第七十八話 庇護を抜けて
ネリウスの知己だという隠者の家は、濃い緑と土の香りの中にあった。
人の痕跡が途絶える山の中腹に突如として現れる大きくて素朴な一軒家。そよ風にさらさらと揺れる木々の下、陽光に暖められた木の家は、しかしながらその穏やかな外見に反して近付くと騒々しい。家の内外で数多の魔導人形が働く音と、隠者の飼育する魔物や動物の鳴き声で溢れている。
家の中に入るとマニが感嘆の声を上げる。まるで童話の魔法使いの家だなという感想は目が見えないアルクゥにとって非常にイメージしやすい言葉であった。
「キミたちを歓迎するよ。ここにいる間、自分の家だと思ってくつろいでくれ」
アルクゥとマニを歓迎する旨を述べた隠者はメイと呼んで欲しいと名乗り、二人をそれぞれの客室へと案内した。それが数日前の話である。
メイは突然を預けられた訳ありの二人でも客人が嬉しくてたまらない様子で、特にマニを構うものだから少し辟易されていた。
アルクゥは二人の会話を聞いたり、ゴーレムをお供に家の周囲を散策したりと気ままに過ごしていたが、日々急き立てられるような感覚が増していく。そんな自分に苛々しながら、何か意味のあることをとメイに手伝いを申し出た。
「客人に手伝いをさせるような男ではないよ、僕は。それに目も治っていないんだろう?」
「もう痛みも何もありません」
「呪いの損傷は完全治癒まで長いと相場が決まっている。特に眼球はデリケートな部分だからね。僕の知識では治療用の包帯を作るのが精いっぱいだよ。まあ暇なのはわかるけれど」
メイは「そうだ」と手を打って慌ただしくどこかへ行ってしまった。
人の気配が消えた部屋の中にゴーレムの雑多な稼働音が寂しげに響く。その遠くではマニの叫びとメイの笑い声が聞こえた。
――何か実のあることをしなければ。
拠点から遠ざけられて保護されているという事実と、何もできないでいる焦燥が胸で燻って黒煙を上げている。その焦りがアルクゥの手を包帯に向かわせる。
――片目だけでも見えれば勉強できる。
これほど目を閉じていたのだ。きっと治っている。
そう思い込んで白い端を指で摘み半周ほど包帯を解いたとき、騒がしい足音があっという間に部屋の中へと飛び込んできた。
「アルクゥ、アイツ俺の腕より太いミミズ飼って……何してんだ馬鹿!」
足音はマニの怒声に取って代わる。弁解をする間もなく頭をはたかれ、室内に小気味良い音が響きアルクゥの瞼の裏に星が散った。しばらく息を詰めて痛みに耐えていたアルクゥは、説教を並べ立てているマニの胸倉を掴んで足を払い引き倒す。今度は石が硬い地面に落ちたような音がして室内を揺らす。
「おまえ、て、めえ……この暴力女!」
「先に手を出したのはマニです」
「あァ? やんのかコラ!」
「そちらがそのつもりなら、やってやります」
売り言葉に買い言葉の応酬が続き、あわや喧嘩かというところで駆け付けたメイが二人を制止した。
「こらこら! 暴力は紳士、淑女にあるまじき行為だよ。喧嘩を続けるようなら今日の夕食はミミズだ!」
「おい、まさか……あれ食用かよ」
「僕が懇意にしている子の食べ物だよ」
口振りからして魔物に与える食事だとアルクゥは察したが、マニは人用だと誤解したのか口を噤む。二人が大人しく反省の意思を見せるとメイは満足げに「それでは」と口火を切った。
「アルクゥくんが暇なようだから講義をしよう。おあつらえ向きに、マニくんは素人だから教えがいがある」
「はあ? 俺は別に魔術は」
「魔力が多い人間は得てして魔力を暴走させるものだ。ゆえに学ばなければならない」
「暴走したことなんてねぇよ! 失礼な奴だな!」
「まあ建前さ。ここ百五十年くらい弟子は取っていないから、今の僕は教えたがりなんだ。僕の専門は結界術と幻惑魔術だよ。ぜひ付き合ってくれたまえ」
「ひゃく……じじい通り越して化石じゃねぇか」
「先生と呼びたまえよ」
口髭をはやした初老の紳士とマニが評した隠者は、ためしにアルクゥが先生と呼ぶと機嫌良く返事をした。
教えたがりという自己申告に嘘はなく、メイは精力的にアルクゥに話を聞かせる傍ら、マニに初歩的な魔術の習得をさせている。気だるげに教本を捲る音の合間に時折魂が抜けるような溜息がマニの口から洩れる。
「んだよこれ……光なんてわざわざ作んなくてもいいだろうがよ」
「魔術とは本来生活を豊かにする技術なんだよマニくん。夜闇を照らす術式は、その最古たるものだと言っても過言ではない」
「へー」
マニを見るために度々話は中断したもののメイの講義は為になるものが多く、熱心に耳を傾ける内にアルクゥの焦りは薄まり心は安らぎを取り戻していた。
講義が始まって三日目に、マニが隠者の家を離れるまでは。
「お使い?」
「おう。ちょっと頼まれてな。おっと、お前は目治ってないから駄目だぜ」
どこかぎこちなく言ったマニはすぐ戻ると言い置いて行ってしまった。
