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精霊のシジル  作者: 染料
五章
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第八十七話 黄昏の許しと明けない夜



 橙が藍に溶け込み明と暗が反転する、丁度その境の時間。

 複雑な色合いの空を背にして黒々とした山の影絵が立ち並ぶ。じきに夜がくる。追い付かれまいと巣へと急ぐ鳥たちに倣い、一行を乗せた翼竜たちは空を裂くように飛んだ。

 木の先端を腹で擦る低空から、目一杯頭を上げて仰ぐ高層には針で突いたような黒点がいくつか見える。時折、深い洞を吹き抜けるような重低音は、高位の魔物と竜種が縄張りを巡り争う音だと治療の片手間にサタナは教えてくれた。

 鞍に反対に跨り相乗りのサタナと向かい合ったアルクゥは、どこか物悲しい空鳴りに耳を傾け、一方で白い魚の腹を思わせる自分の右腕に刻まれていた無数の切り傷が痕も残さずに塞がる様子を眺める。

 次、という動作に応じて左腕を出す。こちらも元々白いサタナの手と比べても遜色ないほど色が薄い。生白い不健康な肌は監禁されていたひと月の長さを思わせた。

 じきに左腕の治療を終えたサタナは、左手の甲に残る傷跡に目を細め強く押すように撫でた。指の腹でしつこく古傷をなぞるが、肌に定着した痕は頑迷に消えることを拒む。くすぐったさに耐えかねてそれは治さなくて構わないと言うとサタナは「申し訳ない」と低く謝罪した。

 謝るのはこちらの方だ。アルクゥは眉を寄せて視線を迷わせる。安易に猜疑に逸り誤解した。助けた側からすればとてつもない不快感を伴うものだっただろう。


「あの……先程のことですが」

「何でしょうか」


 まるで何事もなかったかのような応答に勝手に怯んだアルクゥは、出そうとしていた謝罪を別の言葉に曲げた。


「……私を自由にしたことで、本当に罰を受けないのですか」


 サタナは腕とは違い傷よりも痣が目立つ足を診ながら「受けませんよ」と軽く笑った直後、肺を軋ませるように咳き込む。

 気まずい空気が漂う。アルクゥは目を見開き、そして忌々しく細めた。


「あの男に言った言葉。どこまでが嘘ですか」

「ただの風邪……陛下の信頼があることは本当ですよ」


 咄嗟に偽りを重ねようとしたサタナは言葉を詰まらせ、真実と思われる部分を口にした。それ以降は沈黙を貫こうとする。しかしアルクゥには質問を拒否する空気に踏み込むだけの根拠不明の怒りがあった。


「罰を受けることになるのですか」

「そうなる可能性はなくもないでしょう。制限には触れなかったので、命がどうなるというものではありません」


 信頼があるのに制限とは何か。口振りからして、国王に乞われて北領の問題に首を突っ込んだと思っていたのに、それなら制限を設けられるのはおかしい。

 そう、おかしいのだ。北領問題にサタナが関わるにはあまりに脈絡がない。国王はサタナの命を惜しみ今の目立たない、しかし重要な仕事を与えた。そんな国王が目立つ要職にサタナを起用するのは矛盾している。

 だとすれば自分から問題解決に関わらせるように願ったことになる。

 だが国王が頷いたとしても、周りが容易く受け入れるわけがない。粛清の真実を知る者でもその思考に疑念を抱くだろう。もしやかつての権力を取り戻そうとしているのではないか、と。

 それならば制限を設けられることは当然であって――恐らくそれは口約束程度のものではない。

 ゆっくりと血の気が引いていく音が体の中でさざめく。アルクゥは半ば確信を持ってサタナの左腕を掴んだ。手の平から伝わった動揺が嫌な予感を後押しする。抵抗がないのをいいことに袖を捲くると、白い肌に赤い紋様が刻まれていた。

