第八十二話 欺瞞の白い手
侯爵は監禁した英雄との対面した後、即座に根城とする本邸へと引き返す。
即座にとは言え監禁場所として設えた別邸は本邸からはかなりの距離がある。空路を行けば早いが夕闇が迫った北領の空は無法地帯だ。高層を飛ぶ上位種の竜が気まぐれに降りて狩りをすることもある。夜半、竜が雲間に吐き出した火球で夜明けが来たと勘違いし、家の外に出て魔物に食い殺されるという事件も起こっていた。
侯爵は魔物が牽く車で地を行く。
長時間悪路に揺れる車内は座っているだけでも一苦労だ。そんな最悪な環境の中でも仕事は休みを許してはくれない。侯爵は足を突っ張りながら膨大な報告に目を通す。
刻々と動く状況の把握に先々の予想と対策を考える。瞬きの時間すら惜しい。企みが失敗して死ぬよりも先に仕事に殺されるかもしれないという有様だ。
乾燥した目が針で刺されたように痛み始め、ようやく一息吐く。気付けば悪路は終わり整備された道に入っていたようで、体に悪い揺れは収まっていた。
侯爵は外の景色を窺い帰宅時間の算出をして再び仕事を始めようとする。書類に目を落としたときこめかみが重く痛みを訴えて思わず手を止めた。
大きく溜息を吐いて目を閉じる。瞼の裏で暗闇がぐるぐると回っている。
――大公の直系として押し立てられたはいいが。
よもやこのような形で起つことになろうとは。
別段不満はない。公国再建は若い時分に夢想していたことだ。しかし。
侯爵は目を閉じたまま両の拳を強く握る。もう痛いほどに握ることはできない。そのことに老いを感じる。
熱意だけで走れた季節はとうに終わっているのだ。
「三割、か。嘘を言ってしまったな」
あの娘には三割と嘯いたが実際の成功率はそれ以下、更には独立に全てを賭けるつもりもない。
半分は本意が別にあることを隠す為の嘘そしてもう半分は、見栄だ。
己にもまだ見栄を張るような可愛げがあったらしい。侯爵は滅多にない本心からの笑みを滲ませ、それは風に吹かれた砂山の如く消える。
(独立は果たせなくとも良い……)
叶えば僥倖、本当の狙いは妥協点に落ち着くことだ。
最低限、採掘権の奪還とグガランナの抑え込みに対する援助の増強を確約させれば勝ちだと思っている。その後に自分が処刑されたとしても勝ちは勝ちなのである。
これはギリギリまで公表するつもりはない。老臣共や支持者たちに露見しても、あの小心共が寄越すのは罵倒か嫌味くらいだが、戦争を唆す者は違うだろう。
自分と成り代わるかもしれない。デネブの魔女にしたように。
顎を撫でて思考に沈んでいた侯爵は、車の扉が開いたことで本邸への到着に気付く。
執務室へと直行し、コートを脱いで椅子に体を沈めるとようやく人心地ついた気分だった。
帰宅を嗅ぎ付けた側近がノックも無しに入り込み口頭で報告を始める。それを聞きながら今のところは予想通りの展開だと頷いた矢先に側近は言葉を澱ませた。
「どうした」
「デネブの援助なんですが、またです」
侯爵は額に手を当てる。
デネブは資金援助を惜しむ癖して、執拗に兵器を貸し出そうとしてくる。曰く、効果を見たいとのことだが、調べされたところによると量産が利かない一点ものが多いらしい。金儲けには利率が悪い。それに魔力武器製造に関しては王都の強い監視がある。デネブは特に見張られている。
ならば別のどこかで作られたものか。
「丁重に返却しろ。装備は間に合っているとな。それと、北領外にいる支援者の動きに注意を払っておくよう各方面に伝えておいてくれ」
「搦め手ですか」
「交渉の場を北領としてもすんなりのんだ。引き延ばして何かする目論見だろう」
承知しました、と側近も侯爵同様難しい表情をして退室する。
侯爵は眉間の皺を指で揉み解す。
――偽の魔女は戦争を煽っている。
武器は一例に過ぎない。だがしかし、魔導都市を乗っ取って戦争を起こして、一体なんの益があるというのだろうか。たしかに戦争が起これば経済は回るが、今回は内戦だ。懐が痛む可能性が大きい。戦いを煽らずとも大人しくデネブに居座るだけで莫大な金が入ってくるだろうに。
怨恨か、それ以外の目的か。
「わからんな。魔術師共は、何がしたい?」
呟きはひっそりと執務室に溶けていく。
乱れる国内を見渡せばそれは邪教が跳梁していた時代と重なる。あの時は異変が起これば全て邪教の仕業と言われ、実際彼らの所業であることがほとんどだった。竜が都市を闊歩する、人狼の巣と化した街、人を使った合成獣。奴らに掛かれば人間の人格を変えるなど容易いことではなかろうか。
この独立がどう転んだとしても北領にとって奴らは憂いとなるだろう。
