第七十話 嵩ずるエニグマ
体には打撲痕、手足は無数の刃物を押し付けられたような有様で、全員が失血死だったという。そして微かに操られた者特有の歪みが残っていた、と。
ヤクシとエルイトの検死結果は速やかに騎士を含めた皆に伝達された。
アルクゥたちにしてみれば敵の性質を知る情報として充分な収穫だったが、騎士らはもっと別の事を知りたがった。何人かがヤクシに詰め寄り、そして正論で叩きのめされる。
「誰が最初に斬ったのか。誰が止めを刺したのか。あいつらは単に操られていただけか。それとも実は裏切っていたのか――今それを論じてどうなる?」
「それは」
「では言ってやろう。事情を知らなければ、あれは単なる嬲り殺された哀れな死体ではあるが、操られていた線は非常に強く、ゆえに数で圧倒しながらも取り押さえられなかった失態を差し引いても、貴様らに仲間を殺した責任はない」
ヤクシはおもしろくもなさそうに口の端を吊り上げ、吐き捨てた。
「悪いのは中央区にいるであろうこの事態を引き起こした犯人だ。違うか? まあ、だとしてもせいぜい互いを見張っておけよ。次に誰が剣を振り回し始めるかわからないからな」
「ヤクシ、言い過ぎですよ。私の部下が失礼いたしました。ところで、何点か気になることがありまして」
痛すぎる鞭を受けた騎士たちにとって、するりと会話に滑り込んで来た優しげな声は随分と聞き心地が良かったのだろう。それにどれだけ胡散臭くとも外面は聖職者である。易々と場の主導権を奪っていったサタナは、なし崩しに諸々の細かい情報を、それこそ部外者に漏らすべきではない警備状況まで聞き出し始めた。
アルクゥは一人外で待つケルピーに会いに行く。
「ネロ……ケルピー」
契約は消えている。よって自分が付けた名前で呼ばれるのは不快かもしれないと種族名で呼び直す。
ケルピーはチラリとアルクゥに視線を寄越したが、すぐに石畳の隙間から生えた草を毟る作業に戻った。近付けば歩数分だけ遠ざかる。
じりじりと距離を詰めて塀の隅まで追い詰めたところで、話を終えたサタナたちが詰所から出て来た。
「中央の様子を見に行くことになりました。霧の原因を探ります」
どういう経緯があったのか分からないが、そういうことで話はついたのだろう。
貴女はどうするという問いかけの含まれた言葉にアルクゥは頷く。今まで散々不信を匂わせておきながら虫の良い話ではあったが。一人で行動するよりも、自分より能力のある者たちと行動する方が遥かに賢明だ。
「ご迷惑でなければ同行させてください」
サタナは了承を返すも、内心は真逆だと言わんばかりに柳眉を曇らせる。
「迷惑ではありませんが……貴女は外に出たがるものと思っていました」
「友人を連れ出してもどうせ戻ってくることになります。彼らには家族がいる。ヴァルフだってこれを放っておくわけがない。それなら原因を叩くしかないでしょう」
「彼が心配ではないのですか?」
「ヴァルフが後れを取るなんて有り得ません」
信頼していますねえ、とサタナは溜息のように呟く。語調に笑みが含まれていたのでからかっているのだろうと一顧だにせず、アルクゥは一度大きく息を吸ってからマニに尋ねた。
「ところでマニは」
「おう。付いてくぜ。頼もしく思え」
「――人を殺すかもしれません」
それでもマニは僅かに目を細めただけで残留を拒否した。
「二言はねぇよ。足は引っ張らねぇから連れて行け」
しばし睨み合い、意思の強い橙色から逃げるように目を逸らす。マニとは対等だ。強制などできはしないし、するつもりもない。
――そう言えばこちらはどうなのだろう。
アルクゥは構わなくなった途端に喧しく蹄を鳴らしていたケルピーに改めて向かい直る。こちらは果たして対等を望むのか、それとも。
突然の注目にうろたえたケルピーは、動揺に揺れる目を先ほどのアルクゥのように彼方へと逸らす。
アルクゥはケルピーを見詰め続けながら、短剣を抜き少し伸びた髪を手で束ねた。刃を当てて一気に滑らせる。サクリ、と確かな手応えと小気味良い切断音がした。
切り取った一房を差し出すと、ケルピーはようやくアルクゥと目を合わせ、そっと窺うように嘶く。
