第九十話 無二の人
「住む場所を探していたから助かったよ」
黒一色の服装の中で紫眼だけが宝石のように煌めいている。
外見は二十かそこら、しかしながら三百もの時を生きる魔女は、そう言ってから拠点を見上げて眩しそうに手でひさしを作った。長い間、気が済むまでそうしていた後に、ヒルデガルドはアルクゥとヴァルフに向き直る。
「責任を放棄してしまったから中央塔は敷居が高いし、隠れ家の方もあの女に荒らされていたからね。しばらくの間はよろしく頼むよ。そうそう、他にも部屋を借りたいと言う心当たりがあってね。ここを紹介してもいいかな?」
「いや、今はアンタら二人で間に合ってる。客もいるしな」
ヴァルフは言いながらガルドに付き従うパルマをチラリと見る。パルマは気まずそうに顎を引いた。部屋を借りたいというのはガルドを思い遣るパルマの独断のようだ。
「ふうん。気が変わったら言っておくれね。それでワタシたちはどの部屋に行けばいいのかな?」
「三階に空き部屋がいくつかある。アルクゥの部屋以外ならどこでも好きなところを選べ。二階が良けりゃ客が帰った後に移動すればいい」
「日当たりのいい場所が良いなあ。ねえパルマ」
ガルドが振り返って笑顔を見せるとパルマは雲間から差す陽のようにパッと明るい顔になって何度も頷いた。ヴァルフは感慨のない一瞥を向けてから「案内する」と素っ気なく告げ、ガルドたちが持ってきた当面の生活用品らしき大きな荷物を担ぎ拠点に入って行く。
「おや、見かけに反して気の利く青年だね。ちょっと粗雑なところがあるけれど」
アルクゥは背中にガルドの声を聞きながらヴァルフに続いた。
表面上は何事もなく振る舞っている。少なくともアルクゥにガルドはそう見える。しかし、よく耳を澄ませてパルマとの会話を聞いていると、何気ない言葉の端から記憶の欠落が窺えた。ガルドはパルマのことを弟子と認識して接しているようだが、齟齬や違和感があるのだろう。時折、食い違って言葉が途切れるのが聞いていて辛い。
ヴァルフは要望の通り日当たりの良い隣合わせの二部屋にそれぞれの荷物を運び込む。
「説明は要るか」
「いいや、必要ないさ。元々、この建物を作らせたのはワタシだからね。昔々の話だけれど構造はちゃんと覚えている。パルマにはワタシから説明しておくよ」
「そうか。一つだけ注意しておくが、一階奥の部屋には勝手に入ってくれるなよ。師匠の研究室だ。他は自由にしていい」
「了解したよ」
「あとは、ああそうだ。部屋に籠もらねぇ限りはしばらくの間客人共と顔を合わせることになる。今日はちょうど全員いるから良ければ紹介するが。どうする?」
「客人って言うと、王都の御仁らかな。そうだねえ」
ガルドは首を傾げてから不意に窓に目を遣った。
「今日は止めておこう。墓は、月陽樹の下かな」
「ああ」
デネブに戻って花でも買ってこようかな、と呟くガルドをパルマが痛ましそうに見詰めているのが印象的だった。
「やっぱり嫌か」
部屋を出て階段に差し掛かった辺りでヴァルフはアルクゥを肩越しに振り返る。「そんなこと」と言おうとして、アルクゥは自分が終始無言だったことに気付いた。
「嫌じゃないよ。話し合って決めたんだから。ヴァルフこそ」
パルマから部屋を貸してくれと頼まれた日の深夜、帰って来たヴァルフと、気まずい空気のままのマニと三人で相談して一年の期限付きで受け入れることを決めた。意外なのはヴァルフが最初から賛成だったことだ。デネブの行政から外れた以上悪巧みをする人間ではないという見解からの意見だったが、記憶を消し炭にした罪悪感を持つアルクゥの気持ちを知っていたのかもしれない。
「俺はどうでもいいんだよ。いや、どうでもいいわけじゃねぇな。あのババアは嫌いだ。パルマもな。けど今回の件は同情する。ババアが長年積み重ねた悪行が祟ったという見方もできるが」
「悪行かあ……ねえヴァルフ。私はそんなに嫌そうな顔していた? 失礼をしてしまったかな」
「見ちゃいられねェって顔はしてたな」
