第八話 三白眼の男
「起きたか。無理やり呪いを解いたのに、大したもんだなアンタ」
見知らぬ誰かがアルクゥを覗き込んでいる。
茶褐色の髪に灰色の、三白眼が鋭い青年だ。起き抜けの頭で呆然としていたアルクゥは、直後慌てて跳ね起きようとしたが体に全く力が入らない。
「無理に動くな。体に障るぞ」
青年の挙動を窺いつつ、忠告に従う。時間をかけると体は元通りに動くようになった。
起き上がる段になって青年は思いついたように手を伸ばす。ビクリと肩を揺らすアルクゥに苦笑して、白いタオルを取った。額に乗せてあったようだ。
「……看病してくださったのですか」
「宿屋の主人に頼まれたんだ。感謝するなよ。上手く治せなかった」
左手を見ると真っ白な包帯が巻かれている。
「お医者様ですか?」
「アンタはお嬢様かな」
青年は笑う。質問の肯定と取ったアルクゥが深く頭を下げると嫌そうに手を振った。
「勝手に治したんだ」
「お代は……あの、相場は良く分からないのですけど」
「なんだ、本当にお嬢様か?」
「お医者様に掛かったことが少なくて……」
青年は「何とやらは風邪を」と言いかけ、顔を顰めたアルクゥに気付いた様子で咳払いをした。
「俺は一食サービスと引き換えに手当てしただけだ。宿屋で人死には致命的だからな。礼なら宿屋の主人に言っとけ」
アルクゥは頷いてから左手を撫でる。触れる感触は鮮明なのに痛みは全くない。
「心からお礼申し上げます。素晴らしい腕をお持ちなのですね」
素直な感想を言葉にすると、青年は息が詰まったような妙な顔をした。
「だから止めろって。傷痕は残ってるんだよ。これからも消えないかもしれん」
「縫合したのなら傷痕は残るのは仕方ないでしょう」
「縫ってない。治したんだ。包帯を取って見てみりゃ、お粗末さがわかるぞ」
包帯を取ってみる。するとあたかも自然に治癒した、あるいは治癒している最中のような赤い蚯蚓腫れが現れた。目を丸くする。本当に文字通り「治した」のだ。青年が魔術師だと、外面から想像するのは難しい。
「やっぱり目立つな。治癒術師のとこに担ぎこむべきだったか。悪い。……ところで、誰に呪の魔術をかけられた?」
青年の声がにわかに低くなった。萎縮したアルクゥは小さく身を引く。
「首を突っ込みたくはないが、呪の残り滓ですらえらく複雑で強いものだった。悪意のある強力な魔術師は都市一つ軽く滅ぼす。だから知っておきたいんだ」
アルクゥは束の間考え「そんな人ではないと思います」と述べた。あれでも聖職者だというから、無差別に破壊活動はしないだろう。青年は意外そうに片眉を上げる。
「知り合いか。喧嘩にしちゃ物騒だ」
「色々と事情があるのです。これ以上は」
口を閉ざすと、頑固だなと青年は苦笑を零す。
「まあ、予想はつく」
「予想?」
「金絡みだろ」
「全く違います」
「違うのか? アンタ、魔獣を倒したっていう魔術師だろ。褒賞が出るから金銭絡みかと……何だ、なんか拙いことでもあるのか?」
なぜ知っているのか。
反射的に眉を顰めたアルクゥは、笑って取り成す。
「なぜ私が……」
「公報の掲示に容姿の特徴が書いてあったからな。魔術師で、金目の若い娘ってのはそういねぇよ。しかし、最近随分と魔獣が多いんだな。後学のためにどうやって退治したか聞いておきたいんだが、いいか?」
気軽な問いに答えようとしたとき、脳裏に血が飛散する。制止の暇もない酷く唐突な回想だった。赤、赤、赤。グリフォンに殺された盗賊、盗賊に殺された男性と老婆。目の前の青年が、あの父親を失った青年に見えた。恨みがましく呪いの言葉を吐いている。
何で、もっと早く、殺してくれなかったのか。
「――私は、魔術師ではありません!」
頭に響く怨嗟の声を掻き消そうとして思わず叫んでいた。すぐ我に返り、驚いている青年から顔を背けて震えている体を抑え込む。
「アンタは……魔術師じゃねぇのに、魔獣を倒したか。魔力を暴走させたんだろ。誰か、巻き込んだか? 二人死んだって話だが」
青年の声は鋭く、圧を伴っている。
「そのようなことは、しておりません」
「じゃあ何でそんなに震えているんだ」
「私は」
「悪いが、衛士を呼ぶ。真実がどうであれ、アンタはしかるべきところに説明する義務があるだろう」
それだけはと顔を上げると、青年は苛立った顔つきで頭をガシガシと掻き毟っていた。
「魔術が生まれたのは魔力が想像のみで律しきれない代物だからだ。だが力に驕る奴は多い。何の根拠もなく魔力を使って暴走、その末路は悲惨だ。一人で死ぬなら自業自得で済ませられるが、魔力暴走は周囲を巻き込む。ここで一回痛い目を見て自覚しておかないと、アンタはいつか人を殺すぞ」
「人を、殺し……」
青年は椅子を立ち「じゃあな」と背を向ける。
今衛士を呼ばれたら逃げられない。捕まれば全てが終わる。
アルクゥは咄嗟に枕の下に隠しておいた短剣を抜き、魔力を込めて背中に投げつけた。青年は間髪入れずに振り返り腕で刃を止める。鍛えているであろう腕にも根元まで深々と刺さった短剣を表情を変えるでもなくじっと見て「魔剣か」と引き抜いた。