 ――契約。

 茫然として紋様を目に映すアルクゥにサタナは言い訳する。


「深刻なものじゃありませんよ。対人契約ですらない。書面によるものです」

「制約内容は」

「裏切りや命令に背く等の行動をした際の断罪です」

「あの男から庇った時に死ぬこともあり得たということですか」

「ほぼ確信があっての行動でしたから」


 アルクゥは怒りで熱くなった呼気を吐き捨てる。


「馬鹿な、ことをっ……!」

「二度も貴女の心を殺す真似はしたくなかった」

「……これは消えないのですか」

「契約が完了すれば、北領の独立問題を解決したことを陛下に報告すれば消えます」


 唇を噛み、無駄だと知っていながら紋様を引っ掻く。

 このようなものを刻んでまで問題に関り、そのくせ成し得た功労を手放して、どうでもいいようなことに命を賭ける。

 何の為に。

 そこまでされて分からない馬鹿はそういない。しかしアルクゥは虫唾が走って仕方がない。認めたくなくて問う。


「どうして」


 長い沈黙があった。

 答えるつもりはないのか。もしかするとそれでいいのかもしれない。そう思い始めた頃に、返事があった。


「利用して暗い道に貶めておきながら私は貴女に対価を支払っていない。取引き通り協力と引き換えにネリウス様の治療は提供しましたが、たったそれだけだ。理不尽なくらい釣り合わないものしか返さなかった」


 アルクゥは相槌も打たず耳を傾ける。


「貴女に時間がないことを知ったとき馬鹿みたいに焦りました。奪ったものの大きさに気付くには遅すぎた。貴女の中身は空になっていた。解放することも考えました。しかし今更手を放したところで何になるとも思いました。貴女は私の知らぬ所で消えてしまい、そして貴女のいない国王側は負ける。負ければ、あの冷や汗を流すことしか特技がない愚物は死ぬ。手放すことはできなかった。

 貴女が王都を去る日まで結局私は何も返せなかった。だからせめて命くらいは差し出すつもりで赴きました。貴女の私に対する恐怖は身に沁みて知っていた。もし自分を取り戻すことがあれば、私の影に怯えるかもしれない。それに私は短絡的にも貴女が復讐を望むと思っていました。私自身も身に覚えのない罪で死ぬより貴女の憂さを晴らして死ぬ方が有意義だと考えた。恐らく、浅ましいことに最後の理由が一番強い本音だったのでしょう。その自分本位な思考を貴女の兄弟子は見抜いて私を殺しはしなかった。そして貴女は何も望まず私の前から去った」


 アルクゥの頭にヴァルフの言葉が思い出される。「そう何もかも思い通りになると思うな」今ようやくその意味を知ることができた。


「それからは貴女のことばかりを考えていました」


 聞き様によってはこれほど濃やかな情愛もないが、サタナはそういう類の誤解を許さない淡々とした渇いた口調で言う。


「生きているのか、死んでいるのか。子爵のように消えたのか。それとも感情のない人形のまま色の失せた日々を過ごしているのか。気付けば脳裏に貴女の姿がありました。陛下との約束を果たした後の、無様にも生き残った私にあったのはそれだけでした。けれど何の情報も入ってこない。貴女の兄弟子は優秀だった。焼け付くような焦燥は、暗殺者をあしらうのが面倒な程度の無気力に変わった。ヤクシが苦情を入れたのか知らないが、陛下の反応は珍しく早かった。ティアマトの各地を巡る仕事を与えました。他に適任がいなかったこともありますが、暗殺から遠ざける意味合いが強かったのでしょうねえ。

 あれでいて面倒見の良いヤクシを苛立たせながら、私は表面上任務に従事しました。しばらくして北領が聖人を獲得しようとしていると聞いて有り得ないと知りながらも高揚し、それがやはり別人だとわかって落胆した。……その直後に、貴女と再会することができた。貴女を目にした瞬間から、私の中で死んでいたものが息を吹き返しました。それはつまるところ貴女が望まない限り自身の罪悪を雪ぎたいという自己満足でしかありえない。けれど、私はどうしても貴女から奪ったものと同等の代償を返したい」


 いつしか憤ることも忘れてアルクゥは唖然とサタナを見返していた。それでもまだ理解できる範囲の言葉だったが、そこに止めの一言が落ちる。


「私を従僕にしてくださいませんか」


 長い長い思考の硬直を経た後、アルクゥはサタナの正気を本気で疑う。契約を結び自分の主になれとこいつは言っているのだ。どう考えても頭がおかしい。

 しかしサタナの目はどこまでも本気で冷静だった。

 その琥珀色を直視することができず、アルクゥは目元を押さえて首を振る。


「師匠は治りませんでした。けれどありがとうと、そう言ってくださいました。自分がやらなければならなかったことだ。お前たちのような弟子を持って幸せだと。貴方は私に何も返してないと言いますが、私は貴方の側で師匠の憂いを晴らすことが出来ました。それで充分に報われています。貴方も、せっかく生き延びたのだから自分の為に生きていけばいい」