時刻は昼時で、ヴァルフは食事をしに一階へ行くものと思い付いて行っていたアルクゥは、その足が玄関に向かっていると分かって顔を顰める。アルクゥが帰って来た日からかれこれ一週間ほど出突っ張りだ。
「そろそろ休まないと」
「ラヴィの、騎士団長の阿呆に泣き付かれたんだ。まあ甘やかすのは今回限りだ」
ますますアルクゥは不機嫌になる。
サリュの告げ口によると騎士団長はヴァルフが持ってきた議会の印がある令状を認めず、操られたガルドの側に付いたそうだ。それでも中央塔は落ちて偽ガルドは捕らえられたので心証を悪くするだけに留まっているが。ヴァルフの手をずっと借りていた癖にとサリュはカンカンだった。なのにヴァルフは水に流して事後処理を手伝っている。
アレは職務を全うしただけだと言うヴァルフの言葉は理解できるが、感情の面では業腹だ。助けてやる必要などない、と思ってしまうのは自分が幼いからだろうか。
「そう言えば、マニと喧嘩でもしたか」
むくれていた所に不意打ちのような指摘がありアルクゥはギクリとする。思わず右腕を触った。
「どうして?」
「見てればわかる。今もここにいねえしな」
目を逸らすとヴァルフは軽く笑った。
「ガキの喧嘩に口出すつもりはねえが、早く仲直りしろよ」
「……子供じゃない」
するとヴァルフはますます笑う。
「そうやって拗ねてる間はガキだよ。お前はその方がいい」
優しげな声で言われてしまえば反論できない。
ギリギリとした悔しさを持て余すアルクゥにヴァルフは笑みの形を残したままの口で言う。
「今日は夕方には帰れそうだ。飯作って待っててくれるか」
「……うん。いってらっしゃい。気を付けてね」
「いってくる。お前も気をつけろよ。誰にとは言わねえが、あまり近寄んな」
ヴァルフは半ば本気の目をして言ってから嫌そうに歯を剥くケルピーの背に跨って拠点を後にした。それを扉口で見送ったアルクゥは軽く息を吐いて屋内に戻る。何も考えずネリウスの研究室に向かっていると、途中でユルドと行き合った。今日はラフな格好をしている。
「丁度良かった。お茶入れるけど、アルクゥちゃんもどう?」
「私は結構です。でもお手伝いします」
「じゃあお願いしようかな」
共用の厨房でお湯を沸かし茶葉とカップを出す。ワゴンに乗せて運ぶまで手伝い、談話室には入らずそのまま予定通りネリウスの研究室に行こうとすると、今度はクロから声を掛けられた。
「おおい、嬢ちゃん。暇ならこっち来いよ」
仕方なく扉口に戻ると談話室には名ばかりの客人として滞在する面々とマニが揃っていた。歓談の最中ではあったがクロの声で視線はアルクゥに集まり居心地が悪い。殊更に、サタナの目が右腕付近を掠めるのと、マニが座りが悪そうに身じろぎするのがどうにも気をそぞろにさせる。あの場にいた人間でユルドだけが悩みがあるなら相談に乗ると言ってくれた後、何事もなかったように接してくれていた。
調べ物があるとクロの好意を断り重くなった足取りで研究室に向かう。
暗黙の了解として、研究室にいれば誰もアルクゥに干渉しないので気が楽だ。アルクゥは一息ついてから、書庫から掻き集めて運んだ精霊や聖人についての本の塔を見上げる。今日こそは、と読み漁り始めた。
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幾冊目かになる重厚な色をした分厚い皮の装丁の本を開く。
他とは違って大きい。
アルクゥは積もった埃を払い、期待を抱いて少し黴の匂いがする頁を捲り目を見張った。そこには古びて色褪せているが霞んだ冬空を思わせる荘厳な絵が描かれている。開いた瞬間、一斉に読む者を睥睨し見定めんとする四対の眼に軽く息を飲み、逃げるように片隅の文章をなぞった。
原初の大精霊が生み出した世界の守護者たち。
龍霊の炎の息吹は生命に熱を与え目覚めさせる。獅子霊の歩みは地に恵みをもたらす。朝露に濡れた雀霊の羽ばたきは全てを潤し、駆ける大狼霊の風によって季節は巡る。
