第八十五話 届いた言葉
アルクゥとパルマは互いに背中を向け合うようにそれぞれ椅子とベッドに腰掛ける。窓から差し込む夕陽が暗色に変じていき、万物の影が伸びていくのを二人して眺めながらただ待ちぼうけていた。
アルクゥは硝子越しの夕空を見上げる。ふと焦点を前にずらせば、磨かれた硝子面に暇を持て余すような己の姿が薄らと映っている。その実、指先は固く握り合わされて手の平はしっとりと湿っていた。
時計は亀の歩みで進みつつ約束の時刻を示そうとしている。
迎えが来れば使用人が知らせにくる。それを待ってここに来たときと同様に裏から出ればいい。簡単な手順をアルクゥは幾度となく頭の中で繰り返す。そうでもしないと失敗して永久に囚われたままになってしまいそうな、強迫観念じみた不安が心に渦を巻いていた。
ここは、息が苦しいのだ。
鎖に繋がれて監禁されていた時よりも抑圧されている感覚がある。屋敷に充満する殺意が呼吸を阻害する。
まるで占拠するかのように我が物顔で屋敷内を闊歩する軍人らは、最後まで抗わない侯爵を糾弾しに押しかけた連中であると眠っていくらか復調したパルマは言った。国王への打診は済ませたようだが、侯爵は未だ外に対しては独立を撤回していない。いわゆる強硬派の彼らには特に情報が行かないよう細心の注意を払ったはずだが、誰の告げ口か、押しかけてきてしまっている。昨晩は夜通し侯爵を出せと叫び屋敷に駐留する兵と一悶着起こしていた。
波乱は必定、ならば火蓋が切って落とされない内に立ち去らなければならない。なのに。
「遅刻かしら」
その声に時計を見直すと、とうに予定の時刻は過ぎていた。誤差の範囲ではあったが、焦れたパルマは人差指の腹で忙しなく膝頭を叩いている。心境はアルクゥも然して変わらない。段々と苛立ちの挙動が大きくなっていくパルマを横目に椅子を立ち、窓を左右に押し開けた。
禍々しい夕陽に反して涼しげな風が流れ込んでくる。慰めるように頬を撫でる柔らかい風の感触にふと大狼となって向こう側へと行ってしまったハティを思い出す。
その記憶が、唸りを上げて吼えた。
「今のは何?」
パルマがアルクゥを押し退けて窓下を覗き込む。一拍遅れてアルクゥも咆哮が現実のものだと理解しパルマに倣って下を見た。その間にも二度、三度と怒号にも似た獣の声が大気を震わせる。
アルクゥは遠くに見える正門から整然と整えられた西側の庭に目を走らせる。ほんの一瞬、夕闇を背負い競うようにして駆け抜けるいくつもの大きな黒い影を目にして眉を寄せる。
「魔物?」
「あれは番犬よ。もちろん普通の犬ではないのだけれど……どうして放たれているのかしら」
二人の間に落ちた沈黙に、獣の声だけでなく人の怒声までもが落ちてくる。
アルクゥとパルマ、互いの目を見交わせば、この時ばかりは親交深い旧友のごとく、言葉を出さずとも意思疎通は完了した。昨日使用人から受け取った北領の紋章が入った外套を着込み、フードを深く被って客室を出る。
名家の邸宅らしい、高い天井に幅広の廊下には薄く異臭が漂っていた。肺を侵す不快な臭気にアルクゥは鼻を押さえる。
「臭い……生物の焼ける臭いよ。火が出ているのかしら。部屋で守りを固めても意味がなさそう」
「何が起きているのでしょうか」
「さあ。殺し合いかも」
パルマは肩を竦めて適当な調子だが、階下から聞こえる喧騒からしてあながち間違ってはいないのだろう。強硬派と侯爵側との衝突か。迎えとの衝突か。命の危険を感じさせる音の数々は確実に大きくなり、こちらにも近付いて来ている。今でこそこの三階の廊下には使用人の姿さえなく不自然なほど無人だが、じきに騒乱が飛び火してくるのは明らかだった。
