第八十九話 化生の夢
壁一面に立ち並んだ棚には古い背表紙がぎゅうぎゅう詰めに並んでいる。
収まりきれずに溢れてしまった本たちは三つある机で塔を作り、一部は薬品棚の中にまで進出して薬の匂いが染みついている。
部屋を占めるのは本ばかりではない。壊れかけの魔具や無造作に転がった宝石、紙束にペンに魔物から取れたであろう魔術の素材。古色蒼然としながら、どこに目を向けても余人を飽きさせない魔術師の研究室だ。
アルクゥはネリウスがよく仮眠に使っていたソファに座り大机に頬杖を突く。棚から掘り出した万年筆を片手に持ち古紙に向かい合った。
拠点に戻って三日が過ぎた。
ヴァルフとマニは事後処理に忙殺されている。三日間、拠点で一人きりでいるアルクゥはずっと師匠の匂いを残す部屋に籠もっていた。ネリウスとの優しい記憶は薄く広がり続ける混乱の波紋をいくらか忘れさせてくれるが、しかしこのまま甘えてはいられない。
まずは散漫な思考を纏めなければと、万年筆を握り直す手の平にしっとりと汗を滲ませつつ、まずは重要な死者を二人書き連ねた。
アルクゥが燃やし尽くした幽世の女と、そして侯爵ネブカドネザルだ。
侯爵の訃報は昨日、翼竜を引き連れてデネブに来たユルドミーシャからもたらされた。発見したのは息子のシャレゼルで、書架の裏に佇む影を見て声をかけようと覗き込むと、上半身がなかったそうだ。切断面は獣の噛み傷に似ていたとユルドは言っていた。
口封じか見せしめかそれとも別の目的があってのことか。父の死を受けてか代理として立ったシャレゼルが屋敷内の暴動を治め素早く緘口令をしいたが、同時点で訃報は北領の最果てまで伝わっていたというから驚きだ。様々な不審が入り乱れて北領は殺気立っているという。犯人探しは国の仕事だが、侯爵と霧の事件を引き起こした魔術師の関係が朧なために非常に気にかかる。何より、惨い話に胸がむかつく。
そして幽世の女。アルクゥは霧の事件の首謀者と注釈を書き込む。
中央塔の職員にアルクゥとマニの言葉から作られた顔絵を見せると霧発生の直前に目撃したという証言が多数あり、ガルドを乗っ取りデネブを支配していたことから主犯であると確定された。
肉体を捨ててガルドに寄生、その記憶を喰らって擬態し、幽世から伸べた糸で数え切れないほどの人間を操る。自称人を超越した存在らしいがやっていることは薄汚い捕食者のそれだ。とはいえ能力は脅威の一言に尽きる。
誰にも見えない。悪事を働くに際してそれがどれほど優位なことか。
名前、素性、肉体を捨て去った方法、目的も全てが不明。書くだけ無駄という気がしてくるのは空しい。一つだけ分かるのは、ベルティオとの関係を尋ねたときに見せた反応からあの女装男と面識があるくらいか。
アルクゥは天井を仰いで溜息を吐く。
色々な事が頭に渦巻いている気がするのに文字に起こせばこの程度。整然と書き連ねるのが馬鹿らしくなり思い付いた単語を書き殴る。
蜘蛛幽霊、劣等感を持っていて血に弱い、存在が不快、引き剥がし可能、炎で燃やせる、鱗――。
袖を捲くり右腕を見ると、そこには鮮やかな鱗が張り付いたままだ。
アルクゥは机に面伏せて目を閉じる。
ヴァルフには見えない、けれどマニにはきっと見えてしまう。マニには話すべきかと考えたが、爬虫類のような鱗は自分でも気味が悪い。見せたときの反応を思うと言い出せなかった。
ハティにもっと多くを尋ねておけば良かったと遅い後悔が込み上げる。最後には異形となってしまったハティにも前兆はあったのだろうか。もっとも自分の鱗とは違い、尻尾や狼の耳が生えたハティは想像すると中々微笑ましい。
――私も別のものに変わるのだろうか。
そして結局は幽世に旅立つのかもしれない。
アルクゥはうつらうつらと眠りに溶け込む意識の中で、龍となった自分を夢想する。蒼穹を自在に駆けるのは爽快だ。このまま人間に戻るのは勿体ないくらいに。どこまでも往けるのだろう。世界の果てに鼻先を向けて鱗の光沢を波打たせたとき、人の体温に似た暖かな風が鬣をそよがせて額を撫でる。瞬間、人であることの尊さに気付いて目を覚ました。