「いいよ」
許可を言葉に出した瞬間、べろりと長い舌で髪を巻き取る。いつ見てもゲテモノ食いだなと苦笑した直後、髪を馬草のように食べたその口が――。
「……ネロは詰所で待機だ。魔物が来たら撃退すること。手に負えないものが来たら最優先にリリを守れ」
命令を下すとケルピーは機嫌良く馬蹄を鳴らして門番に加わりに行った。ぎょっとする騎士の隣で魚の尾を振りながら周囲の警戒を始める。
予想外の形ではあったが、体の一部と魔力の交換によって再契約は成った。アルクゥは口を擦りながら微かに眉を下げて笑う。わざわざ探してまで不自由を得ようなど物好きなヤツだ。
「感動の再会は終わりましたか」
「……申し訳ありません。行きましょう」
嫌味がひどく冷やかに聞こえたのは、僅かにでも時間を取らせた負い目だろうか。他からも注がれる視線も後ろめたく不揃いになった髪をフードで隠す。
来た時と同じく、ヤクシを先頭にとろりとした霧へと分け入ると、最初とは別の印象を受けた。
あれほど不快と思っていた霧は慣れてしまえば優しい。
全ての輪郭を暈かすようで、それでいて確かな壁となり自分と他を隔てる。
受容と拒絶がない交ぜになったこの孤絶は、揺籃の中での眠りに似ている。全てを放棄して目を閉じれば、柔らかな抱擁によって闇に引き摺りこまれてしまうのだろう。
それは怖いようでいて、魅力的だ。
++++++++++
中央区へと続く道のりでは特筆すべき障害も妨害もなく、一行は着々と目的地に足を進めていた。
その全く難のない行程にもかかわらず皆は警戒を最大まで引き上げている。嵐の前の静けさだと肌で理解しているからだ。
アルクゥもまた項の産毛を逆立て周囲に気を張っていた。
霧は中央区の境を跨いだ時点で微かな質量を持ち始めている。一定以上の魔力を有する者にとっては歯牙にかけるべくもない、だがひとたび意識すれば紗が体を覆うような感覚。性質が変化した。否、強まったというべきか。
ぬるま湯に衣服ごと浸かっている気分だ。表現に戸惑う奇妙な厭わしさがある。先導するヤクシは敢えてその忌避を辿り、元凶へと一行を導いていた。
足音すら耳を刺す静寂では咳払い一つすら許されないような緊張感を孕んでいる。
前方を行くマニが立ち止まったことで、無言の行軍は終わりを告げた。
それよりも一歩踏み出して隣に並ぶと、先頭のヤクシが手で停止の指示を出している。周囲を見渡す動作に合わせ、結った墨色の髪が馬の尻尾のように揺れている。
「――ここから先が死線だ。広場の円形が魔術的な境界になっている。絶対に越えるな」
後方を順番に見回す魔眼に頷きながら、もう中央大広場まで来ていたのかと内心驚く。
周囲の風景が霞んでいるせいで距離感も時間も曖昧だ。もしかすると生死の境さえもそうなのかもしれない。
大きく遠回りをすることになるがアルクゥは提案する。
「一度迂回して中央塔に寄りませんか。あの塔は守りが厳重です。中に人がいるかも」
「行くことにはなるが、期待には沿えないだろう。霧は塔から流れている」
え、と目を向けた先は霧で何も見えない。
その代わりにアルクゥは挙動不審な影を見た。
「人がいます」
「なに?」
「ほら、あちらに。一人ではありません。何人も」
陰鬱に静まり返る広場の北口付近に影が見え隠れしている。
ヤクシの言う死線の内側にいる者たちは霧の中でこちらを窺う様子だ。見間違いではない証拠にマニも同意した。
「霧でよく見えねぇな。アイツら本当に人間か?」
「石でも投げてみますか」
「バカ野郎。当たったら痛ぇだろうが。何でお前はそんな物騒なんだ」
マニはそう言って空気の匂いを嗅ぐ仕草をし、眉間に微かな不快を滲ませた。
「やっぱ投げていいぞ」
「どうして?」
「甘ったるい腐臭だ。覚えがあるぜ。薄暗ぇ廃棄鉱山なんかでよく嗅ぐ――死霊の臭いだ」
二人で目を見交わし、二三言の精霊文字でそこらの石に術式を転写しマニに手渡す。
マニの手から力強く放たれた弱い死霊なら祓える代物は、見事影の一つを撃ち抜いた。
「消えた……」
「つっても何匹いるかわかんねぇんじゃ、なあ。どうなんだ魔眼野郎」