「どうしますか」
「わかり切ったことでしょう。逃げるのよ」
「迎えは?」
「来ているのかもわからない人達を顧みる必要なんてないわ。いい? 何かあったら私を見捨ててでもデネブに帰りなさい」
「そうします。……侯爵には悪いですが、あのまま自力で帰った方が良かったですね」
パルマはぎゅっと眉根を寄せる。自分が待機を提案しただけに、そうかもしれないと素直に認めるのは癪な様子で、無言で先導に立ち足早に階段へと向かった。
一段飛ばすように駆け下りた二階の踊り場でパルマは急停止する。廊下から現れた血濡れの剣を掲げた数人の軍人らはアルクゥたちを見て一斉に濁った瞳にぎらつく光を湛えた。内の一人が敵意に満ちた声で詰問しようと口を開ける。
「貴様ら」
「敵はどこですか! 我らはどこに加勢すればよいのでしょうか!」
パルマは相手に被せるように精悍な男の声を張り上げる。外套で体型が隠されていることと、パルマの背がすらりと高いこともあって、大抵は青年の魔術師だと騙されてしまうだろう。まんまと欺かれた軍人たちは剣先を下げて二階の廊下を指し示す。
「裏切り者のデネブの使者と、もしかすると居るかもしれない薄汚い英雄を探せ。デネブの方は殺して構わない。泣き黒子の色白の女だ。変な気は起こすなよ。貴様らはこの階だ。侯爵側の兵共には気を付けろ。仲間が五人やられた。奴ら、国王に完全に寝返ったらしい。王都の人間を引き入れ、早く行け!」
最後まで言う間もなく、軍人らは階段から駆け上がってきた一団と剣を交える。一見すればどちらも北領の兵士であり乱戦に縺れ込んでしまえばどちらが何なのか判別がつかない。その中で異質にも使用人の格好をした者が混じっていた。監禁部屋でアルクゥを見張っていた女だ。一人三階に行こうとし、アルクゥとパルマに気付いて目を丸くさせ激しい身振りで下に逃げるように示し戦闘に加わる。
彼女の他にも魔力保持者がいるようで、常人がおおよそ出し得ない重い剣戟の音を響き渡らせていた。
二人は慌てて血飛沫が飛び交う戦場を抜けだして階下に逃げる。
「何が何で何なのアレは。味方同士で争っているわけ? 殺し合うのはいいけれど巻き込まないで欲しいわあの馬鹿者共は」
「迎えは来ている様子なので、それが露見してということでしょうか。でも仕掛けたのは侯爵側とは言っていましたが……それより、あの声には驚きました」
「あんなの基本よ。貴女やヴァルフみたいに真っ向から戦える魔術師なんてほんの一握りなんだから。それでも学んでおいて損はないから、帰ったら習得しなさい」
恐怖と混乱を紛らわすように早口で喋りながら一階へ。
にわかにきつくなった異臭が眼球を焼くように沁みる。廊下の片隅に黒く燃え盛る生物の死骸がチラリと見えたが、その物体が何なのか考察する余裕はない。一階は魔術が飛び交う激戦区な上に、庭に放たれていた獣まで牙を振るっている。侯爵の人柄を映した様だった厳格な邸宅は、今や血脂と黒煙に塗れた汚い場所へと成り果てていた。
アルクゥは気付けば目の前にあった鋭い歯列を腰を抜かすようにして避ける。牙が掠った額から血が噴き出して右だけの視界を隠してしまう。慌てて拭う傍ら、パルマが魔術を行使した気配があった。
戦場の赤い熱気が局所的に白い冷気へと塗り変わる。
カチカチと人が凍えるような音を立てて組み上がった氷のゴーレムは、再度襲い掛かってきた獣を一殴りに弾き飛ばし、激しい戦闘で道を塞いでいる一団に手の平を叩き付ける。氷の手は敵を制圧しつつ、霙のように柔らかく砕けると同時に再度凝固し動きを封じる。
鈍足のゴーレムはそこで放棄し、パルマはアルクゥを急き立てる。
