第八十三話 急転
侯爵との会見から数日、約束の通りアルクゥに侯爵の息子であるシャレゼルという話相手が与えられた。
配色こそ侯爵と瓜二つの男だが、容姿は厳格さの欠片もなく端麗であり、その雰囲気も父親のそれとは似ても似つかない。アルクゥを連れて来た張本人であることを忘却したがごとく、まるで友人に対するような態度で接してくるものだから仰天する。
「やあ、元気?」
挨拶でもなく名乗るでもなく、開口一番がそれだ。貴族の存在が平民と均されつつあるような世の中ではあるが、格式高い大貴族の子息が軽薄な若者のような言動や立ち振る舞いをするとは思ってもみなかった。
こちらを測る演技だろうか、いやしかしと自問を続けながら、持参した菓子を摘み延々と雑談するシャレゼルにどうにかマニの無事を聞きだす頃には、アルクゥはすっかり疲れて会話を放棄した。
――今日で九日目か。
拘束を解こうとして施行錯誤思に消費した一日以外は、状況に気を揉みながら与えられた本を読むだけの日々だ。協力を強要しにくることも覚悟の内に入れていたが今のところ何の音沙汰もない。情報が閉ざされているので外がどうなっているかも分からない。
何かを考える度に腹の底に気鬱が溜まっていく。
心すらも思考の鎖に絡まり、自由になれるのは寝るときくらいだが、眠れば悪夢が両腕を広げて待っている。
アルクゥはふと意識を戻してシャレゼルに焦点を合わせる。いつの間にか黙ってこちらを見詰めていた。アルクゥが気付いたことに気付くと、濃い赤毛を手先で弄びながら人目を惹く微笑を浮かべる。
「退屈させないようにって父さんに言われて来たんだけどなあ。普通の女の子とはやっぱ違うか。だったら、こういう話はどうかなあ」
シャレゼルは綺麗な人差指をピンと立てた。
「ここから西の小さな町に、とある幼い男の子がいました。鉱夫で力自慢の父親と料理上手な母親に沢山の愛情を注がれ、貧しいながらも幸せいっぱいに暮らしていました」
「童話ですか」
急に始まった空々しい語り口に思わず口を挟む。
「いいや、実話だよ? ……ある冬の日、雪がとても積もった日。いつものように出かけて行った父親が大切な道具を忘れていったことに男の子は気が付きました。これは大変と男の子は頬を真っ赤にし、白く息を切らせ、小さな体を弾ませて父親を追いかけました。やった、大きくて暖かい背中が見えてきた。男の子は道具を手渡した後の褒められる自分を想像し、笑みをこぼしながらその背中に抱きつきました」
ここまでは心温まる話だが。アルクゥは眉間の皺を消さないまま話の続きを聞く。
「父親の背中はいつも通り暖かかった。けれどどこかおかしいのです。驚いて振り返り、そして笑顔を見せてくれるはずの父親は動かない。首を傾げて前に回った男の子は、赤く削げ落ちた父親の顔を見上げました」
シャレゼルは笑んだまま続ける。
「男の子はふと胸辺りが動いているのに気付きました。黒っぽくて触ると気持ちよさそうな毛玉でした。動くたびにゴリ、ゴリとこもった鈍い音がします。どれほど見詰めていたでしょうか。それはゆっくりと胸に埋まっていき、そして」
「――悪趣味なお話ですね」
「現実はそう言うものさ」
胸糞が悪い。
本当の話だということも、それをアルクゥに聞かせたということも。
幼子を襲った不幸は哀れに思うが、たったそれだけで北領に協力などしない。しかし確実に心には居心地の悪さが残るのだ。
「廃域から魔物が溢れて来たときの話。その子は生き残ったよ。間一髪、嵐の英雄がかけつけてね。町で唯一の生き残りさ。でもまあ、結局後で魔物に殺されてしまったらしいけど。お父さんが手を振ってる、って夜の森に走っていっちゃったんだって。狂っちゃったんだろうねえ」
「何が言いたいのか分かりかねます」
「俺らは充分な備えができない。制限されているからねえ。何をするにしても一々国の許可がいる。許可が下りても金がない。今回の決起はまあそう言うことだって知って欲しかったんだよ。だってさあ」
シャレゼルは肩を竦める。
「葬式のような顔して自分だけが不幸って感じじゃないか。キミがここにいることで救われるものもあるんだからさあ。それに、いざという時のためにもっと英雄らしい顔してくれないと」
「協力はしません」
「英雄って言ってもその程度だよねえ。大丈夫大丈夫、わかってるからさ。人間、自分が一番だって」
そうは言いながらもシャレゼルの目には苛立ちがあった。
否、憎まれたか。