 幾許かの沈黙が流れる。やがてサタナは確認を取るように聞く。


「いいんですか」

「いいも何も貴方の自由でしょう。なぜ私の意思を窺う必要があるのですか。勝手にしてください」


 自棄で突き放すように言ってからアルクゥは密かにサタナを盗み見て面食らう。

 いつもの人を食ったものではない、こちらを落ち着かなくさせる満ち足りた微笑を浮かべていた。


 その後、両手足の治癒はつつがなく終了する。

 痒さを伴う鈍痛が和らいだことでホッと息を吐いているとサタナの視線がじっと鎖骨辺りに下りた。確かに、胸元や腹部にも傷はあるがそちらは流石に遠慮した。


「ありがとうございました。痛みもだいぶ消えて、助かりました」

「……いえ」


 やっとのことで本来あるべき騎乗の体勢に戻ったアルクゥに、翼竜のプリゼペが愚痴のように低く鳴く。聞き付けたのか前の翼竜に乗るユルドがこちらを振り返りプリゼペに何か伝えたようだ。するとぐん、と速度が上がりユルドを追い越してプリゼペは先頭に飛び出た。本来ここが定位置なのだろう。サタナがアルクゥを背上で治療するにあたってユルドが気を使い後方にいるよう指示していたようだ。

 腰を据え直したアルクゥは、眼下を後ろに流れていく光の波に気付く。体を乗り出して覗く。艶々と光る葉が月明かりを反射して淡い光海を作り上げている。


 サタナとの血迷った会話に気を取られている内に夜が来ていた。


 北の空はがらりとその表情を変えた。夕焼けの寂寥を少しも残しはしない。海よりも尚深い藍色に青白い月が浮かび、力強く輝く星たちを従えている。

 この光景を簡単に忘れることはないだろう。

 この夜はきっと印象深いものとなる。

 やがて翼竜は針路を西から北北西に変じる。じきに目的地へと到着するだろう。


 翼竜が降り立ったのは、枯木の根っこが辛うじてしがみついているような険しい岩肌の側だった。地面には遠目にも分かるほどの大きな転移陣が白々と光を湛えている。先に降りたサタナの手に支えられながら着地する。


「ここは……」

「メンシス湿原の廃域と繋がっていた場所よ。飛ばされた癖に忘れているなんてお目出度い頭ね」


 パルマはすっかり治癒した自分の足で地を蹴り付けるように歩いてきた。視線は見るもの全てを凍らせんばかりに冷たい。侯爵邸での戦闘でもこんなに険しい顔付きではなかった。無理もないだろうとアルクゥは思う。

 今宵、ヒルデガルドの生死が定まる。そして決めるのはアルクゥに他ならない。努めて考えないようにしていた事実を思い出し、アルクゥは密かに溜息をついた。


「パルマさんのせいで飛ばされたことは忘れていません」

「パルマでいいって言っているでしょう! 嫌味なやつね! そこの鳥頭。さっさと来なさい。翼竜の飼い主の貴女は来ないのでしょう?」


 誰かを攻撃しないではいられない様子ながらも、この場を采配していく。まだ碌に会話してもないユルドは頷き、

 

「ええ。魔物が一緒だと転移は余計に魔力が要るから。私はこの子たちと一緒に直接デネブへと向かうわ。じゃあアルクゥ、デネブでゆっくり話しましょうね!」


 片目を瞑ってプリゼペに跨り飛び去っていった。

 見送るアルクゥに罵声が飛ぶ。


「見送っていないで早く来なさい!」

「ああ、ごめんなさい。手伝います」

「いらないわよ馬鹿。元々廃域から繋がっていた場所なのよ。転移は普通よりも遥かに簡単で確実なんだから。貴女は……備えておいてちょうだい」


 何に備えるかパルマは言うことを憚った。

 それが責任の重さをアルクゥに自覚させる。

 自分はあの化物と対面して、胸を掻き毟るような嫌悪と衝動を抑え冷静な対処を行うことができるだろうか。

 ――やらなければならない。

 ガルドを救える可能性があるのはマニかアルクゥだ。マニに重いものを背負わせたくはない。何よりパルマとの約束がある。

 私が、やらなければならない。

 両手を祈るように握り合せて大きく息を吐く。サタナは主人の不安を嗅ぎ取った犬のようにアルクゥの隣にピタリと立った。まだ血迷っているのかと険のある視線を向けていると、パルマが声高く言う。


「全員陣に入ってる? 置いて行っても迎えに来たりなんてしないから気をつけなさい。準備はできたわ。行きましょう」


 転移陣が一際輝く。

 空間が捩じれ、縮み、アルクゥはついに北領の地を脱出した。

 それでもまだ夜は続いている。


 

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