その様子が気になったアルクゥは講義中も上の空で、メイの講義も頭に入らず右から左だ。恋する乙女かなと呆れたようにメイが笑ってハッと我に返り、耳を赤くしながら行き先を尋ねる。
「マニはどこへ行ったのですか?」
「デネブではないよ。山の麓にあるサドルという小さな町だ」
重ねていつ帰ってくるか聞こうとしたアルクゥは子供のような気がして止めたが、マニは二日経過しても帰っては来なかった。流石に不信感を覚えて問い質すもメイはなんてことないという風に否定する。
「羽を伸ばしているんじゃないのかな。彼は座学が大の苦手だからね」
空々しい言葉だったがアルクゥは表面上納得したふりをして講義を過ごし、終わった後に急いで部屋に戻る。意識を集中させ拠点に残してきたケルピーに呼び掛けた。
この家はデネブの北、山を二つ挟んだ先にある。
距離的には問題なく届く念話は、結界で何重にも守られているせいか雑音が酷い。それでも辛抱強く耳を傾けたアルクゥは、ヴァルフが夜が二回来ても拠点に帰っていないことを知り、その変事とマニの「お使い」が時間的に重なっていることに注意を向けた。
何かあったのだろうか。
メイに追及すべきか。否。止めらるのは目に見えている。とは言え、飛び出して行くのは慎重さに欠けるだろう。
やはり尋ねて反応を窺うべきかと思考を重ねたとき部屋にノックの音が響いた。
「いるかい?」
「もちろん、いますよ。どうなさいましたか」
扉を開けながら言うと、夕食は何時だとか用事とも思えない事を告げて行ってしまう。わざわざアルクゥの存在を確認しに来たような行動が、状況と重なって酷く怪しげに思えた。
しばらく部屋の中でじっとしていたアルクゥはふと思い付いて探知を広げる。廊下に一体、ゴーレムがいるようだ。微動だにしない。
――監視か。
いやいや保護だとアルクゥは言い換え、ヴァルフが自分をメイに預けた意図を顧みてから自問する。
外に出て様子を見に行くか、否か。
しばし考えを巡らせたアルクゥは意を決して静かに包帯を外していく。
両目を手の平で覆い、右目は瞑ったまま、左目の瞼だけゆっくりと上げた。光に慣れてきた頃に手を除ける。
「……視える」
一度疼くように強く痛みはしたが、左目はしっかりと外を視てくれている。
アルクゥは包帯を巻きなおし夕食を終えた後、客室の窓から抜けだした。
家を一歩出ると、そこには深い闇が横たわっていた。
アルクゥは星空から大体の方角を把握してから歩き出す。結界を出ればケルピーが迎えに来てくれるだろうから道の心配はしなくてもいいだろう。
さくさくと下生えを踏みわけて辛うじてそうだと分かる道に出る。その先に人影があった。
「戻りなさい。今の僕はキミを保護する者としての責任があるんだ」
初めて見るメイは、マニの言った通りの容姿をしていた。口髭を生やした初老の紳士。口の上にちょこんと乗った髭がどこかひょうきんで人を安心させる風貌をしている。
見詰めていることに気付くとメイはおどけた風に「いい男だろう?」と髭を撫でてから、アルクゥに真剣な眼差しを向けた。
「魔術師は約束を大切にする。僕はキミの兄弟子くんとの約束を違えたくないし、ネリウスの弟子に危険な夜道を歩かせる気もないんだよ」
「マニがお使いというのは嘘ですか」
「嘘ではないよ。僕の頼み事ではないけれどね。マニくんはヴァルフくんに呼ばれたんだ。それ以上は僕も知らない。そして帰ってこない理由も」
「確認してきます」
「それもいいかもしれない」
突然翻った前言をアルクゥが訝しんでいると、
「結界の中には危険な動物も魔物もいない。朝には迎えにくるよ」
それまでにはきっと頭も冷えるだろうから、と嘯くように言ったメイは、暗闇に溶け込むようにアルクゥの目の前から消えた。
それから小一時間ほど経過してからアルクゥは不可解な言葉の意味を知ることになる。
行けども行けども結界の外には辿りつかず、もしやと思って木の一つに印をつける。案の定、数分歩いた先に印の付いた木を見つけて舌打ちをする。同じ場所を巡らされていたようだ。
茂みから視線を感じて苛立ちまぎれに石を投げると、犬のような魔物が飛び出してきた。メイが使役する魔物は突然の攻撃に鼻に皺を寄せ、遺憾だと唸り声を上げる。万が一がないように見張らせているのだろう。
見つかったことで開き直ったのか、性懲りなく歩き出したアルクゥの後ろから着いてくる。時折、激しく鳴いて気を引こうとした。
「戻れって言いたいの?」
肩越しに聞くと魔物は一声鳴いて肯定の意を示す。アルクゥは鼻で笑って立ち止まった。目の前にはまた印をつけた木が戻ってきている。結界の内はメイの手の平の上なのだろう。
だがメイはヴァルフから全ての事情を聞いたわけではないようだ。魔術による幻惑ではアルクゥの歩みは止められない。
一つ息を吸い込み、アルクゥは世界の越える。
幽玄の世界を駆け抜けて、結界の外で待っていたケルピーの背に乗り夜を駆けた。