「早く走りなさい! 裏から逃げるわ。街に出ましょう。軍人が目を光らせていると思うけれどここよりましよ。運が良ければ迎えと合流できるかも。ったくこんな事態になるなんて……とんだ誤算ね。誰か扇動でもしているのかしら」
かもしれない、とアルクゥは同意する。何もかもが大いにキナ臭いのだ。
屋敷は縦に長い長方形、その中央をくり抜き中庭を配置する構造をしている。死体と煙を尻目に、中庭を取り囲む四本の廊下その東側の一条に出る。
こちらを視認していない二匹の獣をアルクゥが仕留め、中庭から流れて来た火球をパルマが逸らす。
更に角を曲がり、裏口がある北側の廊下に差し掛かる。そのとき、肌が膨れ上がる魔力を察知した。パルマの頭を押して自分も伏せた瞬間、中庭に爆炎が生じる。窓が撓み、割れて雨のように廊下に降り注いだ。
パルマが瞬間的に魔力を放出し硝子を跳ね除けたお陰で二人は掠り傷で済んだが、中には致命傷を負った者もいただろう。戦いを止める一撃になるかと思ったが、麻痺が治った耳には変わらず戦闘音が聞こえてくる。
「中庭に厄介なのがいるようね。こちらに来ない内に」
魔力の過剰放出で息切れするパルマの、まるで吐息のような言葉を聞き咎めたかのように、割れた窓から身軽に飛び込んでくる影があった。
老齢の、腰が曲がった老人だった。骨と皮しかないような干からびた外見だが動きはかくしゃくとしている。今にも落ちそうな丸い目玉が、音が聞こえそうなくらい上下左右を動き回り、ピタリとアルクゥたちを視界に捉えた。
真円に近い不気味な眼差しがじっと二人を観察し、細かな皺の浮いた口元が左右にニタリと裂ける。その裂け目から有り得ないような大音量の奇声を発した。
「ここにいるぞぉおお! 裏切り者の手先がぁ!」
「あのクソ爺よくも!」
パルマは二体大小のゴーレムを作る。巨大な一体で後ろを守る氷の壁を築き、小さな方に老人を攻撃させる。しかし、放たれた角の鋭い氷塊は老人に着弾する間際、赤々と燃える鉄板に落ちた水滴のように掻き消えた。
「アレを殺しなさい竜殺し!」
アルクゥは承知すると同時に廊下一杯に魔力の刃を生やす。
それもまた老人に届く前にことごとく打ち消される。同等の魔力をぶつけられ、かき乱されて砕け散った。
呆気に取られるアルクゥ、そして歯軋りするパルマに老人はニヤニヤと笑みを浮かべている。その後ろからは意外にも少なく、しかしたった二人を制圧するには多すぎる人数の軍人が走ってきていた。
「戦闘特化の魔術師かしら。まずいわね。ちょっと貴女、竜を殺したって噂の火でアイツ燃やせないの」
「時間はかかりますけど、やって」
みます、と言おうとする最中に、真っ赤な炎が前を守るゴーレムの頭を粉砕した。
「抵抗はせず降服なされえ! 機会は一度、逃せば死ぬるぞお!」
軍人に守られた老人はそう言って哄笑する。「イカれ爺」とパルマが毒突く。
劫火が氷の巨人の片腕を落とす。床にぶつかって砕け、霜が降りたようにその部分を凍らせる。ゴーレムは腕を再構築するも、一回り縮んでしまった。
老人は周囲を軍人で固めながら硝子の破片でパルマのゴーレムと良く似たものを作り出す。動かない、ただの硝子の人形だが、壁のように老人とアルクゥたちを阻んでいる。アルクゥは唇を噛む。幽世から触れば容易に壊せる。しかしその後、崩れてくる硝子片は実体を持っているのだ。
一見パルマをからかうようだが、アルクゥには自分を警戒しての防壁に思えてならない。パルマは恐らくのところ善意でアルクゥを竜殺しだと知らしめたのだろうが、それが裏目に出ている。