そこでアルクゥは、真っ先に二人の行動を諌めるであろうヤクシが気難しい顔で押し黙っていることに気付いた。
「何だよ。腹でも痛ぇのか」
「俺には、あれがただの黒い靄にしか見えない」
「あァ?」
「貴様らには形が見える。俺にはぼやけた存在しか見えない。……司祭様はどうですか」
明るみに出た齟齬に対して、アルクゥの後ろにいるサタナはまるで既知の事柄のように冷静だ。
「私には何も。エルイトもディクスも同じでしょう。魔眼にすら映らないものを捉えているのが幽世に通じる者たちならば、答えは限られていますね」
ヤクシはその瞬間、凶暴な顔付で舌打ちする。
「またあちら側とやらかっ……忌々しい」
「落ち着きなさい。以前と勝手も違うようだ。厄ではなく死霊で、しかもあれだけの退魔術式で消せるようだ。それに境界の内側にしかいないのでしょう。出てこられないのかもしれない。乱心した騎士の例からして人に憑いた場合はその限りではないようですが。広場に人間は?」
ヤクシは数秒苦々しく霧を睨んでいたが、表情を仕事用に改める。
「三十二名。中央勤めの優秀な者をそのまま取り込んだのでしょう。内一名がこちらに近付いて来ています。術者ではないようですが……」
「他は」
「中央塔に続く出口付近に立っているだけです。動く気配はない」
「近付いたら襲い掛かってくるのでしょうねえ。まずは、こちらに来ている変わり種と話をしてみましょうか」
しばらくするとその一人はアルクゥの可視範囲にまで進んできた。
スラリとした体型から女性だと窺える。堂々としていながらも女性の魅力を感じさえる歩調は一切の澱みない。
やがて顔が判別できる距離まで近付く。白い柔らかそうな肌に、泣き黒子の美しい女性。
「貴女は……」
「あら、あなた。生きていたのね。知らせてくれた通りだわ」
アルクゥを見知らぬ地へと飛ばした元凶、色白の女魔術師が演技じみた仕草で小首を傾げていた。
「ねえ、酷い霧だと思わない? こちらにおいでなさいよ。濡れ鼠のようでみっともないわ。この中はとっても暖かいから、皆集まっているの」
「遠慮させていただきます。貴女こそこちらに来た方がいい」
「どうして」
「そちらは危ない」
「どうして。あなたがこちらに来なさいよ。そうすればいいのよ」
アルクゥは眉をひそめ静かに短剣の柄を握った。
どこかずれた言動と、決定打は目の動きだ。焦点が合っていない。アルクゥすら視界に入っていないだろう。外面的にはアルクゥと会話しているものの、実際は別の何かに向かけて話しているように思えた。
会話は可能でも意思の疎通は不可能だ。
悟ったアルクゥが返事をしないことに女は腹を立て、噛み締めた唇をブチリと千切った。呆気と恐怖で固まるアルクゥに女は笑みを作る。
「そうね。こちらに来なさいよ。あなただってそうした方が良いのだから。わたしの言葉に従いなさいよ。従ってよ。ねえ。ねえ、どうして無視するのかしら。ねえ!」
「……まともじゃねぇな。どうすんだ。知り合いだろ」
それでも殺すのかとマニが眉を下げる。
ふと周囲を見れば、決断を問う目が注がれていた。いつの間にか女の生殺与奪権を握っていたアルクゥは面喰って無意味に首を振り、火に油を注ぐ結果となる。
「別に知人というわけでは」
「私を知らないですって……調子に乗らないでよ! いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも……いつだって! あなた、私を見下しているのでしょう! どうせ眼中になどないのでしょうねえ、だって私の顔すら覚えていない始末だもの! 英雄なんて持て囃されて、いい気なものよね! そうやって男を侍らせてとても下品だわ!」
「侍るだと? 馬鹿な、俺にだって選ぶ権利がある」
「絶対にい、い、許さなあ、あああ!」
ヤクシの抗議を打ち消した大声量、それを発した大口が閉じる僅かな間。深海に潜む肉食魚の不気味さでアルクゥをじぃと眺める黒い影と目が合った。
――口内にいる。
厄介なと舌打ちするアルクゥの前で更なる面倒が始まろうとしていた。
女の足元に白く発光する巨大な円が三つ連なる。描かれた文様の中心には数多の精霊文字が書き込まれていた。
