第七十一話 暗闇と安息
霧が消えていく。
アルクゥは目の代わりに肌でそれを感じていた。
この上なく陰気を孕んでいた空気は吹き込んだ風に押し流されていく。その清い風が瞼を撫で、アルクゥは小さく悲鳴を上げ目を覆った。
僅かな刺激にさえ激痛が走る。
暗闇さえ明滅する痛みの度合いに最悪を想像しながら、感覚の中から情報を拾い上げることに苦心する。どうやら眼球に異物が刺さっているようだ。だが瞼を無理にこじ開けて何らかの処置を進める勇気が持てない。異物を追い出そうと流れる涙はただ頬を濡らすだけで邪魔でしかなかった。
「見せなさい」
「いい。触らないでください。もう一人、いるのでしょう」
索敵に引っかかったのは二人だったはずだ。
悠長に治療する暇などないと頬に触れたサタナの手を払い落す。それでも追いすがった手に捕まえられる。
「もう一人は机の裏に倒れています。魔女ヒルデガルドです」
「ガルドさんが……? それで、生きていますか」
「呼吸はしているようですね。今は貴女の目だ。手をどけでください」
安否に対してそんな適当なと思いながらも、死霊憑きとなっているかもしれないので近寄れないと言われてしまえば視えるヤクシを待つしかない。アルクゥは観念してそっと手を除ける。
「瞼に傷はありませんね。開くことはできますか」
浅く頷いたアルクゥはきつく眉を寄せて鉛を持ち上げるように瞼を開く。
引き結んだ口の中で砕けそうなほどに奥歯を食い縛りながら開き切った視界は、世界の線が曖昧だった。
間近のサタナの顔すら見えない。光はある。色合いも分かる。水中で物を見るような具合だ。
医者の問診のような質問にいくつか答えた後、頬を両手で包まれて上を向かされる。体格の差を考慮すればこれが最も見えやすい角度なのだろうが首まで痛くなってきた。
息を呑む音が聞こえ、アルクゥは半ば覚悟して尋ねる。
「そんなに、酷いですか」
「目の奥に魔力の棘が刺さっています。……少し痛くしますよ」
棘と聞いてゾッとした矢先、前触れなく指で強制的に瞼を下ろされ、引こうとした頭をがっちりと掴まれる。
指の腹が瞼に当てられた。流れ込む魔力に反比例して眼球から異物がずるりと抜けていく。
「終わりです。よく堪えましたね」
「ありがとうございます。せめて前置きくらいしてほしかったのですが」
「何も言わず抜いたほうが痛みも薄いかと思いまして。失敗でしたね」
沈黙の長さはそのまま恨みに比例する。
絞り出した蚊の鳴くような声での恨み言に、サタナは苦笑したようであった。
「私は、何をされたのですか」
「条件を満たせば発動する呪法でしょう。断定はできませんが、視認に対するカウンターとして、貴女にだけ視えるものに仕込まれていたんでしょうね」
「治りますか」
「視力は少し落ちるかもしれません」
陰りを帯びた口調はさも重大な事を述べるようだったが、アルクゥはホッと息を吐く。
「視えるまで回復するのならそれで良いです」
「……貴女は自分の何かを捨てることに対して実に淡白だな」
「落ち込めと?」
サタナは閉口する。
アルクゥは目の痛みが八割方引いたのを良いことに、周囲を魔術で探りながら破壊が著しい部屋の検分を始める。
前方、執務机の前にアルクゥが殺した死霊術師がいて、机の裏にはガルドがいる。その先にある大きな窓は無残に割れ風が絶えず吹き込んでいる。
アルクゥは死体を避けながら一歩踏み出す。
「机の上のものが、そうですか」
「ええ。霧の元凶です。黒い珠でした。一度廃域の核を見たことがありますが、それによく似ていた。……壊してしまった今では禍々しさの残滓すら残っていませんがね」
執務机に転がる、微かに魔力が残った残骸に感知の手を伸ばす。
壊したことで殆どの力が流れてしまったのだろう。こうして向かい合っても、魔力を宿したただの塵だ。
