第八十六話 背信
銀の一閃に追い縋るようにして赤が喉元に線を引く。
ぷくりと大小の血玉が線を彩る。皮膚の檻を突き破り今にもアルクゥに降り注がんばかりだった血液は、鈍い衝撃音と共に微かに尾を引き後方へと吹き飛んでいった。
盛大な血飛沫を上げながら迫ってきていた他の軍人に衝突する。それによって足を鈍らせた敵を、死体ごと剣が貫いた。それで二人目。その携えていた武器を奪い取り力任せに投擲する。額を貫通し三人目が崩れ落ちる。相対した四人目が武器を隙なく構えたところ、三人目の頭蓋を貫いた剣がどす黒い呪を発する。粘ついた泡を吹いて四人目が倒れる。
危機は過ぎ去った。
アルクゥの伸びて撓んでいた時間が元の流れを取り戻す。
膝を突き目の高さを合わせた白皙の男に焦点を結んだ。私兵の装いに似せた格好をしている。なぜここにいるのかと、サタナの焦りを帯びた眉目を不思議な気分で見返す。
「怪我は、いえ致命傷は……酷く痛むところはありますか」
体中痛いに決まっている。この体たらくを見てわからないのだろうかと思いながら、アルクゥの意地は弱気を見せることを良しとしない。肌に張り付いている細かな硝子片を叩き落としながら平素通りに答える。
「助かりました。ありがとうございます。……今頃は豪勢な椅子に座っているものとばかり思っていました」
「願い下げですよあんなもの。立てますか」
愁眉を開いたサタナが差し出された手を取ろうとし、自身の指先が震えていることを知ったアルクゥは目を見張る。すぐに大きな手に覆い隠されそれを頼りに立ち上がる。盗み見たサタナには気付いた様子はない。気を遣ってくれたのだとしても指摘されなくて良かったと安堵した。
「遅い! 遅刻よ! あなたって一体何様のつもりなのかしら!」
足を負傷したらしいパルマが北領軍人の格好をした者に支えられながらサタナを怒鳴り付ける。アルクゥは反射的に身構えるが、よくよく見れば彼らは記憶にある顔触れだ。王宮の聖域で窮地を共にした近衛所属の者たちだった。
彼らはアルクゥの目線に気付くと胸に手を当て敬礼する。すでに軍属ではない自分が返礼するのもおかしな気がしたアルクゥは目礼を返すに留まる。
「時間通りに到着はしたんですけどねえ。獣にじゃれ付かれて手間取りました」
「言い訳を聞く時間が惜しいわ。さっさと進みなさい」
居丈高な物言いに苦笑を零した近衛にまでパルマは噛みつかんばかりだったが、どうやら重ねて怒鳴る余力は残っていなかったようだ。憎々しげに睨み付けただけで大人しく運ばれていた。
総勢で八人程度の迎えに守られ、アルクゥとパルマは侯爵の邸宅を辞した。直前までの労苦を考えるとあまりにも簡単な行程だった。
自力で歩くアルクゥは少し離れた所で侯爵邸を振り返る。数か所から火の手が上がり黒煙が夕空を舐めて焦がしている。
きっと侯爵は死んだのだろう。
なぜだかそんな確信があり僅かに心が軋んだ。最後に見た息子に向ける眼差しが、かつての幼い時分に向けられていた父のそれと重なったからなのかもしれない。
一行は市街には向かわず侯爵邸の西に広がる林を目指した。
道らしい道もない茂みを浅く分け入り、開けた場所にでると、そこに残りの迎えが待機していた。見知らぬ人間もいたが、懐かしい顔触れもある。五体の翼竜の傍にはユルドミーシャが、魔力を持つ駿馬三頭にはスキャクトロが付いており、ボロボロのアルクゥを見るとそれぞれ小さな悲鳴と野太い呆れ声を漏らしていた。
それだけのことなのに、どうしようもなく日常を感じて安堵した。膝の力が抜けかけてふら付いたアルクゥの肩をサタナが支える。礼を言おうとしたが、不意に進み出てきた見慣れない男に気を取られた。
表情のない能面のような顔に冷たい二つの眼球が嵌っている。鉄の機械のような印象を持たせる無機質な男は、サタナに事務的な敬礼をして口を開く。
「任務完了を確認しました。以降、その方の身柄は我々が引き受け、王都まで護衛し、保護させていただきます。サタナ司祭は先に帰還して陛下に謁見を。此度の事件と成果を報告してください」
「待ちなさい! その子はデネブに、ちょっと何するのよ貴方たち!」
口を塞がれたのか、くぐもった音で呻いた以降パルマの声は聞こえなくなった。
