。なにせワタシは記憶喪失だ」


 これにはヴァルフも呆れ果てる。

 有利な手札はいくら国の大事でもただでは見せてやるものかと、そういうことか。

 悪びれもしない根性は寧ろ見上げたものだ。直近十数年、その記憶を失おうとも狸の本質は狸でしか有り得ない。


「頭が信用ならないとなれば、尋問官に引き渡して身体に聞いてもらうしかないでしょうねえ。国の一大事ですから」


 サタナは軽い調子で笑って筋金入りの狸を揺るがせる。ガルドは微かに顔をこわばらせた。


「怖いな。とっても怖いよキミは。石の聖女の元傍仕えなだけある。人外じみた粛清も得意なようだしね」

「へえ、記憶がなくなった分、熱心にお勉強なされたようで」

「ごっそりと抜け落ちた情報を注ぎ足さなければならなかったからね。周囲にいる人間から調べさせてもらったよ。もしかすると本人よりも詳しいかもしれない」


 嫌味の応酬が始まりそうになったところで頃合いだと大きく溜息を吐いた。ガルドの注意をこちらに向けて提案を切り捨てる。


「お前らだけで勝手にやってろ。それでさっさとここから出て行け」

「……つれないな。そんなこと言わないでおくれよ」

「厄介事は間に合っているんでね」

「危険を呼び込むことはしないさ。安全第一だ」

「力付くで追い出されたいらしいな」


 怒気を込めて言い渡すとガルドは明確な怯えを見せた。思わず舌打ちしそうになる。嫌悪しているとはいえ知人を恫喝するのは最高に胸糞悪い。さっさと頷いて出て行けと苛々と降参を待つが、ガルドは頑として首を縦に振ろうとはしなかった。視線すら逸らさない。柄にもない真似をしている。勝てない勝負は恥も外聞もなく逃げるのがヴァルフの知っているガルドだ。

 睨み合いは静観していたサタナが手の平を返すまで続いた。


「協力の内容が無理のないものであれば私は最大限の手助けをしましょう。全て詳らかにすると言うのであれば断る意味などありませんから」


 味方を得てガルドが一瞬気を緩めたところにサタナは付け加える。


「ですがその前に真意を窺っておきましょうか」

「真意?」


 ガルドは笑おうとして口元を引き攣らせる。対するサタナは嫌味のような完璧な笑みを浮かべた。


「デネブの為にと言うべきでしたねえ。魔導都市以外を踏み台としか見ていない貴女のその口から国そのものを慮る言葉が出てくるのは不自然だ。それ以前に綺麗事が過ぎる。建前ですと宣言しているようなものでしょう。冷静に見えて、案外そうではないらしい」

「……結果が伴えばいい。そういうものだろう。ワタシの本音なんて二の次で知る必要なんてないんじゃないかな」

「信用に関わることです。裏切り防止に契約を結ぶという手もありますが……貴女とは御免ですねえ」

「ワタシもその点については同意だよ」


 ガルドは力なく笑ってから、帽子を潰すように膝を強く抱えた。幼子のような仕草に、膝の上から宙を睨む紫眼の暗さが狂った歯車を見るようで気持ち悪い。


「――復讐に決まっている。それ以外なにがあるというんだ」


 地の底を這うように言って、すぐにおどけてみせた。


「三百年生きても人の業は捨てきれないらしい。ワタシの大切な記憶じかんを奪った者の、その仲間への逆恨みというわけだね。けれどワタシは小心者で、戦いも苦手だ。だから他人を使って裁くことにした。ワタシはこの安全な場所でその最期を見物するのさ。劣っていると見下す者たちに捕らえられ、屈辱に塗れながら首を切られる様子はさぞ胸がすくことだろうよ」


 さて、とガルドは椅子から降りて扉の前で軽やかに振り返る。


「二人の内緒話の邪魔をして悪かったね。とにかく考えていておくれ。じゃあ、返事に期待しているよ」


 そう言って帽子を深く被り調子外れの鼻歌を歌いながら部屋を出ていった。


「ああはなりたくねぇな」


 いっそ全て忘れていた方が幸せだったろう。なまじ残滓があるから生じた歪みに苦しむ。


「先程の、考えてくださいましたか」

「ガルドはまさか仕込みじゃねぇだろうな」

「私を何だと思ってるんですか」


 流石に呆れられてしまい、つまらないことを言った数秒前の自分を悔やむ。

 しばらく考えを巡らせたヴァルフは頭を振り、先程やり損ねた舌打ちをして、サタナがガルドへ向けた問いを借りた。


「テメェの真意とやらは何だ」


 喉と舌に馴染みきった言葉を紡ぐような滑らかさで返事を寄越す。今度はヴァルフが呆れる番であったが答えは決まった。怖気が立つような話だが、保険を掛ける意味はあるに違いないと。



 

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