予感は概ね正しく、毎日のように訪れるシャレゼルは折に触れてアルクゥの心を摩耗させていく。
始めは必ず他愛ない雑談からだ。ふと気を逸らした瞬間に、目の前にいた軽薄な男は陰湿な眼差しの蛇へと変わる。
「冷静なもんだねえ。俺らが失敗すればキミも死んじゃうんだよ」
「知っています」
「ふうん。大したもんだ。ああ、そうか。聖人だから死後は約束されてるんだ。うらやましいなあ」
「べつに」
「あっもしかして誰か助けにきてくれるとか思ってんの? それか自分だけ酌量があるとか。どっちもないよ。キミを助ける人間なんていないし、いたとしても利用するだけだって。酌量だってされないよ。だって生かしておけば面倒を起こすだけだし。俺が王さまだったらまず王都から出さなかったね」
四日も続けば悪意には慣れたつもりだったが、夜中に訳もなく目が覚めてとてつもない恐怖を感じる発作が頻繁に起こるようになっていた。寝不足で痛む頭に手を添えていると見張りに立つ女使用人が「体調がよろしくないのですか」と平坦に、しかし目を気遣わしげに歪めて聞く。
「お眠りになれないのであれば薬を貰ってきますが」
「結構です」
「しかし」
言い募りかけて女は口を閉ざし無表情に戻る。直後、扉が開き今日もまたシャレゼルが訪れた。なぜか今日は正装をしている。もはや上辺の歓迎の言葉すら言わないアルクゥを意にも介さず、ずかずかと部屋に入ってきた。
「キミに会いたいと言う人がいてさあ。デネブから借りた魔術師だから無碍にできないんだけど、英雄に会わせろってうるさくって。知り合いだって言ってる。名前はええっと、パルマっていったかな。心当たりある?」
「さあ、そのような名前の知り合いは……」
「泣き黒子で色白の美人だけど」
アルクゥは一瞬考え込み、思い当たる。
「一応は、知人です。顔だけは知っています」
「どんな関係?」
「あまり良くはありませんね。険悪と言ってもいいでしょう」
とは言ったがアルクゥは微かに希望を持っていた。敵だとしても話は通じる。今外がどういう状況か聞けるかもしれない。
疑うように目を細めていたシャレゼルだがすぐに退室する。それから数時間後、あの色白の、パルマという名前らしい女魔術師を伴って戻ってきた。
「感動の再会で悪いけど二人きりでは」
シャレゼルが言い終わる前、アルクゥが何かを言うよりも先んじてパルマは動く。
大股で部屋を横切ってアルクゥに近付き――振り上げた白い手をアルクゥの頬に強かに打ちつけた。
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椅子から落ちたアルクゥは熱い左頬を押さえる。まるで火がついたかのようだ。
思考は鈍麻している。監禁という状態に連日行われるシャレゼルの嫌がらせ、不十分な睡眠の挙句に突然の暴力だ。ストレスを飽和させた精神が現状を逃避していた。
床に滴る鼻血をぼうと眺め、ふと気付いて血を拭う。頭の上ではシャレゼルとパルマが緊張感を孕んだやり取りを交わしており、アルクゥが耳を傾ける気になった頃には話が終わった後だった。
パルマが目前に立つ。また殴られるのかと目を細めるが、パルマにその気はないようで、血が滲んだ手で空気を払う動作をし魔術を展開した。外部の音は遮断され、内部の音は一分たりとも漏れずに反響する薄青の障壁がアルクゥとパルマを包みこむ。
シャレゼルを締め出したのはどのような意図があるのか。アルクゥには分からないが、何があろうと耐え忍ぶしかないことは知っている。
「酷い顔」
そうした張本人は感情を感じさせない静かな語調で呟いてから、
「貴女に頼みたいことがあるの。――私の師匠を、救ってちょうだい」
罵声か嘲笑かと身を硬くしていたアルクゥは顔を上げるまでに数秒を要した。
間近で見上げたパルマは以前死霊憑きになってきた時よりもやつれて血色が悪い。最初の一言は自分自身に向けて発した言葉だったのかもしれないと思わせるほどに。
アルクゥは熱が冷めない頬を撫でる。
頼み事の為に、シャレゼルの眼を欺く為に殴ったのか。
――誰も彼も勝手だ。
利用し利用されることが人の有様としてもあんまりではないか。沸々と怒りが込み上げてくる。
「誰を……救えと?」
それでも、煮えたぎる感情を暴発させないでいられたのは師匠という存在の重みを理解していたからだ。
唇の隙間から掠れた声を出すと、パルマは緊張をほぐす様に一度深呼吸してから言った。
「ヒルデガルドよ。デネブの統治者」
