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精霊のシジル  作者: 染料
五章
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第七十九話 聖職者の失敗


 恐ろしい速さで走り抜くケルピーの背にしがみ付く。

 僅かな震動さえ感じさせない滑らかな疾走ではあるが頬を嬲る風は誤魔化しがきかない。微かにでも瞼を上げれば容赦なく目に吹き込み眼球が涙で濁る。

 後半はほとんど目を閉じていたがケルピーは正しくアルクゥを拠点にまで送り届けた。風の終わりを待って左目を開けたアルクゥは、拠点の窓から漏れる明かりを見て目を丸くさせる。

 ヴァルフが帰っているのか。

 急速に気が抜けた部分に安堵が満たされ、大事に捉えた自分の勘違いが気恥ずかしくなり意味もなくケルピーに頭を凭せかける。きっとマニも一緒だろう。

 何事もなければそれでいい。二人が何をしていたかは尋ねまい。これ以上困らせてはいけない。顔を見たらメイに謝罪しに戻らなくては。好意で居場所を提供してくれた人間に対して酷い無礼を働いてしまった。

 目を保護しようと躍起になって流れる涙が止まるのを待ってから結界の中に入る。

 アルクゥが鍵を取り出すよりも先に扉の方から開いた。ヴァルフ、と開きかけた口はそのまま固まる。現れたのはサタナだった。

 両者は数秒間見つめ合う。咄嗟に口を突く言葉すらない。無言は目前の人間が互いにとって想定外だと雄弁に告げている。

 やがて瞬きを怠ったアルクゥの目から大粒の涙が零れる。

 それを見て能弁を武器の一つとする男は身動ぎ、薄く口を開いたが、身構えても流暢な皮肉は出てこなかった。


「それで」


 頬の水跡を乱暴に拭いながらアルクゥは機先を制す。

 なぜここにいるのか。そう尋ねる充分な一言だろうと斜に構えて発した言葉は、予期せぬ情報を引き出すことになる。


「ヴァルフはいません。二日前から我々との接触を絶っています。連絡を取りたいのなら……」


 アルクゥが目を見開くのを見てサタナは質問の読み違えに気付いたようだった。口に手を当て眉を寄せる。アルクゥがある程度の情報を得た上でここにいると早合点したのだろう。珍しいこともあるものだ。相手の手札の確認を怠るような切迫した状況にでもあるのだろうか。

 だが失言を聞き逃してやるような優しさはアルクゥにはない。


「ヴァルフに何があったのですか。マニも二日前から帰ってこないのです。何か関係が……あるのですか」

 

 向けられた視線の冷たさに詰まりかけた言葉を意地でも押し出す。僅かに痛みを訴える火照って熱い目頭から再び涙が落ちる。それを哀れに思ったのか、抑え付けるようだった眼差しは気後れした様子で横へと逸れた。


「まだ治っていないのでしょう。特に左目は右より傷が深かった。視力を捨てる気がないのであれば今すぐ包帯を巻き直しなさい」


 話す気はない、と。

 頑なな態度をそう解釈したアルクゥはサタナから視線を外さずに注意深く下がる。反対に真後ろにいたケルピーはアルクゥを庇い前に出る。別口に情報を求める意思を読み取ってケルピーは後ろ足を下げ早く乗るようにと嘶いた。

 深い緑色の鬣を支えに掴み背に乗ることに意識を向けたとき頭の中に警告が響く。

 右、と顔を動かし死角を潰す。音もなく距離を詰めアルクゥを捕まえようとする腕は、ケルピーが大きく首を逸らして阻んだことで退いた。悟られまいとして魔力を使わず動いたことが仇になったのだろう。素の身体能力ではケルピーの方が速かったのだ。

 驚いて鬣を放すと、ケルピーは猛然と立ち上がりサタナを威嚇する。サタナは微かに顎を上げてケルピーに目を細め魔術の気配を漂わせる。アルクゥは今にも突進していきそうなケルピーを下がらせた。


「良い馬ですね。貴女によく仕えている」

「口より先に手が出るなんて貴方にしては珍しい」

「私の言葉は貴女に届かないでしょうから」


 決めつけられる謂われはない。眉を寄せて不快を示すと、サタナはどういう意味なのか首を振り折衷案を持ちかけてきた。


「知りたいことを教えましょう。貴女が我々の保護下に入ることが条件です」

「保護……協力ではなく?」

「貴女は何もしなくていい」


 アルクゥはサタナの考えを覗くように慎重に上目で窺う。

 結界には綻びがない。サタナはヴァルフが正式に招いた客人だ。協力関係にあると推測するのは容易い。

 優秀な魔術師や魔眼がありながらも、ヴァルフがマニを呼ばなければならなかった理由は、分かり切ったことだ。

 盲いたアルクゥではなくマニが呼ばれた。見えぬものを見ろ、そういうことに違いない。霧の事件からして大いにキナ臭かったのだ。例えば、王宮襲撃時のような幽世と現世の二重世界に住まう化物がいても何ら不思議ではない。