四神の役割を説く創世神話の一節だ。
頁を進めて行くと大精霊の創世や四神と四悪の闘い、最初の聖人などの神話が仔細に書かれている。現在の国ごとに都合よく脚色されたものとは違う純粋な原典の内容だ。
だがこれにも目ぼしい記述はない。
アルクゥは右二の腕の鱗を服の上から掻き毟った。人に鱗なんていらない。
どうしたものかと本を大机の脇に積み上げる。何の手がかりもないまま未読の本だけが少なくなっていく。
手詰まりを感じながら新しい一冊を開くと、唐突に手から本が消えた。ソファを揺らす勢いで振り返る。
「精霊全書? 比較的新しいやつだね。四神以外の、名前を持つ精霊を解説した本だよ。読み物としては楽しめる一冊かなあ。三分の二ほどは著者や神話の解釈混乱期に作られた創作精霊だ。混乱期って言うのは国々が好き勝手に神話を改ざんし始めた頃のことで、それに乗じて創作精霊を崇める新興宗教がぼろぼろ出てきていたんだけれど、まあ実際に存在する四神や精霊には敵わない。特に四神は眷属、聖人という証人がいる。だから作り物はすぐに廃れていったけど。
最近有名になったシャムハットは元々その時の有象無象の一つだ。これは他と少しだけ毛色が違って四悪、神話に悪役として登場する神を祀ったものだ。でもとっくに神話の中で倒されてしまっているし、当時は命よりも信仰が重い時代だったから蛇のごとく嫌われて、真っ先に排除されたってさ。おっとまさに蛇足だったかな。
たしかアルクゥくんは夜明けのような炎を操るんだって? だったら龍霊の眷属だ。レピス=アストラ、鱗を持つ雷火って意味。すごく童心を擽る響きだねえ。そうだ。後学の為に今度炎を見せてほしいな。マニくんは、聞いたところによると雀霊だと思うよ。雀って言っても雲を突くような巨鳥らしいねえ」
アルクゥは片手で本を開き、もう一方で人差指を立て講義めいたことを言う隠者のメイを見返すその。紳士然とした初老の男性はさも当前のようにそこに佇んでいた。
いつの間に入ってきていたのだろうか。そもそもなぜここにいるのか。何か言わなければと混乱した挙句に出て来たのは当たり障りのない挨拶だった。
「その……お久し振りです。そうだ。以前、失礼な真似をしてしまって」
「いいや、あれは僕の失敗だよ。力量を過信していたんだ。ヴァルフくんからキミについて事前に聞いておけば、また違った結果があったのかもしれないけれどね。まあ彼が秘密にしたかった理由も理解できる。だからお互いあれは無しだ」
「えっと、はい、ありがとうございます。それでなぜここに?」
「アルクゥくんが帰ってきていたって今日になって知ってね。リリくんがどうしても行くんだって言って、僕個人としてもアルクゥくんの怪我がどうなったか気になっていたものだから。左目は大丈夫?」
「少し霞んでいますが大丈夫です。リリが来ているのですか?」
山奥に籠もる隠者とリリに一体どんな関わりがあるのだろうと不思議に思うアルクゥに、メイは事もなげに「最近弟子にした」と言う。
「知っていると思うけれど、彼女新聞に出てねえ。英雄に助けられた生贄だって取材受けて、それで有名になってしまってデネブに留まるのが難しくなったんだって。キミの助けになりたかったみたいだけどちょっと後先見なかった感じだね。うん。キミたちは良く似ているよ。それでヴァルフくんからほとぼりが冷めるまで預かるように頼まれて、なんやかんやで薬学の師弟に」
リリの母親にリリの所在を聞いても旅行に出かけているの一点張りで、何の疑いもなく信じていたが、まさかそんな重大なことになっているとは。眉根を寄せるとメイは口髭を撫でつけてゆっくり人差指を振った。
「彼女、キミにばれていないと思っているからそんな顔はよしたまえよ。それに人の決断を自分のせいにしてはいけない。それは驕りというものだ」
「でも……そう、そうですね」
言い募ろうとして何の反論の余地もないことに気付く。力なく項垂れたアルクゥを慰めるように肩を叩いたメイは手近な椅子に深く腰掛けた。長話を予感させる体勢に疑問を持つ。