「何から」
「そんなことっ……貴女にはわかっているのでしょう?」
ガルドに弟子がいること以上に、敵が何者かを把握しないで他人に任せようとするパルマにも驚きだ。いや、魔術師の常識からも外れた敵であることを考慮に入れるなら、むしろ偽物だと気付いたことを賞賛すべきか。
「時間がないのよ。答えて。救えるのか、そうでないのか。貴女が無理なら他にどうしようもないのよ」
「どうして私だけだと思ったのですか」
「貴女のお友達が、一度私に騙されたくせにわざわざご忠告してくれたのよ。幽世とかいうお伽噺の世界の現象だから、慣れた貴女でなければ駄目だって……! そんな、見えも触れられもしない問題をどうしろというのよ!」
パルマは髪を掻き毟る。
忠告した本人こそ幽世に干渉できる人間だと露とも疑っていないようだ。これはマニの嘘だ。とは言えマニが思い付くとは考えられないのでヴァルフか誰かの入れ知恵だろう。
アルクゥは瞑目する。誰かが自分を助けようとして動いてくれている。聞けたことが何よりも救いだった。運んできたのは目の前で落涙する魔女の弟子だ。ゆえに、誠実な答えを返す。
アルクゥはしばしの間、思考の海に沈む。
ヒルデガルドを救うことは可能か不可能か。
何を救うかによって結果は変わる。もう無いものはどうしようもないからだ。ガルドの命がまだあの体に宿っているか否か。確認のしようはない。
ガルドの身体に重なるように存在していたものを記憶の中で観察する。
化物。汚らわしい寄生虫。思い出すだけで怒りとも憎しみともつかない激情が腹の底で渦を巻く。あれは消さねばならないものだ。前にベルティオが使役していた粘体に同種の感情を持ったが、今回は比にならないほど強い。
瞼を上げるとその一瞬、監禁部屋が幽世と重なって光を帯びる。瞬いて別世界の風景を消し去りパルマを真っ直ぐ見詰める。パルマは奇妙なものを見る目で一歩下がった。
「貴女、目が」
「命を救えるかはわかりません。ガルドさん本体が生きているかわからないからです。生きていたとしても操る者を殺せばどうなるかわからない」
王宮での例からすると媒体共々消え去る運命ではあるが。今回は前回媒体となっていた不定形で知性のない粘体とは違う。高等な知性を持ち、しっかりした体がある。どういう目が出るかは殺してみない限りわからない博打だ。
唇を噛むパルマに続ける。
「けれど、潜む者を取り除くことはできます。尊厳を救うことはできる」
それが答えだとパルマの反応を待つ。唇を震わせたパルマの顔は憔悴したものから悲壮な決意の表情へと変化した。
「安請け合いされるよりも、信用できる言葉だわ。対価は貴女が考えておいてちょうだい。私にできることなら何でも……命でも何でも、あげるから。叩いて悪かったわね。色々と話してあげたかったけれど、そろそろ時間みたい」
早口で述べたパルマは片手を挙げて魔術を解除しようとし、ふと付け加える。
「見返りなく貴女を助けようとする酔狂な人間は意外にも多いのよ。もちろんそうでない人もいるけれどね。大人しく待ちなさい。あとその辛気臭い顔は不運を呼ぶからやめなさい」
術式を消し去り踵を返す。振り返ることもなく颯爽と部屋を去り、シャレゼルが慌てて跡を追って消えた。
邪魔者はいなくなったとばかりに使用人が応援を呼び、アルクゥは仰々しい治療を受ける。
大人しく待て。
パルマの言葉を反芻して少しだけ口の端を上げてみる。痛みに顰め面をすることになったが、気分はそれほど悪くない。
その夜、誘われるままに睡魔の手を取ったアルクゥは、悪夢に魘されることなく朝を迎えた。
未だ顔には不安と疲労の影がある。しかし新鮮な風が暗雲を吹き払ったかのように気分は清涼としている。身だしなみを整え、用意された朝食を食べると一層顕著になる。どうせ暇なのだからと開き直り、今まで眺めるだけだった本に集中すると瞬く間に昼食の時間だった。残さず食べ終えて再び読書を始めようとすると、使用人が怪訝な眼差しを向けてくる。昨日以前と比べての変化に気でも狂ったのか本気で疑っている顔だった。
扉の開く音に一瞬遅れて顔を上げる。連日、決まって昼食後に訪れるシャレゼルを律儀だと思いながら手元に目を戻すと、しばしの後に不機嫌極まりない声が降ってきた。
「英雄様は今日は随分とご機嫌なようだ。昨日彼女を泣かせたことで、そんなに胸がすいたのかな。性格の悪い女だよねえ」
一度視線を遣って無視する。