 しかし、それならば。尚更自分は有用じゃないかとアルクゥは左目を瞬かせる。サタナからすればアルクゥは保護する荷物ではなく使える道具になり得る。

 そのことを踏まえて今度はアルクゥから提案する。


「マニがしていることを、私にもやらせてください」

「聞き分けのない人ですね。貴女は必要ありません」

「そうですか」


 僅かにでも考えを変えない姿勢には期待できそうにない。それならやはり他をあてにした方が時間は無駄にならないだろうと見切りをつけてケルピーの背に手を伸ばす。サタナは内に燻る苛立ちを隠すような声でアルクゥを引き留めた。


「――待ちなさい。どうしてそうやって貴女は……」


 耳を傾けても後に続く言葉はなく、ただ小さな嘆息が夜闇によく響く。額に手を当てる様が絵になる男はしばらく動きを止めてからおもむろに口を開いた。


「マニは中央塔で姿を消しました。ヴァルフは議会の転覆を目論んでいたとして騎士団に追われています。言うまでもなく冤罪ですが、デネブに赴けば貴女も聴取と称して拘束される。ヴァルフに妹弟子がいることは有名なようですから」

「え……?」

「マニは魔女とのお茶会とやらに招かれてそれきりだ。逃げたとも捕まったとも聞かない。関係は定かではありませんが、行方が途絶えた翌日に中央塔に客人が入ってきている。そして魔女が本当に招きたかったのはアルクゥ、貴女だ。だから私は貴女を関わらせたくない。そうでなくとも貴女は常に不確定要素で、物事に関わるだけで予期せぬ禍福の運び手になる。私はこのまま順当に物事を進めたいのです」

「マニを、助けないと」

「物事には順序がある。今は民間に接触する部署以外は閉ざされていますが、少し待てば公然と中央塔に出入り出来るようになります。元々国はデネブの手綱を握る方策を探していた。急がせた甲斐もあって数日もせず監査が到着します。それを待たずに押し入れば、相手に口実を与えるようなものだ」


 文書を読み上げるように淡々と告げてから、サタナは迷いを払うように額から手を下ろす。露わになった色素の薄い目には形容しがたい複雑な色が浮かんでいた。


「しかしこれほど説明しても、貴女が私の忠告に耳を傾けるとは思えない。大切な人間に対する献身は、それを利用した私が一番良く知っている」


 アルクゥは自嘲を浮かべる。献身とは実に都合の良い言葉だ。その単語一つで愚かな振る舞いすら涙ぐましい価値ある行為へと姿を変える。

 自虐的な思考と状況の悪さが相まって最悪な気分になりながら、アルクゥは情報提供者に礼を述べる。これからすべきことは定まった。


「情報をありがとうございます」

「どういたしまして。私が貴女を取り逃がした場合には存分に活用してください」


 結界内にサタナの魔力が膨れ上がる。油断していたつもりはなかったが、アルクゥは前方の地面が手の形に盛り上がってケルピーが押さえつけるのをただ見ていることしかできなかった。一瞬遅れて行動に出たアルクゥは手を足元の土に押し付け、地面伝いに魔力を流し込み無理やり術式を破壊する。

 その間に何の障害もなく距離を詰めたサタナの影がアルクゥを覆う。

 ――何が活用しろだ。

 油断を誘う為だけに垂れ流した情報のくせに。

 苦し紛れの笑みをこぼしてサタナとの間に垂直に魔力の刃を生やす。魔物の肉すら切り裂く刃は、一秒たりとも持たずに黒く変色して砕け散った。破片の中を迷いなく伸びた手に呪いの気配を見て笑みが引き攣る。

 アルクゥは上体を傾けて一歩後ろに下がり幽世へと逃げる。これで魔術は無効化されるが、アルクゥの実体が消えるわけではない。サタナはただ目前の景色を掴むだけでいいのだ。

 あと僅かで勝敗が決すというその瞬間、アルクゥが服の下に仕舞っていた首飾りが肌を離れて宙を舞う。

 サタナは指先に触れたそれを反射的に掴んだ。アルクゥは反射的に体を捩じって細い鎖を引き千切る。

 まるで身代わりとなった首飾りに感謝してアルクゥは逃げ出す。

 賢く反対方向へと逃げたケルピーに落ち合う場所を伝えながら振り返ると、サタナは呆気とした表情で己が手に残ったものを眺めていた。



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