「誰か」
しばし考えを巡らせて侯爵は人を呼ぶ。
数ヶ月前に雇い入れた平凡な顔立ちの使用人が室内の護衛にやや怯えた風に入ってくる。ふと気を向ければ調度品を整えていたり掃除をしていたりする、存在感の薄い影のような男だが、身元と働き振りは確かなので重宝していた。
「一人、誰でも良い。魔術師を呼んで来てくれ。秘匿術式を作ってもらいたい」
「承知いたしました」
「ああ、それと」
踵を返しかけた使用人の男にもう一つ用事を言いつける。
「息子に英雄殿の話相手になるよう伝えておいてくれ」
「はあ、英雄様でございますか」
「その時まで待機してくださっているが、英雄とはいえ退屈には勝てないだろうからな」
「ではご子息様にはそのように。それで、英雄様はどちらに?」
邪念のない笑みで使用人は尋ねる。
侯爵は少し罪悪感を覚える。監禁を知る部下は一握りだ。兵士や使用人は英雄がどこかの別邸で歓待を受けているものと思っているのだろう。その英雄が協力はおろか事の首謀者を人質にして逃げようとしたと知れば、離反する者すら現れるに違いなかった。
「すまないが、彼女の居場所は秘密だ。何分、人気者なのですぐ人に群がられてしまう。彼女は、騒がしいところは好きではないからね」
「さようでございますか」
使用人は微かに残念そうな表情を浮かべたが、すぐに本分を取り戻して完璧な礼をして退室する。その瞬間、侯爵は使用人に向ける鷹揚な笑みを消して来たる交渉の場に向けて思索を開始する。
++++++++++
突然の北領の独立宣言に王宮は蜂の巣を突いたようであった。
上へ下への大騒ぎの中で緊急招集された重臣らは、会議室の椅子の一つに我が物顔で座っている聖職者を見てギョッと目を剥く。罪を被せ不満の捌け口として他でもない自分たちが国政から弾き出したはずの白い男は、笑みの失せた無表情で組んだ両手を見つめている。
これはいったいどういうことだと目を見交わすが誰も答えを所持していない。相も変わらず大量の冷や汗を流しながら、外相オットーに付き添われた陛下が会議室にお出ましになる。裏返った声によって会議は不穏な火蓋を落とした。
有事に際した普段であれば、我の強い官共が案を出し合い、ときには己の利益を鑑みて遠慮なく発言を呈する場であるが、サタナという存在のイレギュラーが会議の進行を完全に止めている。
皆、恐ろしいのだ。二度と目の前に現れることはあるまいと考えていただけに。
この場にいる者は殆どが先王に仕えていた臣であり、現国王陛下の不利を知りながらも味方に付いた腹心である。凡愚とも言える王に賭けた者たちだ。命の心配など今更だろう。
なのに誰も声を出そうとはしない。サタナの薄い琥珀色の視線が己に向くことを恐れて沈黙しているのだ。
サタナは、重臣らの目からすれば突如として王の傍に現れたように見えた。
国王直々に政務補佐を任じたときは絶望したものだ。やはり教会権力に屈したのかと。
しかし初めのひと月で違和感に気付き、ふた月目には心底味方なのだと認めざるを得なかった。認めてしまえばその若くて有能な補佐が国王との対比で酷く頼もしくみえたものだ。見目もよく、本人も悪目立ちするように立ち振る舞っていたようだ。
それはとても良い盾だった。
重臣たちはその後ろに隠れて動きやすくなった。それでも軍部と教会という巨大権力との差は埋まらない。憂いの芽を摘めないのは口惜しいが、現状を維持するだけで精一杯というときに、今度はサタナが新しい顔を連れてきた。
英雄という大層な称号を持った小娘。
そこからだ、と重臣の一人は回想する。頼りにしていた若者が恐ろしいものなのではないかと疑い始めたのは。
謎の死を遂げていく邪魔者たち、英雄が来た同時期に起こった厄という魔物の事件。問い詰めてもサタナは笑うだけ。その笑みの奥は虚ろで何を考えているかわからない。
教会の象徴たる石の聖女の怪我、軍部のクーデター鎮圧という急転を経て、瞬く間に権力抗争は終幕を迎える。その幕間に展開された血の惨劇は、サタナを消し去るのには絶好の機会だった。
あの若い青年は出過ぎた鋭い杭だった。誰も恐ろしくて打てなどしない。勢いに任せて抜いてしまうほかなかったのだ。
「――なぜ司祭殿がこの場におられるのか、まず当人の口から説明していただきましょう」
外相オットーが口火を切り、何人かがはっと息を詰めた音が会議室に響く。
この場に出席を許されているということは即ち国王の許可があってのことなのだろうが、許可を出した最高権力者はおどおどと視線を彷徨わせるだけで何も言わない。オットーもそれを分かったが上で直接サタナに尋ねたのだろう。
