第八十八話 理外への断罪者
湿原の仄白く光る夜へと抜けた一行をサリュを始めとするデネブ守護の騎士たちが迎えた。ヒルデガルドに傾倒せず議会側に付いた彼らは速やかに準備を整えていた駿馬の手綱をサタナたちに渡す。それらを尻目にアルクゥは暗闇から浮かぶように現れたケルピーに手を伸ばした。「ネロ」と囁き鼻面を撫でて顔を抱き寄せる。ケルピーは自分たちよりも先にこの場に居たのだとサリュが教えてくれた。これほど賢く情に厚い使い魔もそうはいないだろう。
再会を喜ぶのも束の間、アルクゥは乗り慣れた背に跨る。湿原のぬかるみも夜闇に潜む魔物の目も意に介さずケルピーは滑るようにデネブへと疾走した。
ひと月振りの魔導都市は随分と賑やかしい。
深夜を過ぎようかという時間だが人足が途切れることはない。よくよく見ればどの顔も不安そうでデネブの現状を憂う風だが、前に比べればよほど正常だ。怪物が捕らえられ霧の日の悪夢からようやく目覚めたのだ。
車道を駆け抜け辿りついた中央塔では、大扉の前で騎士団員たちが睨み合い火花を散らしていた。塔に押し入ろうとする側と阻止する側で酷く罵り合っている。その中に一人、殺気立った場にそぐわない一般人らしき老婆がいてヒヤリとするも、皺の浮いた手元には十数本の紐があり、その先に繋がれた不気味な獣たちが詰めかけた側の団員たちを威嚇している。乱闘に発展しないのはその灰色に濁り切った目の貢献が大きいだろう。
「どきなさい」
容易に収まる騒ぎではない。別口を使おうと迂回しかけたところに溶けてしまいそうなほどに幽かな声がかかる。転移ですっかり魔力を使い果たしたパルマが今にも崩れ落ちそうな足取りで騒動に近付き、おもむろに片手を上げて、力なく落とした。対立する者たちの間に巨大な氷柱が突き刺さる。内の一つが老婆の獣を貫き、破片が騎士の一人を傷付けた。
全員の視線がパルマに集まる。老爺がくっと喉を鳴らした。
「おやおや、一匹死んでしまった」
「元々死んでいるから構わないでしょう。あなたたち、うるさいし邪魔よ。さっさと退きなさい。でないとそこの獣みたいにぶち抜くわ」
押しかけた側の騎士たちはパルマの登場に酷く困惑した様子で目を見交わしている。
「しかしパルマさんあなたの師匠……ガルド様が」
「何も知らない人間が余計な真似をするのは止めなさい。お師匠様は執務室ね」
パルマは取り付く島もない。冷たい顔で一歩踏み出すと怖けたように騎士たちが二つに割れて道ができる。その中央を誰と目を合わせることもなく堂々と進み、一人で中央塔に入っていった。膠着している間にとアルクゥも小走りに後を追った。
停止している昇降機を恨みがましく睨み階段を上る。
途中でパルマに追い付く。ぜいぜいと喉を焼く息切れが聞こえたので肩を貸そうとすると、「私が」と後ろに来ていたサタナがパルマを担いだ。
「貴女は大丈夫ですか」
「平気です」
そうは言ったが、アルクゥは自身の異変を感じていた。
長い螺旋階段を一段上る度に脈動が早くなっていく。
鼓膜にまで響いてくる強い高鳴りは不安を押し流し、高揚に似たものを胸に打ち付ける。
もうすぐ再会する。あの化物と。
我知らずに足取りが速まる。怪訝そうなサタナの声も顧みずガルドの私室がある階層に到達したアルクゥは――。
「アルクゥ!」
はっとしてどこか遠くに置いていた焦点を廊下の先のマニに結ぶ。ヴァルフの姿もある。事態を動かした二人がここにいるのは当然なのにアルクゥは全く思い至らなかった。手放しに喜ぶマニはともかく、壁に預けていた背を浮かせこちらを凝視するヴァルフの三白眼は見開かれていてどこか怖い。
気後れして眉を下げる。きっと怒っているだろう、と。