シャレゼルはアルクゥが弱っていくのを楽しんでいるのだ。付き合う義理はない。
「無視かあ。こっちは善意で話相手になってあげているのにそれは酷いんじゃない? 使用人たちは最低限の言葉しか交わしてくれないだろう? このままずうっと口を閉じてて醜く弛んだ顔になったら価値が半減するじゃないか。そうだ。何なら体の運動も手伝ってあげようか。犬のように鎖に繋がれているから鈍っているだろうしねえ」
「……」
「そうそう、裸で繋がれないだけましだと思ってくれよ。父さんもキミのこと猛獣みたいだって言っていた。何をしたか知らないけど野蛮なんだねえ。親の顔が見てみたいよ。ああもしかして食い殺した後だったりする? 万が一生きているんなら一度会っておかないとねえ。飼い主として挨拶しておかないと」
「……」
「そうだ、キミは魔術師だから師匠もいるんだよねえ。ラジエルに通っていた情報はなかったし、神聖な学び舎に獣臭い女がいても困るだろうしね。師匠は女? それとも男かな。キミを弟子に取るくらいだからさぞかし下劣な人間なんだろうなあ。もしかして体の関係があったり――」
本が手から離れ、堅い背表紙がシャレゼルの鼻を潰すのを確認して別の一冊を開いた。怒りで指が震えて上手くページを捲れない。深呼吸を繰り返して平静を取り戻したときには、シャレゼルは血痕だけ残して消えていた。
二度と来ないという予想に反し、翌日も鼻に包帯を巻いたシャレゼルは部屋を訪問する。その態度は初対面時の愛想の良いものへと戻っており、暴力に関しては何の咎めもなく、本人は何の禍根もない様子でアルクゥに接してくる。しかし瞳は常に薄ら寒い。空々しい日常会話を紡ぐ口が執念深く獲物を狙う蛇の顎に見えてならず、いつ驟雨のような威嚇音を発して噛み付いて来てもおかしくないようにアルクゥには思えた。
ともあれ、監禁生活の心労が減ったのは喜ばしいことだ。警戒をしつつ、アルクゥはひたすらパルマの言う通り大人しく何かを待ち続けた。
そして唐突に訪れる。
監禁されて三十三日目。鉄格子の隙間から見上げた空は雲一つなく、故郷の海を連想させる青を湛えている。
階下が騒がしいと思ったのが最初だった。後ろ暗いことに使用する前提の建物だからか、人の気配が乏しいせいで喧騒は無遠慮に響いてくる。横目で見張りの使用人を観察する。無表情だが彼女も階下が気になるのか、扉の方をじっと見ている。その思いが通じたかのように扉が開いた。見知った使用人はアルクゥには目もくれず、青褪めながら見張りに耳打ちする。すると見張りの彼女もまた血相を変えて二人連なり足早に部屋を出て行った。
一人残されたアルクゥは逃亡の機会かと椅子を鎖に叩き付ける。当然、千切れるはずもない。溜息を吐き椅子に座りなおして目を瞑り耳を澄ませていると、近付いてきた乱暴な足音が部屋の前で止まった。目を開くと同時にシャレゼルが飛び込むようにして入ってきた。
尋常でない怒りの形相を見てアルクゥは立ち上がり身構える。手探りで凶器になり得るものを探す間もなく、シャレゼルはアルクゥの胸倉を掴み上げて、息がかかる距離に勢い良く引き寄せた。爪先が床を離れそうになる。
「よくも……卑劣な手を……使ってくれたな。よくも……!」
背筋が凍るような殺意を滾らせた目を見て、アルクゥはこのままでは殺されると確信して滅茶苦茶に暴れる。抵抗空しく、喉元を加減なく握られて一瞬意識が暗くなる。
魔力が使えなければこんなものか。
自嘲気味に気を失いかけたときだった。轟音と共に首を絞める手が消えアルクゥは解放される。
咳き込みながら顔を上げる。
部屋に白煙が充満している。火によるものではない。煙自体が凍えるような冷たさだ。
煙が充分に薄まると朧気ながら何が起こったのか把握した。左の壁に空いた大穴から突き出た巨大な氷の手がシャレゼルを押さえ付けている。
穴から顔を覗かせたのはパルマだった。シャレゼルの気絶を確認すると瓦礫を乗り越えて入ってくる。どうしてここにいるのかという疑問を察したのか、パルマはふんと鼻を鳴らした。
「ずっとこの屋敷にいたわ。貴女の見張りって名目だけれど、四つ隣の客室で見張り付きってふざけているにも程があるわ。今回のことで部屋からも出してもらえなくなったから壁をぶち抜いたのよ。間に合って良かった。そこの馬鹿に術式張り付けておいた苦労が報われたというものよね。でも」
続きは扉の開閉音で途切れる。
二人して視線を向けた先には使用人一人だけを供にした侯爵が悠然と佇んでいた。