アルクゥは後背の出来事と、押さえ付けるように肩に乗った手に注意を向ける。
心臓が冷水を被ったように縮みドクドクと震えている。
「保護……ですか?」
「また今回のようなことが起きないとも限らない。貴女の身を案じた陛下が王宮の一室を貸し与えてくださるそうです」
「お断りします」
男は細い眉をついと上げる。
「失礼ながら申し上げますが、貴女が関わったことによってどれほど問題が拗れかけたか御存じでしょうか。拉致監禁されたのは貴女が外敵に対して不用意だったことが原因でしょう。これ以上、陛下のお手を煩わせるのは止めていただきたい。地位のある人間の責任を果たしてください」
「小娘一人の存在に煩わされる国など、程度が知れますね」
「過ぎた口を利かない方が身の為かと」
アルクゥは皮肉っぽく口角を上げて男を、そして肩の手の主を睨め上げる。
売られた――裏切られた。
違う。それはただの被害妄想だ。知っていたはずだ。わかっていただろう。サタナはもう味方にはなり得ないし、自分の存在は国にとって厄介なのだと。サタナは己の仕事を粛々と取り行っているだけだ。ほんの一時でも、安心した自分が馬鹿だった。
唇を強く噛む。この人数を前に逃げられるのか。肩に置かれた手の平によってすでに動きは制限されている。
白々しく気遣う様子を思い出せば、どうしてだか酷く憎たらしかった。
――誰を殺してでも切り抜ける。
男の言う保護と北領から受けた監禁のどこに違いがある。
迷惑をかけたことも、心構えがなっていなかったことも事実だ。しかしアルクゥという個の人生と尊厳を奪う権利は誰にいもない。
帰ることができないのなら、自由を奪われるのなら、良いように使われ続けるのなら。
アルクゥは怪我だらけの手を強く握る。
その様子を見て男は冷笑を浮かべる。
「理解していただけましたか」
「断ると言いました。貴方は言葉そのものを理解できていないようですね」
「生意気な」
微かに不快を呈した男は、話は終わりだと容赦なくアルクゥの腕を掴む。
怪我の部分を強く握り締められて、苦痛に顔を歪ませながら反撃に出ようとするアルクゥの左頭上を何かが過ぎった。
背後から蛇のように伸ばされたサタナの手が、男の顔を握り潰さんばかりに掴んでいる。骨の軋みが聞こえてきそうなほどだ。
サタナの行動を皮切りに次々と鈍い音が連なる。男の後ろでクロと翼竜が見知らぬ顔を三人ほど気絶させ、ユルドはにんまりと笑って倒れた一人をポコリと小突く。
「っこれは何の」
「動くな。……いかにも主命のごとく言っておられましたが、狸外相辺りの差し金かな。あの善良な凡愚には考え付かない命令だ。嘘吐きには呪いを差し上げましょう」
男は喉を引き攣らせて悲鳴のように叫ぶ。
「それは明確な命令違反だ! また裁判にかけられたいのか!」
「出来るものなら、と言ったところですねえ。元よりこの任務の全権を持つのは私で、にもかかわらず部下である貴方は他から下された命令を優先しようとしている」
「しかし!」
「寄り道をせず陛下に報告しに戻りなさい。そして嘘偽りなく全てを話す。私がそう判断したと。それを解呪の条件とします」
「貴様、今度こそ完全に追放されるぞ……! 二度と陛下の側に上がることは」
サタナは鼻で笑って一蹴する。
「仕事を与えて手放さなかったのは陛下なんですけどねえ。どのみちあの場所に戻りたいとは思いません。まあ、私に対する信は報告の後で陛下に尋ねてみるといいでしょう」
投げ捨てるように男の頭を放す。
たたらを踏んで数歩下がった男は、忌々しさと恐怖が混在した目でサタナを睨み付ける。「呪いには時間制限が」とサタナが軽く告げるとサッと顔を青くする。気絶している配下を叩き起こして馬に飛び乗り、アルクゥを一瞥もせずに去って行った。
「口が開いてますよ」
零れんばかりに目を見開いてサタナを振り返ったアルクゥは、苦笑気味の指摘に口を引き結ぶ。
「私が貴女を引き渡すと思いましたか」
見透かされている。喉に引っかかって中々言葉が出てこない。視線を所在なく彷徨わせて斜め下に俯く。その反応とクロの「日ごろの行いだな」という揶揄にサタナはますます苦笑するようであったが、「デネブまで送ります」とアルクゥの背中を押す手は丁寧で酷く優しげなものだった。