部屋は窓から差し込む陽で赤い。夕刻だった。
ずいぶん寝ていたようだと上体を起こすと肩かけが落ちる。談話室に常備してあったものだ。アルクゥは自分の体温が残るそれを拾い上げる。人恋しさが募り、誰か帰ってきたのだろうと談話室に向かった。
誰をも拒むことなく開け放たれた扉から声が聞こえてくる。
「腐れ聖職者よォ、お前家主からも嫌われてるんだな」
「彼には嫌われているようですねえ」
「には、じゃねぇよ。夢見がちな腐れだなテメェは」
「ところでマニ。私の名前を覚えてますか」
「あァ? 舐めんじゃねぇぞ。サ……サタ……サタン……」
「すみません。鳥に記憶力を求めるなんて酷な話でした」
和やかとは言い難いやり取りだが親しげな雰囲気がある。鈴の音のような笑い声を立てたのはユルドだろうか。
現在拠点には客人が四人、サタナ、ユルド、クロ、クルニク老が滞在していた。帰ってくるのは夜くらいだが。ヒルデガルドが中央塔を去ったことでサタナらを逆恨みする者がいるらしく、寝首を掻かれたくないのでこちらを頼ったそうだ。
ヤクシとディクス、そして中央塔の牢に捕らえられながらもゴーレムで情報収集をしていたエルイトは王都に帰還していて不在だ。後者の二人はともかく、いつも護衛としてサタナの近くにいたヤクシがいないのは奇妙なことにアルクゥには思えた。
そして嫌な事を考える。
ヤクシには残った面々とは違って後ろ盾がない。死を予見したサタナが巻き添えにしないよう遠ざけたのではないかと。権力も何もいらないのならいっそ逃げて関わりを断てばいいが、契約を完遂する為にサタナはどうあっても王都に戻らなければならない。
アルクゥはヴァルフを真似て頭をガシガシと掻き毟り踵を返した。マニと他愛のない話でもしたかったが同じ空間にサタナがいると気を構えてしまう。
ケルピーの所に行こうと考えた丁度その時、ケルピーの方から知らせがあった。
「客人……?」
女で、白く、目が狐のような客だ、と。人の持つ容姿の価値観に大きな相違がある魔物にしては的確な表現に心当たりを思い浮かべアルクゥは苦虫を噛む。今行く、と伝えて足早に外へと向かった。
近寄ってくるケルピーを撫でながら結界の薄い膜をくぐる。
腕組をして宙を見詰めていたパルマは、忽然と姿を現わしたアルクゥを見て少し面食らった顔をし、色鮮やかな唇に笑みを浮かべた。体調は良い様子で強気な態度も相変わらずなのに、ガルドに誰と尋ねられた時の泣いていた顔がアルクゥの頭にチラついて仕方がない。
あれから会うのはこれが初めてだ。
「無視されてしまうかと思っていたところよ。……見事な結界ね。ネリウス様の技術かしら。人避け、不可視、魔除けに、他にも色々。頭では建物の位置が分かっているつもりだけれど。あと百年生きてもネリウス様の域に上がれる気がしないわ」
「何の御用でしょうかパルマさん」
「パルマでいいと言っているでしょう」
夕方は早起きな魔物がふら付いていることもある。とにかく結界の中に、と腕を引いて招き入れると、パルマは不機嫌に舌打ちを重ねて視線をアルクゥの後方に移した。
「あの人たちとっても不愉快だわ。私が貴女に何かすると思っているのよ。馬鹿馬鹿しい」
振り返ればサタナとユルドが扉から出てくるところだった。遅れてマニが顔を出し、アルクゥとパルマを見比べて難しい顔をする。空の散歩に出かけていた翼竜たちまで舞い戻って来たので、パルマの言葉はあながち間違いでもないのだろう。
かく言うアルクゥもパルマが恨みを晴らしにきたのではないかと、最低でも罵声の一つ二つは覚悟で向かい合ったのだが。
「約束を守ってくれてありがとう」
「え?」
「これを言いに来たのよ。あの時は取り乱していたから、遅くなって悪かったわね。それとお礼のことなのだけれど……何、その意外って顔。失礼な人! 私が! お師匠様に忘れられたくらいで!」