大量の血液が床を汚す。
「あ……」
何の感情も持たない灰色の目と視線が合う。
アルクゥの投擲した形で止まっている指先に震えが走った。
私は、助けてくれた恩人を、殺そうとした。
ぞろり、と記憶が不気味な音を立てて撒き戻っていく。初まりの悪夢だ。
虚ろな目をした兵士が首から血を流してこちらを睨んでいる。体に沢山の穴を空けた壮年の男性と老婆が恨みがましく地面に伏している。ねちゃりと粘って開いた彼らの口は、皆一様に赤く、驟雨のように血を零しながら「人殺し」と飛沫を飛ばした。血が半開きの口内に飛び込む。
酷い鉄の味が喉を下った。
息が、止まる。
「――なにしてんだこの馬鹿がっ!」
青年は血相を変えて短剣を投げ捨て、アルクゥの口に手を突っ込み、半ばまで噛み切れた舌を口の外に引き出す。異物に嘔吐きながらアルクゥは青年の胸を叩く。場にそぐわない淡い光を眼下に見た。舌の激痛と失血が緩やかに治まっていく。
解放されたのは、それから数分後だった。
青年は唾液と血で汚れた手を引き抜き、咽るアルクゥを注意深く睨んでいる。
「舌出せ」
拒否を許さない命令にぼんやりと従う。出した舌に目を眇めた青年はもういいという動作をしたので、恐らく治っているのだろう。
自分は衝動的に自殺しようとしたらしい。衝動的に青年を殺そうとしたように。
ゆっくりと視線を移ろわせ、青年の腕を見る。あったはずの傷が跡形もない。ああ良かった、と勝手にも心の底から安堵した。
「何で死のうとした」
青年は再び側の椅子に腰を下ろす。その間も一瞬たりとも視線は離れない。いくらか気分がまともに戻ったアルクゥは諦観を含めて笑った。
「さあ……終わりだと思ったからでしょうか」
「何がだ」
「これまでの全てが。だから捕まるよりは諦めようと」
「人殺しは重罪だが、アンタは魔物を殺そうとして巻き込んだだけだろう。減刑は当然、もしかすると無罪ってことも」
「何か勘違いしておいでのようですが、死んだ二人は盗賊に殺されました」
青年は眉を寄せる。
「じゃあ何でだ。やましい所がねぇなら胸張って否定すりゃよかったじゃねぇか」
「人殺しは本当です。ここに来る前に一人殺しました」
「なんだと?」
「それに二人の死も私のせいらしいです。力があるのに盗賊を殺さなかったから。結局全て私が悪いのでしょう。もう疲れました」
「そうかよ。……親はどこにいる」
「海の向こう側です」
眉間の皺が消え、青年は二三回瞬いて「話せるところだけ話せ」と詰問を質問に変えた。
「誘拐されて帰る途中でした。それだけです」
「殺したのは犯人か?」
「犯人の一人です」
「複数犯か。……誘拐だったら寧ろ衛士は味方だろうが。名目上だがまだグリトニルは友好国だ。保護を願い出れば」
そこで言葉を切って苦い表情で唸る。
「お嬢様、か?」
「……」
「そう言うことか」
どうしたもんかな、と青年は眉根を寄せしばし考え込み慎重に口を開いた。
「アンタは帰るつもりで港に来て、足止めをくらっている」
「そうです」
「呪はどこでつけられた」
「この港でつけられました」
「ここは知られているのか」
「おそらくは、まだ」
「だが時間の問題だろうな。留まっていてもいずれ見つかる。船も当面出ないはずだ」
何が言いたいのか分からずアルクゥは疲れた目を向ける。
「俺と一緒に来ればいい。俺の師ならアンタを帰してやれるかもしれん」
「……見逃してくださるならば、それで充分です。私は恩人である貴方を傷付けました。これ以上の迷惑はお掛けできません」
半分は本音だったが、もう半分は猜疑だ。甘い言葉は信用できない。青年はそれを分かっているのか「そうか」とだけ言って立ち上がる。
「四日後またここに寄る。気が変わったらそのとき言ってくれ。敵が来たら主人を頼れ。あの人はアンタを引き渡すことはしない。部屋から出るなよ。ああ、そうだ。名前を言ってなかったな。俺はヴァルフ……」
ふと考えて青年は言い直す。
「ヴァルファルドだ」
真名だ。
誠意を見た気がして心が揺れたが唇を噛んで堪え、礼儀としての返名をする。
「アルクゥアトルと申します。数々の無礼な行い、真に申し訳ありませんでした」
「この通り何ともねぇよ。四日後だ」
ヴァルファルドはそう言って無造作に何かを机に置き部屋から出て行った。
アルクゥは大量に血が零れたシーツを眺めて、今の気分を嵐が過ぎ去った心地だと評する。それは晴れ渡った空を見てのものではなく、荒れた土地を見て呆然とする類のものだ。
置いて行った物は皮製の小物入れのようで、軽く振ると金属が擦れ合うような音がする。中身を見ると銀貨二枚、銅貨十枚ほどの貨幣が入っていた。
アルクゥは眉を寄せて、枕の下に隠した。使うつもりはない。四日後訪れたときに返せばいいし、それまでに船が出たら宿屋の主人に預ける。
(私は、まだ立ちあがれるのだろうか)
終わりたいという無意識が舌を噛ませたのではないのか。
アルクゥはベッドに横たわる。何もする気が起きない。
せめて夢だけは幸せであれと願って目を閉じた。