果たして手掛かりとなるのか疑問である。いかにも心許ない証拠品だ。器物は喋らない。ましてや、ガラクタ同然となってしまっては、その本来の機能すら復元は難しそうだ。となれば。
「――生け捕るべきでしたか。申し訳ありません」
「深刻に考えるべき物事が間違っていますよ。貴女は自分の怪我だけ心配していなさい。死体からでも情報は読み取れます。……ああ、来ましたか。ヤクシ、ディクス。そちらはどうでしたか」
器用なことに二人は足音一つ立てずに訪れたので、アルクゥは感覚を伸ばしてやっとヤクシたちの存在に気付く。ディクスなど喋りもしないので更に存在感が薄い。
「追い詰めましたが、自害されました。申し訳ない。……それで貴様、その目はどうした」
「それより机の後ろに倒れている人を視てください」
「机の後ろ?」
瓦礫の中で無音は難しかったらしく、ヤクシは硝子を踏む音を立てながら部屋を移動する。「魔女か」と感慨なく言ってからしばらくして、否という返答があった。
「死霊は憑いていない。怪我もしていないようだ。おい、起きろ」
「乱暴にはしないでください」
「貴様は俺を何だと思っている」
「ユルドさん以外には優しくない人でしょう」
大雑把に人を揺さぶっていた音が途切れる。
恐らくヤクシはこちらを睨み付けているのだろうが、見えていないアルクゥには効果がない。黙っていたディクスが駄目押しとばかりに「確かに」と低く呟き、ヤクシは動揺を露わな声で「ふざけるのはいい加減にしろ」と怒鳴り、
「――これは、どういう状況かね」
寝起きのように掠れた声が場に沈黙を落し込む。
一瞬アルクゥにはそれが誰の声か分からなかった。すぐにガルド以外の何者でもないと気付くが、どうしてだか初対面の人間の声を聞くような感覚に陥る。
「こちらが問いたいくらいですよ、デネブの大魔女」
サタナが皮肉を滲ませると、ガルドは僅かに怯んだ様子だった。
「お前……聖職者殿がなぜここに居るのかな」
「貴女が倒れていた理由のせいだと思いますが、何が起こったか話していただけませんか」
頼むと言うよりも強制を思わせる口調だ。
ガルドは酷くつらそうに呻く。
「よく、分からない。覚えていない、ということはなさそうだが、頭が働かない。……後にしてくれないか」
「では後日、詳しくお話を聞かせてもらいます」
「それは、勿論……」
再び呻いた声を聞いてアルクゥは思わず大丈夫なのか尋ねていた。
そこで初めて、ガルドはアルクゥを認識したらしく、今度は微かに驚く気配を漂わせる。
「お前、そうか。なるほど。ありがとう、またワタシは助けられたようだね」
「本当に大丈夫ですか?」
「少し休めば、良くなるだろうさ。後でお茶でも飲みながら話をしよう」
「……貴女も学習しないな。前にご自分で言っていたでしょう」
刺されるかと思った、と。実際、今度何か企めばそうしないとも限らない。喉元過ぎればというがそれにしても早すぎる。
「さて、ワタシは何を言ったのかな?」
ガルドは本当に覚えていない風に惚ける。
答えてやるのも癪なので、アルクゥは別にとだけ言い捨てる。
中央塔を辞して外に出ると、すっかり霧の晴れた広場には人の声が戻ってきていた。
その殆どが現状に思考が追い付かず混乱するものではあったが、不気味な静寂よりも煩い方が余程ましだ。色白の女魔術師が姦しく騒ぎ立てるのを耳にしたので、死霊に憑かれた人間は後遺症なく元に戻ったのだろう。
さて、とアルクゥは呼び寄せて置いたケルピーに体勢を低くするよう命じる。その背に跨った直後、首根を掴まれて猫のように吊り上げられた。
「馬鹿か貴様は。その目でどこに行くつもりだ」
「ヤクシさんは誰何する必要がなくて助かりますね。放せ」
勘で振り抜いた足がどこかに当たったようだ。
不意打ちを食らったせいかヤクシは声を失くす。痛みを堪える様子が目に見えずとも伝わってくる。