するとヴァルフは少し泣きそうに眉目を歪め唇を噛んだ。足早にアルクゥに近付き、ゆっくりと手を上げてそっと頬に触れる。ヴァルフの指はかさついて少し痛い。けれど暖かかった。しっかりと存在を確認するように触れてから、ヴァルフは大きな息を吐く。
「心配した」
前触れなく目の奥の辺りが熱くなった。アルクゥは俯いてぶつかるようにヴァルフに抱き付く。ごめん、と硬い胸板に額を押し付けくぐもった声で言う。「俺も悪かった」と言うヴァルフを不思議に思い体を離して見上げたところ、冷やかな声が割り込んだ。
「用事を済ませた後にしてください。二人とも早く休ませた方がいい」
「二人? ……その肩に担いだ性悪はどうした」
「魔力の使い過ぎでしょう。気を失ってしまったようですが、さて無理にでも起こすべきか……」
サタナの言葉にだらりと垂れていた蒼白な手がピクリと反応する。
パルマはサタナの肩に手を突いて上体を起こし辺りを見回し、そしてここが執務室の目の前であると知るや否やずり落ちるように床に下りた。マニがビクリと肩を揺らして猛禽のようなギョロ目を更に見開く。
「だ、大丈夫かよテメェ」
「問題ないわ。お師匠様はこの中にいるのね」
「いるには、いるけどよ」
「あなたたちは何か聞き出せたのかしら。たとえば、お師匠様を操る魔術師の名前だとか、魔術の解除方法だとかは」
マニはぎゅっと眉間に皺を寄せてヴァルフを振り返る。パルマもつられるようにヴァルフを見た。
「なにか?」
「話が通じないわけじゃなさそうだが会話にならねぇんだ。無理やり口を割らせる方法もない。ただ、他人を操る術はもう使えないらしい」
「それは喜ばしいことだけれど、どうして?」
「さあな」
マニがくるりとアルクゥを振り返り、こそこそと耳打ちする。
「お前が誘拐された後から人を操る糸の数が減ったんだ。残ってたのは俺が切って回った。その場凌ぎのつもりだったが、お前あの女に何かしたか?」
「攻撃をしたような、していないような……」
心当たりは血を吐きかけたことくらいだ。
――たったあれだけのことで能力がなくなるほど脆弱なのか。
出来損ない。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「そう。それならもういいのでしょう」
パルマが質問に区切りをつける声を上げて、アルクゥはさっと緊張を纏う。再び鼓動の音が耳の奥に響き始めた。一見投げ出すような口調に「何がだ」と眉をひそめるヴァルフを無視してパルマは真っ直ぐアルクゥを見詰める。
「全て任せるわ」
「――はい」
取っ手に手をかけてから、ふとマニを振り返る。
「マニは来ない方がいい」
「俺も行きたくねえなと思ってたところだ。あれ見てると」
マニはその先の、恐らくはアルクゥがあれに抱くのと同じ種類の感情を口にはせず、部屋から数歩離れてただアルクゥを見送った。
扉を開いた先にある執務室は赤かった。
興奮で視界が赤いのだ。姿を見ずともあれと同じ空間に入ったことが分かる。
――臭い。
前はしなかった臭いまで漂ってくる。髪が焦げるような不快臭だ。
アルクゥは激しく頭を振り、腕に爪を立てて床を睨み付けた。
異変に気付いたヴァルフやサタナの呼び掛けには答えず、ただ自分を律することに全身全霊を賭ける。このままではガルドごと殺してしまう。それでは狂人だ。
どうにか衝動を飲み下す。腹が焼けてしまいそうだと冷や汗を一筋滴らせ、徐々に慣らすように目線を上げていった。
魔女とそれに寄生するものが尖った瞳に映り込む。
ガルドに張り付く薄い影。それは貧相な顔付きをした女だ。色はない。黒のみで描かれた絵姿に見えるが、もしも人間であった頃があったのならきっと青白く隈の浮いた不健康な顔色だったのだろうと想像させた。
不幸を背負ったような哀れみを催す顔付きだ。道端で躓けば思わず手を貸してしまう庇護を誘う顔立ちをしている。