それを受けてサタナは立ち上がる。外見に反して武骨な軍人らしい挙動だった。
サタナはお座成りにこの場への出席を許可した国王への感謝と、罪に追われた自分が神聖な会議を汚すことを詫びる。そして。
「私がこの場に馳せ参じましたのは北領の問題についてお願いしたいことがあるからです。国王陛下、よろしいでしょうか」
「言ってみろ」
慣れない言葉遣いにつっかえながら国王は先を促す。サタナは微かに口元を和ませてから、
「私に問題解決の全権を委任していただきたい」
馬鹿な、とざわめきが起こった。
ただでさえ慎重にならざるを得ない問題を厄介者に任せるなどありえない。先程の沈黙が嘘であるかのように口々に否定を吐き出す重臣らを、珍しくも国王が制した。
「勝算があってのことか」
「はい」
「ならばよい。任せた」
いかにも示し合わせた風情の台詞に会議は紛糾した。
小刻みに震えながら冷や汗を流し続ける国王はまたも怒声を収める。
「この通り、お前に権を与えることに不安を持つ者が多くいる。後の不和に繋がるかもしれぬ。ゆえに、サタナキア司祭には真名と血を以て誓約をしてもらおうと思う。異議のあるものは?」
その沈黙を落ち着きなく見回した国王は「王宮魔術師に準備させよ」と命じる。
何を企んでいる、と誰かがサタナに問う。サタナは薄らと笑い「単純明快な悪だくみですよ」と目を歪めた。
++++++++++
尖塔の最上階から睥睨する景色は素晴らしい。
女は思う。死霊を扱うというだけでいつも疎んじられていた。そんな自分が掴んだ景色と権力は優越感と自尊心、そして際限なく沸き起こる支配欲をたっぷりとした甘い水で満たす。力とは素晴らしい。幽世とは素晴らしいものだ。
素晴らしい。
そのはずだったのに。
「あ、あ、あああああああ……!」
美しい光の世界が体を苛む。流動するごとに削れていく自我は、依り代とした魔女の存在を喰っても喰っても消失に追いつかない。
己は人を超えたのではなかったのか。
誰よりも先に全知を得る特権を得たのではなかったのか。
「あのっ小娘がァあ……」
汚らわしい血を吐き掛けられた。あれが毒だったに違いない。あの生意気で思い上がった英雄気取りの小娘さえいなければ、こんな苦痛はなかったものを。人を支配する神のごとき力も気配が希薄だ。
憎い、憎い、憎い――怖ろしい。
頭を抱える。記憶の中にある、こちらに向かって吠える娘の顔が死神に思えてくる。
あれは人外だ。あれこそが、人ではないものだ。
そんな考えがいくたびも頭をもたげる。その度に斬首するように切り捨てなければならなかった。
ぶるぶると震える拳を握る。自分のそれとは違い、依り代の手は美しい。
大丈夫だ。恐れる必要はない。あの小娘は北に売り飛ばした。仲間の、否、仲間であった女装男が小うるさく喚いていたが、その金とデネブに溢れる技術を流せば口を閉じるだろう。それに魔女の弟子とかいう色白の女を見張りに遣っている。アレの忠義は依り代としている魔女にある。犬のように命令を遂行するだろう。
「ガルド様、よろしいでしょうか?」
ノックの音に抱えていた頭を上げ、苦労しながら依り代らしい笑みを浮かべて迎え入れる。
「どうかしたのかい?」
「国府が説明を求めてきておりますが、どうされますか」
「宣言した通りだと言っておくれよ。あれ以上、ワタシが言うことは何もない」
以前はこう言うだけで何もかも察したように下がったのに、今日に限って職員の女は眉をひそめた。
「それが……議員の一部が北領への協力を撤回して釈明すべきだと」
「それは困ったな。でもこれが一番デネブのためになることなのだよ。キミもわかるだろう?」
言い聞かせるようにするとやっと職員は下がった。
舌打ちして絶え間なく押し寄せる自我拡散の感覚に歯を食いしばる。今すぐこの腹癒せに反感を持つ議員とやらを殺してやりたいが、小娘の同類である小僧の死体は見つかっていない。あれが生きているのなら迂闊に動けない。それがまた忌々しい。
まあ、いい。
一時的に力が弱まってはいるが、ここに君臨してさえいれば人は従うのだ。沸々と欲が満たされていくのが分かり笑みを浮かべる。ふと正常な理性が、なぜ議員共に付けていた繰り糸がなくなっているのか、どうして職員共の目に猜疑が宿り始めたのかを疑問に思うが、すぐに幽世の光に覆い隠されてしまう。
断罪者の足音に気付くことなく、人間を捨てた死霊術師は苦痛と恍惚を繰り返す。
あけましておめでとうございます。




