第七十四話 邪教の夢
七十二話、七十三話を改稿して差し替えています。ご注意ください。
大通りに出て人混みに溶け込みながら気分を切り替える。
息を吸って、吐き出せば、視界の全てが色褪せた。感情の起伏を抑えた状態でヴァルフは次なる目的地へと足を向ける。胃を痛ませる予定はまだ一つ残ってる。場合によっては友人を切り捨てての遁走も視野に入れての精神的な対策だったが、騎士団中央本部に訪れたヴァルフは酷い肩透かしを食らうことになる。
「おい、おいヴァルフ。助けろ。おい。聞いているのか。助けろ」
訓練場の端に威厳たっぷりの様相で佇む中年痩躯の騎士団長ラトヴィッジ・ベアズリーは、ヴァルフの姿を認めた途端に小声で助けを求めてくる。途端にヴァルフの無表情は崩れ、気付けば一発頭に叩き込んでいた。その理不尽な暴力にも、気の良いラヴィは訳が分からないと言う顔だけで怒りもしない。「それよりも」と暴行の事実すら綺麗さっぱり流す始末だ。
「あの婆さんをどうにかしてくれ。お前が見つけてきたんだろ。責任を持て」
「あのな、こっちはそれどころじゃ……」
うんざりしながら目を移した先、休憩に使われる長椅子の上にこじんまりとした老婆が座っている。手には十数本の紐が握られており、紐の先にはどろりと濁った瞳の獣が繋がれていた。一斉に鼻を鳴らしては空気の臭いを嗅いでいる。先程から漂う腐臭の元はアレかと大した感想もなしに視線を戻した。
「それよりも」
「それより? あの不気味な有様を見てそれよりと言えるお前の図太さが羨ましいぞ」
「はあ……死霊術師はあんなもんだろうが。それにテメェが連れて来いって言ったんだ。つべこべ抜かすな」
この騎士団長がどこぞの聖職者の忠告に従い、団員の中に死霊憑きがいないか検査を始めたのは三日前のことだ。魔眼を貸そうかという提案に騎士団の長と言う面子の手前頷きたくとも頷けず、ヴァルフに泣き付いてきたのも三日前になる。
アルクゥから死霊の特異性については聞いていたので専門の人物を探す必要があったが、も昔も死霊術師は迫害対象だ。本人たちもそれを自覚しているので滅多に出会うことがない。西に東にと奔走してようやく渡りをつられたのが、長椅子に座る小柄な老婆のジャヒルだった。
「とにかくだ。どうにかしてほしかったら俺の質問に答えろ」
「了解した」
さあ何でも聞けと胸を叩く様子からは一切悪意を感じない。それでも警戒を解かずに尋ねる。
「議会から、もしくはガルドのクソ婆からでもいいが、俺や王都の調査員に関して命令を受けたことはあるか」
「命令? 特には、ないが。王都の御仁らには自由な調査の許可が下りているのは知っているだろう。それにお前に関してという意味がわからんぞ。窃盗でもしたか」
「誰がするか。わからねぇならいいんだ」
騎士団長は白。となれば命令系統を無視した上層からの個人的な命令か。
議員の中には王都を毛嫌いする者が多いので、サタナたち以上の介入を危惧しての独断専行も在り得る。しかしそれではヴァルフや他の魔術師たちが監視を受ける理由の説明が付かない。
異変を察して困惑する友人に事情を話すと、ラヴィは大仰に顔を顰めた。
「まさか。いや、でも有り得ないことではないな。嘆かわしいことに、昔の確執を引き摺る馬鹿が」
「監視だけなら構わねぇんだけどな。それ以上があるならさっさと逃げる」
「つまり私は友人を一人失うことになるのか。困るなそれは」
臆面もなく言ってからラヴィは踵を返す。
どこへ行くと声をかけるヴァルフに、肩越しに振り返って不敵に笑った。
「こうして私と接触したことも伝わるはずだ。となれば相手も下手に動けまい。調べてくる」
だから死霊術師は任せた、とラヴィはそそくさと行ってしまった。
何とも締まらない男だが、あれでも騎士団長という権力者で有力貴族のはしくれだ。任せても心配ないだろう。
いくらか肩が軽くなった気分で、ヴァルフは頼まれた通りジャヒルの元へ向かう。
離れた場所では騎士たちが葬式のような顔付で黙々と訓練を続けている。死霊術師の忌憚具合が窺えるというものだ。
「よう婆さん。調子はどうだ」
ジャヒルは光の霞んだ瞳をギョロリとヴァルフに向けて静かに笑んだ。
「豪胆でございますなあ」
「すまん。アイツらに悪気はねぇんだ」
ヴァルフが隣に腰を下ろすと、小さな老婆は口を愉しげに歪ませてくっと喉が詰まったような音を漏らす。
「腐肉食いの鴉にも劣る、卑しく浅ましい身の上にございます。お気になさらず。調子はまずまずと言っておきましょう」
「やっぱりいるのか」
「ええ、ええ。もちろんですとも。今日は六、昨日は十一。いやはや、あなた様のお言葉通りに奇妙なこと」
合わせて十七名。予想外の多さに眉を寄せるヴァルフにジャヒルは首を振った。
「問題はありませぬよ。術者が死んだせいか全て腑抜けでございます。これだから手を加えられた死霊はいけない。見事な隠遁、見事な擬態ではあれど、主がなければ意思もなし。ただの薄汚い無害な憑き物でしょう」
「無害なのか」