しかしその成り立ちは一切合財を打ち消して余りある嫌悪を抱かせた。
「あなたは誰ですか」
罵らずに問いを絞り出すのも難儀だ。
アルクゥの声に反応してそれは身じろぐ。宿主のガルドが封魔の枷と手錠とで拘束されて満足に動けないのに、這って逃げようとした。
獲物を前にした獣のごとく渇いた舌で妙に鋭く尖った歯先をなぞる。
「目的は」
ぞろりと蟻が一斉に蠢くようにそれがアルクゥを見る。恐怖に引き攣った顔で口を開閉している。もしかするとそれ自体は喋れないのかもしれない。
「どうやってその姿になったのですか」
今度はガルドの口が幽かに動く。しかし声は出ない。
「仲間はいるのですか」
執務室が奇妙に温度を上げ始める。それは暑いのか肩を上下させて、ガルドの口から呻き声が漏れた。
口の中が渇いて熱かった。冷まそうと息継ぎを繰り返すとまるで火炎を吐いている気分になる。
我慢できない。
これが最後だ。
「――ベルティオという名に心当たりは?」
それは顔を半分に切るようににたりと口を半月にして笑った。ぽっかりと顔面に開いた黒い穴は歯も舌も喉もなく、ぱくぱくと空気を食む。それに連動するかのようにガルドが喋った。
「ワタシが一番。ワタシが最初。ワタシが最も優れている」
「知り合いかと聞いているのです」
「ひ、ひひ! 死神! 英知への道を阻む死神め!」
突如として声を張り上げたそれは次の瞬間に正常な振りをしてパルマに助けを求める。
「パルマ、助けておくれ。竜殺しがご乱心のようだよ。殺されてしまう」
「違う。貴女は……違うわ。いい加減、お師匠様を返して」
「ああ、なんて酷い弟子だろう。身寄りのないキミを引き取って一人前にしてあげたというのに。あの頃はとても可愛いかった。ワタシの為に重たい本を運ぼうとしてよく転んでいたっけ」
「竜殺し、早くして!」
アルクゥは求めに応じた。元より限界だった。
大股で歩みより右手でそれの頭を鷲掴む。つるりとした藍色の鋭利な鉤爪が深く突き刺さる。ガルドから引き剥がしにかかるとそれは声なき声を上げて腕に爪を立てるが堅い鱗には傷一つ付かない。
――これは幻覚だろうか。
燃やそうとする意思一つで腕は夜明けの炎を纏う。パルマの悲鳴が聞こえた。見るとガルドが少し焦げている。ああ、と感慨なく女の形をした影を引き寄せると、ずるりと剥がれ落ちた。
それに重さは無い。頭を掴んだまま持ち上げる。恐怖に歪んだ目と視線が合った。光も受け付けないその瞳の中にアルクゥは恍惚と笑う自分を見る。
「のろってやる」
そう動いた口の形を見届けてほんの少し火勢を強くする。存外にもあっさりと、あれほど忌み嫌ったものは消失した。
熱の余韻が漂う。
誰よりも早く我に返ったアルクゥは右手を胸元に引き寄せた。人間の形をしている。あれはやっぱり幻覚だったのかと安堵する反面、しつこく腕を探る指先にひんやりとした感触が掠めた。
「お師匠様!」
どこかに余力を残していたパルマに突き飛ばされ、アルクゥは寸でのところでサタナに抱き留められる。礼を言うとサタナは首を振りガルドの方を見た。
「何を燃やしたんですか。人の形をしていましたが」
「さあ……私にもアレが何だったのかよく分からないのです。ああ、良かった。生きていた」
ガルドは小さく呻いて目を覚ます。
焦点を合わせるように数回瞬いてから手枷を見て、ぎょっとする。
「おやまあ、ワタシはとうとう誘拐されたのかね。まあいつかはと思っていたけれど」
「大丈夫ですか? どこか痛いところは?」
「あれ、もしや救出後かな。いいタイミングで目を覚ましたようだ。怖い思いをしなくて済んだよ」
ガルドらしい言い様にパルマは涙を滲ませながら笑みを浮かべ、ヴァルフが少し不審がる顔で投げた鍵を受け取り拘束を解いた。パルマの手を借り立ち上がったガルドは大きく体を伸ばし、