アルクゥが心にもない詫びを入れていると、いつから居たのか、間近でマニまで悲痛な呻きを漏らした。
「うわ……おい、魔眼野郎。大丈夫かよ。しっかりしろ」
「マニ、もう動いて大丈夫なのですか」
「頑丈なのが取り柄だからなァ。……あァ? お前、目どうした」
「棘を刺されたらしいです。治るそうなのでご心配なく」
「棘って……あっさりしてんなお前。っと、そうだ。良い知らせがあるぜ。翼竜が手紙寄越してなァ。お前の兄貴は無事だとよ。廃域から帰還中らしい。ここに居るって返事書いておいたからな。エルイトが」
良かったな、と頭をガシガシ撫でられる。アルクゥはケルピーに乗ろうとしていた手を止め、長く息を吐き出した。
「別に、心配していませんでしたから」
「その割には腰抜けてんぞ」
「……疲れただけです」
脱力して座り込むとケルピーが心配して必死に顔を寄せてくる。
「俺は今から怪我させちまった奴を運んでくるがよ、先にお前を運んだ方がいいのか?」
「お構いなく。自分で動けます。マニも無理はしないように」
「おう任せろ」
つい先ほど、魔力の過剰放出で鼻血を出していた人間とは思えない元気さでマニは離れていった。
アルクゥはおもむろに立ち上がり、ケルピーの誘導で広場の隅に腰掛ける。
すかさず背後に横たわったケルピーに甘えて背を預けると、どっと疲れが押し寄せて来た。
体温と呼吸の起伏を背中に感じているとつい微睡みそうになり、頭を振って睡魔を追い払う。
「これからどうなさいますか」
上から声が降ってきて、数拍置いて鈍い思考を巡らせる。
「何もしません」
幽世を利用したこの事件にはベルティオの影がチラつく。
あの狂人が目の前にいれば確実に灰に還す程度の気持ちはあるが、追い縋ってまで復讐に執着はしない。見付けだして裁くのは、少なくともアルクゥの仕事ではないのだ。
「それが良いでしょう」
「……見えないくせに」
それでも余計なことを口走るのは、相手がアルクゥやマニのような者の領域を利用しているからだ。不可視の敵をどうやって殺すのか。その単純な疑問にサタナは事もなげに答えた。
「どうあろうともこちら側に媒体が必要なら、手の打ちようはありますよ」
「そうですか」
ぼやけていく意識の中で閉じた瞼の暗闇を見詰める。
「……そう言えば、送ってもらったお礼を言っていませんでした。他にも色々助けてくださって感謝しています」
「眠そうですね」
せめて感謝を受けるのか拒否するのか、はたまた何か要求するかで答えて欲しいものだが、そう言えばこんな性格だったかと妥協する。
それからしばらく沈黙が続いた。
まだ居るのだろうと思うが、サタナも足音がしない人種なのでよくわからない。
「――しばらくデネブに滞在します。何か困ったことがあれば、いつでも呼んでください」
「私は呼ばれても困ります」
「知っていますよ。では、私も後片付けに参加してきますので」
おやすみなさいと言われて頷いた後の記憶は何拍か途絶している。
ふと目を覚ました時にはそこにサタナの気配はない。体に染み付いた生まれてからの習慣で、思わず開けてしまった痛む目には、ぼやけた赤錆びた色の人影が映っている。誰だと問う必要もない程慣れ親しんだ雰囲気に愚痴を言う。
「血生臭い」
「我慢しろよ。丸一日、魔物とじゃれ合ってたんだ。帰るぞ」
宥める手が二度頭を撫で、アルクゥはヴァルフの担がれる。
やはり血生臭いが、文句も言う気力もなく脱力して運搬物に徹する。そんな風に怠惰を体現していたものだから、危うくマニを置き去りにしかけ、後に長々と恨みがましい言葉を聞く羽目になるのであった。
かくして、アルクゥの長旅は一時の収束を迎える。
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