「放っておけば憑かれた人間は死にまするが、それだけでしょう」
「それはあんまり無害とは言わねぇな。……なあ、そいつらで見分けてんなら一匹、騎士団に譲ってやってくれないか」
呼吸をしない獣共を指して言うと、老婆は再び喉を鳴らす。
「こやつらは所詮低位の死獣、確実性に問題ありというところ。結局、物を言うのは経験でございますからねえ。今回は殊に、長きに渡り死という死を漁ってきた妾の目にすら映りませぬ。よって憑かれた人間の状態が鍵。例えば皮膚の弾力、目の濁り、瞳孔の加減、死臭。ただ……」
「ただ、何だ」
ジャヒルは老いた眼差しに奇妙な光を浮かべ、ひび割れた唇を舐める。
「此度の死霊は、果たして死霊として括っていいものか気にかかるのですよ。いえ、白状いたしましょう。死霊がいるのかもわからぬのです。死霊憑きは確かに其処にいるのに、肝心の死霊の存在が感じられないのでございます。ですが聖水や塩を飲み込ませれば死霊憑きの症状は消える。なれば死霊は居たということになるのですが」
「よくわからねぇな」
「わかってしまえば同業でございましょう。同業でなければこのあってはならない状況の重大さがわかりませぬ」
そうは言いながらも話相手を欲していたのだろう。ジャヒルは堰を切ったように、一息に喋り切った。
「死霊は霊魂から剥がれ落ちた思念でございます。霊魂はアチラ側へと還り、いずれその思念も本体の霊魂を追ってアチラ側へと導かれる。アチラ側とはあの世、神域、幽世でございますな。そうなってしまえば死霊は消失するのです。大海に一滴の水を落とすように同化する。アチラ側において存在を保てるのは精霊とその眷属のみなのですよ」
よくわからない。そう言おうとしたヴァルフをジャヒルは制する。
「やはりわかりませぬか。此度の死霊は精霊なのです。……とは言え、精霊が精霊たる理由は人知の及ばぬ力にある。理に干渉できず、知性の欠片もない精霊などいない。となれば、たとえアチラ側に在っても、死霊は死霊に過ぎないというわけで」
「あー……じゃあ問題ないんじゃねぇのか」
「大ありでございます。死霊をあのような形に手を加えた輩がいる。偶然でないのなら、その術者は神域への干渉に成功したということになるのですよ。それは我らがシャムハットの夢でございました」
話についていけず半ば流しい聞いていた中に、突如飛び込んできた単語にヴァルフは目を見張り、腰のナイフに手を這わせる。目が動きをなぞっているにもかかわらずジャヒルは微動だにせず、逆に静かな怒りを見せた。
「勘違い召されるな。妾は邪教の徒ではない。シャムハットは、元は真っ当な魔術師の集いだったのです。才気あふれる魔術師が夜通し夢を語り合うような、青くて、きらきらしく、可愛らしいものであったのです。彼らは死霊術師を敬う変わり者でもあった。生死の根源に近きものとして厚く遇してくださいました。彼らは神域に英知が詰まっていると信じていた」
初めて聞く事実だった。真実だとは限らないが懐かしむように目を細くするジャヒルの言葉に曇り見えない。
「それが、どうしてああなったんだ。夢でも拗らせたか」
「あながち間違ってはおりませぬ。夢を夢と思わぬ者が現れ、また外部からもそのような魔術師の参入があったからでございます。まともな魔術師はその時点で逃げた。妾もその一人。……この話は蛇足でございましたなあ」
「いや……なあ婆さん。アンタは今回のこれが、残党の仕業だと思ってんのか」
ジャヒルは獣の一匹を膝に抱え上げ、その褪せた毛並みを撫でながら呟いた。
「もしこれが夢の残り香ならば、目を覚まして逃げた者にとっては心惹かれる悪夢でしょうな。妾も正直なところ、鼻先に餌を吊り下げられているような心地でございます」
「それは、聞かなかったことにしといた方がいいか」
「ふふ、構いませぬよ。夢は見るものであって浸るものではございませぬ。手を出せば焼け爛れると知って指先を伸ばすのは馬鹿のすること」
「そうか」
「そうでしょうとも」
ジャヒルはくしゃりと顔中の皺を寄せて笑った。ヴァルフは少し考え、自分もたいがい人が好いと思いつつも提案を口にする。
「婆さんさえよければ、今の話を王都の奴らにもしてやってくれねぇか」
「死霊、それともシャムハット?」
「どっちもだ」
ジャヒルは不思議そうに首を傾ぐ。
「妄言と一蹴されるやも知れませぬが、死霊についてはお話いたしましょう。ですがシャムハットの残党の件は心得ておられるでしょう? 前に王都で起こった厄憑き騒ぎ、あれはシャムハットの残党が下手人だとか」
「ありゃ嘘だ」
「ははあ、なるほど。わかり易い悪は使い易いものでございますからねえ。良いでしょう。ですが、王都の方々と言えば、あの白皙の聖職者でございましょう。神に仕える青年が死霊術師の言葉なぞに果たして耳を貸すか」
聖職者ねえ、とヴァルフは鼻で笑う。
「心配すんな。あれはどちらかと言えば婆さん側だ」
「ほう」
ジャヒルは心底愉しそうに、承りましょうと喉を鳴らした。