後ろから回り込むか。アルクゥはその考えを否定する。駄目だ。そんなことをしている内に一人消えたことに気付かれる。そうすればパルマは殺される。
そこでアルクゥは気付いた。
一人でなら逃げるのは容易だということに。
まさかそんな非道はありえないと内心鼻で笑いながらも、その選択肢を思い付いて改めて見直した状況の悪さに冷や汗が浮く。横目でパルマを窺い見ると、思いがけず目が合った。
「逃げられるのなら置いていきなさい。共倒れになる必要なんてないもの」
「……あの老人まで」
「なに?」
「あの老人の魔術師まで真っ直ぐ、道を作ってください」
とは言え、道が出来てあちら側で老人を殺せば己を失う。殺害の際にはこちらに戻らねばならず、そうすれば老人を殺せてもその後、アルクゥは取り巻きの軍人に殺される未来が見通せる。
道を作り、尚且つ老人を軍人たちから引き離す。
脳裏に閃いた方法にアルクゥは苦笑する。頭の悪い手だ。だがそれ以上はないように思え、パルマに耳打ちした。
「無理よ」
「できます」
「……本当に?」
「できます」
パルマはまじまじとアルクゥを見詰めてから「馬鹿みたい」と、表情を柔らかく綻ばせた。
「いい? 一瞬よ」
「わかっています。加減はしてくださいね」
アルクゥは幽世に意識を伸ばす。パルマは頷き大きく深呼吸をして「降参するわ!」と声を張り上げ――ゴーレムの左拳が氷の擦れ合う音と共に伸びて硝子の像を打ち砕いた。老人の目の前にいた軍人は慌てて退避するも、氷の拳は像を砕いた時点で溶け、硝子片は不自然な動きで左右に落ちて行く。
だが、目論見通りだ。アルクゥと老人は空白の直線で結ばれた。
アルクゥはゴーレムの残った右手の平に捕まり足の裏を付ける。利き手には小さな短剣を持っていた。ぐん、と体が後ろに押し潰されるような感覚の後、アルクゥの体は老人に向かって跳ぶ。
瞬間、幽世に入る。相手の視界はゴーレムの左手で潰されている。避けられはしない。
しかしながらアルクゥにとっても想定外の速さでもあった。老人にぶつかる間際、ぎりぎりのところで幽世を出て苦し紛れに魔力で身体を覆う。手から武器が離れた感触があった。
老人に抱き付くように衝突し、硝子片の床を転げ、縺れながら滑る。
両者傷だらけになりながら廊下の中ほどで止まる。すかさず顔を上げたアルクゥは傍の尖った硝子を握り締め魔力を込め振り下ろした。そうしなくとも、老人は絶命していた。胸には確りと短剣が突き刺さっている。
息つく暇も痛みにのたうつ暇もなく間近に足音を聞く。
思ったよりも近くに敵が迫っている。五人。あの事態に呆けず即座に判断を下せるのは有能極まりないが、アルクゥにとっては致命的であった。
一人を魔力の刃で仕留めたところで四人が肉薄した。それよりも速く、彼らの背後から白煙を上げる氷の粒が雪崩れてくる。パルマがアルクゥを助ける為にゴーレムを崩したのだ。瞬く間に軍人らは呑みこまれ、アルクゥもまた廊下の端まで押し流される。
だがそれも事態を僅かに引き延ばしただけに過ぎない。アルクゥを巻き込む前提がある以上、雪崩に殺傷力は皆無であった。
呻いて立ち上がり幽世に逃げようとするアルクゥと、水気混じりの重たい氷を払い剣を振り上げて走り寄る軍人と、どちらが速いか。
――間に合わない。
咄嗟に左腕を前に出すが、あの勢いでは腕ごとアルクゥの頭を割るだろう。
死の自覚と共に全ての動きが引き延ばされて目に映った。剣の煌めきや敵の表情、その顔に刻まれた歴戦の傷一つ一つまでもが見て取れる。
終わりが来る。
師のように迎え入れることもなく、唐突にそれはやって来る。
「まだ、嫌だ」
願いを一言。そして叶えられる。
殺戮者の喉元に銀の線が走った。




