表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
精霊のシジル  作者: 染料
五章
74/135

第七十三話 望みを知った男



 まだ朝星の残る時刻にヴァルフは起床する。


 今日はこれといって早起きする必要などなかったのだが、体にはすでに覚醒の感覚が行き渡っている。仕方なしに近くの椅子にひっかけていたシャツを羽織り、無造作に投げ出していた仕事に不可欠な装備を身に付けた。

 最後に投擲用のナイフを数本ベルトに挟んでヴァルフは椅子に腰かける。後ろに体重をかけて天井を仰ぐと椅子は重量に悲鳴を上げる。

 目を閉じて階上の様子に耳を澄ます。数日朝に鉢合わせることを避けてはいたが今日はそうもいかない。星が朝日に消え去り白みを帯びていた空が夏の青へと変化した頃に階段を下る足音を聞き、ヴァルフもそれを追って一階に下りていった。


 部屋に入るとソファに深く沈んだ細い背中が見える。

 近付く軍用ブーツの重たい足音にも振り返らない。これはまだ怒りが冷めていないと覚悟していると「おはよう」と思いがけない挨拶があった。

 凪いだ湖面のように静かで落ち着き払った声だった。幼い部分の一切を排除したような寂しげなものに聞こえ、ヴァルフはその変貌ぶりに動揺する。

 アルクゥは包帯を巻いた目をヴァルフに向けて柔らかく首を傾げる。


「今日は遅いんだね。もう出て行ってしまったのかと思っていた」

「ああ……まあな」

「私に用事?」


 マニに言付けたほうが良いか迷ったが、ヴァルフは気を取り直し反発を覚悟して告げる。


「結界からは出るな。できればケルピーも中にいさせろ。師匠の墓にも行くな」


 アルクゥはじっとヴァルフを見上げ、何の異論もなく頷いて手招きする。

 動作の一々が物静かで柔らかい。常に奥底から全てを睨み、否応にでも人に存在を印象付けていた苛烈な意思が鳴りをひそめている。

 益々狼狽したヴァルフが招かれるままに近寄ると、アルクゥは腹に額をぶつけるようにして抱き付いてきた。その些細な衝撃も遠慮のない力一杯の抱擁も鍛えられたヴァルフの体を微かにも動じさせはしなかったが、心の方には少なからず揺らぎを与える。


「無茶はしないで」


 ヴァルフを混乱させる数秒間の長い抱擁が終わる。アルクゥは口元に笑みを湛えて「いってらっしゃい」とそんなヴァルフを送り出した。

 言葉に背中を押されるようにして拠点を出たヴァルフは、一つ頭を振って動揺を振り払う。傍にいてやりたいという欲求を封じ込め、嫌がるケルピーの脚を借りてデネブに向かった。

 気に食わない騎手を蹴り飛ばそうとするケルピーをいつものように避けて北門をくぐる。

 門に詰める騎士の挨拶にヴァルフは表面上穏やかな返事を返し、しばらく大通りの人波に混じって歩く。ある程度進んだところで脇道に入り、更に二回角を曲がる。その際に何気ない風を装って横目で確認した後背には、巡回の規定に則り三人組で行動する騎士の姿があった。

 ヴァルフは目を細め、人気のない場所まで歩いてから暗い袋小路になった路地に滑り込む。助走を付けて跳び、壁を蹴って右の建物に着地する。気配を殺して下を窺っていると、数秒置いて騎士が路地に駆け込み、周囲を見回しているのが確認できた。

 尾行を撒いたヴァルフはそのまま建物を伝って別の道に降りる。険を帯びた表情を隠さず指定された場所に赴いた。

 そこで待っていた白い聖職者は目立つ風貌にもかかわらず不自然なまでに道行く人の視線から外れている。ヴァルフを認めて白々しく笑う足元、人避けの術式が微かに発光している。


「考えてくださいましたか」


 サタナは中央広場で対面したときから一貫して、自分を半殺しにした人間に何も思うことなどないと言う態度だ。相変わらず得体の知れない聖職者に顔を顰めながらヴァルフは答える。


「テメェの言った通りだ。なぜだかわからんが俺も不穏分子と見做されたらしい。だが、テメェと組んで俺に何の得がある。事態が手に負えないようなら俺はアイツと逃げるだけだ」

「それも良いでしょう」

 

 わざわざ呼び出した癖にサタナは呆れるほど速やかに協力関係の構築を諦めた。しかし、続いた言葉は取引の条件じみている。


「その判断を下すまでの間、アルクゥを余所に移してください」

「テメェが口を出していい領分じゃねぇなあそれは。何を考えている」

「貴方も私が謀略をめぐらせていなければ死ぬ生物だと勘違いする輩ですか。変だな。今回はどう見ても暴く側だというのに」


 人を小馬鹿にする物言いがいちいち癇に障るが、噛み付いて相手の舞台に上がってやるほど愚かではない。ヴァルフは釘を刺すだけに留める。


「俺の妹分に近付くな。次は殺すぞ」


 アルクゥを連れ帰ったことに感謝はすれども、決して友好的でいられる相手ではない。妹分を骨の髄まで利用し尽くした男だ。結果としてティアマトは崩壊を免れたが、その果てに残ったのは抜け殻のようなアルクゥと自身の深い悔恨。

 師が処置しなければアルクゥは無くなっていた。

 それがどういった理に基づいての現象なのかはわからないが、あのままでは確実に目の前から消えてしまっていただろう。思い出すだけ苦く、後悔がはらわたに落ちてくる。

 そうして殺意を漲らせるヴァルフに、サタナは今思い出したと言わんばかりに手を打つ。そして好戦的に目を眇めた。


「どうぞご自由に。でも次は簡単に刺されてあげられませんよ」

「……へえ、いい心構えじゃねぇか。どういう心境の変化だ」


 突き出した剣を避けようともしなかったあの夜からしてみれば大した心変わりだ。思い通りに終わらせるのが癪だったので急所を外したが、ここにきてヴァルフの脳裏を後悔の二文字が過ぎる。ちゃんと殺しておくべきだったか。今からでも遅くはないが。

 空気も凍るような睨み合いの末に、サタナは唐突に敵意を消す。


「――やりたいことができた。それだけのことです。貴方と敵対するつもりは今のところありません」


 ヴァルフは思い切り顔を顰める。

 地位や財を望むでもなく淡々と己の役割をこなし、果てに自切という形で国政から去った無欲で不気味で奇妙な男が、今更何を望むというのか。

 気持ち悪いとつい零れた呟きに、それは酷いなとサタナは苦笑を返し、気配を絶ったまま立ち去っていく。

 道向こうから歩いてくる騎士の姿を見かけ、釈然としないでいたヴァルフもまたその場を離れた。



  

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