「ところでキミは誰かな」
初対面のクロでもなく、終わったかと扉から顔を覗かせていたマニにでもなく、他でもない愛弟子のパルマケイアに誰何した。
「誰……って……え?」
パルマは二の句が継げない。
呼吸さえ躊躇う堅い空気が炎の熱すら押し退けてこの場を支配する。腕を組んで成り行きを眺めていたヴァルフが確認するように声をかけた。
「おいババア。とうとうボケたか」
「失礼な小僧っ子だね。初対面の淑女になんてことを」
「……俺はネリウスの弟子だよ。覚えてねぇか」
「アイツの弟子?」
ガルドは目を丸くさせる。
「あの偏屈はいつの間に弟子なんて。まあいいさ。弟子がいるのならネリウスも近くにいるのだろう? まったく、顔くらい見せればいいのに。先日の喧嘩でも引き摺ってるのかな」
呆れ顔で言いながらもガルドはとても楽しげにネリウスのことを口にした。親しい間柄だとでも言うように。アルクゥは大きく震えて口を押さえる。
――なんてことを。
自分が何をしたのか分かってしまった。後ずさるとサタナにぶつかったアルクゥはビクリと身を竦ませた。耳にヴァルフの声が届く。
「師匠は死んだ」
「……何の冗談だろうね」
「アンタも墓に参っただろうが。三か月ほど前に死んだよ。未練なく逝った。俺とそこのアルクゥがアマツで看取って遺骨を月陽樹の下に持ち帰った。そっちでへたり込んで泣いてるのはアンタの弟子だろう。前回のクエレブレ襲撃で親を失ったそいつをアンタが引き取って一人前の魔術師に育て上げた。ずっとアンタを慕って、助けてきただろう」
「何を言って……」
「覚えてないのか。窓からアンタの大事なデネブを見てみろよ。アンタは賢い。性格は悪いが偉大な魔術師だ。俺が言いたいことが、分かるだろうさ」
ガルドはゆっくりと窓に近寄り錠を外してそっと押し開く。中央塔から見下ろしたデネブの風景は美しいはずだ。恐らくはガルドの持つ記憶よりも。
「ワタシは……記憶を、失った?」
「らしいな」
「なら……それなら……本当に、コルネリウスは死んだのか」
気が付けばアルクゥは中央塔の外に出ていた。
螺旋階段を駆け下る感触が足裏に残っているので自分でここまで来たのだろうと思う。
アルクゥは主人の異変に気付き近寄ってきたケルピーに力一杯抱き付いた。嗚咽が漏れそうになって歯を食いしばる。
「レイス魔導師長を殺した化物に成り立ちは近かったように思えます。今回は憑代が生きた人間で、憑いていたものは自我を持っていた。それが違っていた。幽世は意思ある者を薄めてしまう。私は、師匠の知識を貰うことでこちらに留まることができた。……それと同じことだと思うのです」
どうせ付いて来ているのだろうと背中に向かって引き起こした事態を吐き出す。お誂え向きにサタナは聖職者だ。告解にこれ以上の適任者はいない。
「あれはガルドさんの記憶を吸っていた。だから最も近くにいたパルマさん以外は異変に気付くことがなかった。そして私はガルドさんの記憶を盗んだあれを跡形もなく燃やしてしまった。パルマさんのことや、ましてや師匠の記憶まで……!」
取り返しがつかない。
燃やし尽くしてしまった。取り戻しようがないのだ。あのような化物にたとえ他人のものでも師の記憶をとられて悔しい。ガルドにも、パルマにも悪いことをしてしまった。
サタナは何も言わず背後に佇んだままだった。
ケルピーは慰めるつもりかしきりに右腕を舐めている。肌が擦れてひりひりと痛むようになって違う意図があると気付き目を落とした。
腕に何か宝石のようなものが付いている。青と緑が環状に連なり溶け合ったような複雑な色合い。
瑪瑙のようにつるりとした――それは鱗だった。
五章・了