勝気な顔が大きく歪む。
「お師匠様は死んではいない。生きていればどうにでもなるもの。思い出してくれることがなくても、一から関係を築いていけば済む話よ。たったそれだけのことなのよ! 忘れられたくらい何よ。それだけで、欠片たりとも約束を違えなかった人を逆恨みするような女だと見損なわないでちょうだい!」
どこか自分に言い聞かせるようでもある叫びにアルクゥはただ「ごめんなさい」と頭を下げる。
パルマは大きく肩で息をして朱が昇り赤くなった頬を冷やすように手を当てた。
「いえ……いいのよ。感情的になってしまうのが私の悪い癖だわ。それで貴女を神隠しに合わせてしまったのだから反省しないと。話を戻しましょう。貴女は何が欲しいのかしら」
「別に欲しいものは」
「無欲は人を駄目にする。その歳で枯れるなんて悲劇以外の何なのかしら。いいから、要求しなさい。私にできることであれば何でもすると言ったでしょう」
いきなり言われても、とアルクゥは必死に考えを巡らせてふと右腕に目を落とした。
「おかしなことと思わないで下さい。それと誰にも言わないでください」
「ええ」
「これが見えますか?」
数枚連なる人外の鱗を指す。パルマは一瞬文句を言いたげに口を動かすが、黙って首を振った。
「そうですか。ありがとうございます」
「……ねえ、それだけ? 今のは何か意味があったのかしら」
「意味はありました。とても」
「そう……貴女って変わっているのね」
釈然としない気分を無理に納得させた様子でパルマは頷いてから「もう一つ」と指を立てた。
「その……こちらはまた頼み事になってしまうのだけれど」
「どうしましたか?」
少し身構えるアルクゥに無茶な頼みではないと前置きして続ける。
「お師匠様と私に部屋を貸してはくれないかしら。もちろん、きちんと家賃は払うわ」
「それは……どういった理由で?」
「お師匠様は、十年近くの記憶を失っているわ。言っておくけど貴女のせいではないから。お強い方だから、大抵の齟齬はこの数日で飲み込んでしまわれたわ。デネブの成長も国の情勢も、人の移り変わりも。でもたった一つ……ネリウス様の死だけが」
「それを持ち出すのは……卑怯でしょう」
アルクゥは軽く唇を噛む。
ふと夜中に目を覚ましたとき涙が落ちることがある。大きな事件を跨いでも、師の旅立ちは克明だ。穏やかに偲ぶにはまだ近すぎる。
アルクゥはヒルデガルドが大嫌いだ。けれど、とアルクゥは目を伏せ、眉を下げるパルマに呟いた。
「この建物の主はヴァルフです。だからヴァルフに聞いてみますが、良い返事は期待しないでください」
それでもパルマは「ありがとう」と顔を綻ばせ、拠点から立ち去って行った。
「良かったの?」
心配そうに聞いてくるユルドに苦笑を浮かべる。
「盗み聞きは悪趣味ですよ」
「お互い様でしょう」
談話室の外にいたことを知っていたらしい。それなら声を掛けろと横から口を挟んだサタナをねめ付けて室内に戻る。小走りで横に並んだマニがどうにかして元気付けようと頭を悩ませる様子が可笑しくて小さく笑うと、ホッとした顔をしてから、
「――あれ? その腕どうした?」
不思議そうに瞬いた橙色の目を塞ぐよりもサタナが腕を取る方が早い。アルクゥは反射的に身を竦ませるが、サタナは傷一つない肌を見て怪訝そうに眉を寄せるだけだ。
「どうか……しましたか?」
サタナに答えようとするマニに「何でもない」と言う。よくは見なかったのだろう。首を傾げて確認しようとしたので強く睨み付け、なぜそうされるのか分からず怯んだマニの肩を軽く叩いてネリウスの研究室に避難する。
ほとぼりが冷めるまでここにいよう。ソファに仰向けになって手に持ったままだった肩かけを被る。
ヴァルフが帰るのは夜中だろうか。
そんなことを考えながら逃避するように再び眠るとまた龍の夢を見た。今度は暖かな風は吹かず人を思い出すことはなかった。