「ここ数日、ずっとこの部屋に詰めているんだってね」
「詰めるという程ではありませんが……それはマニが言ったのですか?」
「うん。何か無遠慮なことをして嫌われてしまったのかもしれないって」
「まさか! ただ私は」
ちょっと鱗が生えて来たので原因と取り除く方法を探しています――なんて言えるわけがない。口ごもるアルクゥにメイは探りを入れてくる。
「精霊について、いや聖人についてかな。調べているようだけれど、何か不安でもあるのかな」
「好奇心です」
「僕は口の堅い案山子だけれど」
暗に吐露を促す言葉にも首を横に振る。
するとメイは溜息を一つ吐いただけであっさりと話を引いた。
「そうか。無理を言ってごめんね。けれど、マニくんの誤解は解いてあげて欲しい。老婆心ながらに付け加えると、キミたちはある意味では無二の関係だ。ヴァルフくんとキミが唯一の兄弟弟子であるように、マニくんとキミは性質による苦楽を分かち合える。それでなくともマニくんはアルクゥくんに何でも話してもらいたい思うよ、僕は」
さあ談話室に行こうとメイは恭しく手を差し出す。困った顔で見上げるアルクゥの手を遠慮なく取り、渋る歩みにもお構いなしに足取り軽く談話室に入る。
突然の見知らぬ闖入者に沈黙する部屋をメイはぐるりと見渡し、リリと向かい合ってソファに座るマニを見つけると機嫌良く持っていたアルクゥの手を差し出した。
「マニくん、連れて来たよ」
「はァ? いや、メイのおっさんよ、俺ァ別に」
「さっさと仲直りしてきたまえよ。こら、リリくんは待機だ。アルクゥくんに犬のように飛び付くのは後にしなさい。そちらが噂の王都の御仁らかな?」
クロたちはマニやアルクゥの知人と見ても微かに警戒を見せる。クルニク老だけが繁々とメイを観察してから驚いたように声を上げた。
「アーチメイゴー殿か」
「アーチメイゴーって、魔法使いの?」
クロがぎょっとしてクルニクとメイを交互に見遣る。アルクゥは胡乱なものを見る目でメイを見上げた。
「魔法……使い?」
「昔取った弟子がすごくてね。なぜだか僕まで有名になってしまったんだ。功績にあやかったみたいで本当に嫌なんだけどさ。とにかく僕のことはいいからマニくんとお喋りしておいで。僕は彼らと優雅にお茶しているから」
そう言い放ってサタナの隣の椅子に座る。サタナは笑んではいるものの、メイを見る視線は酷く胡散臭いものを目の当たりにしたそれだ。自分が胡散臭く見られるのは日常茶飯事でも他人をそう言う目で見るのはさぞ新鮮なことだろう。
どういう会話をするのか見ていたい気もしたが、マニが遠慮がちに部屋を出たのでアルクゥもそれに続いた。
どちらもここでと決めないまま外にまで来て足を止める。
ヴァルフを送って帰って来たケルピーが何だ何だと近寄ってくるのを尻目に、両者気まずい思いで相手を窺い見るようにする。
「悪かったな。メイのおっさんに俺が余計なこと言ったみてぇで」
やがてぼそぼそと余所を向いて謝ったマニは「先入ってっから」とアルクゥに背を向けた。アルクゥは無二だというメイの言葉を反芻して呼び止め、袖を捲くる。どうせいつかは話すことになる。マニだってこうなる可能性もあるのだ。臆病になって逃げ続ければいつまでたっても言えはしない。だからメイが機会を作ってくれた今告げるべきだ。
鱗を見たマニは目を見開き、
「それ、鱗か? 前のは俺の見間違いじゃなかったんだな」
半魚人だったのか、と至極真面目な顔で呟いてから首を振る。
「驚いたが……俺は気にしねぇ。お前はお前だ」
アルクゥは本気でその態度を判じかねて思わず尋ねた。
「マニ。今ふざけていますか?」
「あァ? 重大な告白を茶化すような人間じゃねぇぞ俺は」
本当に怒った風のマニをまじまじと見返して、アルクゥは額に手を当てる。何の解決にもなっていないというのに、なぜだか全てが思うよりも単純で、お前は重苦しく考えすぎなのだと、背負っていた荷を蹴り飛ばされたようなそんな気分だった。