その意味は氷と人形。込められた魔力も尋常ではない。
アルクゥは風に背中を押され、吸い寄せられるように一歩前に出る。それ以上は踏み止まりながら、停滞し澱んでいた霧が女に集まるのを眺めるしかなかった。
「これは見事だな。氷の大魔術か。前準備として地面に術式を彫っていたようですねえ。魔力を通さなければただの模様だからヤクシも気付かなかったわけか」
「何を冷静にっ……いえ、もう黙っていてください」
形成は速い。すでに基礎が出来上がり氷の壁に阻まれて女の姿は見えなくなっていた。
魔力の刃でも削った端から再生する。炎を使って動けなくなるのは悪手だ。
――突破して首に刃を突き立てる。
一か八かで地を蹴ったアルクゥは一つ瞬く間にサタナの腕の中にいた。何が起こったか思考するより先に、行動を阻まれた怒りが身の内で沸々と音を立て始める。
尖った瞳で見上げたサタナは、この状況を楽しむように嗤っている。
「やめなさい。全く、片時も目が離せない人だ」
「動く気がないのなら放してください」
「では放さないことにします。もう少しで捕捉が終わる。一つ聞いておきますが、彼女は貴女の敵でしょうか」
「捕捉? 敵? ……どうしてそう思われるのですか?」
サタナはアルクゥの鎖骨辺りに目を落とし灯りを落とすように笑みを消した。
「彼女には呪いの残滓がある。そこに繋げるくらいは容易いのですよ」
そう言って手を翳すと、毒々しい警戒色を発する赤い鎖が手元の術式から現れ、完成した氷の巨人の裏にいる女目掛けて蛇のように滑った。氷の巨人の妨害をすり抜け、一直線に定めた獲物へと奔る。
短い悲鳴がして鎖に拘束された女が引き摺り出される。
こちらに向かって勢い良く宙を舞った華奢な体を、アルクゥはサタナが受け止めるものとして見ていたが、サタナはいつまでたっても動こうとしない。腕に留めていたアルクゥを自身の背に追いやっただけだ。
「マニ!」
「こんのっ……」
地面に叩きつけられる寸でのところでマニが受け止める。人の潰れる音を間近で聞くことを回避したアルクゥはマニの怒声に深く同意した。
「テメェ最後まできっちりやれよ!」
「敵を思い遣る度量は持ち合わせていませんので」
「……操られてんだろうが」
「それがどうかしましたか?」
そこには何の感情もない。
無機質な声音を聞いてアルクゥは今更思い出した。この男は自分すら切り捨てることができる人間なのだと。
術者が術式から退いたことで氷の巨人は崩れ落ちる。
霧とは別の白い冷気が煙を上げ、一帯を一時的な冬へと変えた。
鎖で拘束された女はもはや人の言葉を喋らない。
ただ獣のように唸りを上げ吼えて暴れるばかりだ。口内から寄生する死霊がどうにか逃げ出そうと女に身体能力以上の抵抗を強いている。肌が破れ血が滲んで痛々しい。
マニはどうにかして殺さない方法を模索したがったが、サタナは無表情のまま正論を突き付ける。
「死霊祓いには時間が掛かります。道具もない。この女性が正気を保っているかもわからない。ならばいっそ殺して差し上げるのが情けでしょうに。それに一人助けたとして、他はどうなさいますか」
「けどよ」
「この女性は偶然にも簡単に拘束できる下地がありました。ですが他にはない。貴方は、徒労のために私たちに傷付けと?」
マニは苦渋に顔を歪める。
庇おうと口を開くが、悲しいことにサタナの言うことがアルクゥには理解できてしまうのだ。助けを求める目に対しても見返すことしかできない。
その窮した眼差しが、ふいに光明を得て強い意思を宿す。
「口の中、ね」
「……マニ?」
「なんだ簡単じゃねぇか。――おい腐れ聖職者」
その応酬は目で追えなかった。
気付けばサタナの足の下にマニが転がっており、鎖から解放された女は広場の内側に戻っていた。再度魔術を行使しようと魔力を込めている。
「何のつもりでしょうか」
「ってぇなクソが。さっさと足どけろよ。俺の見せ場はここからだ。よーく見とけよ」
マニは訝るサタナに牙を剥くような笑いで応じ、埃を払って立ち上がる。手を貸そうとするアルクゥの手を親しみを込めて軽く叩いた。
「お前と俺は、同じだからな。これくらいわけないだろ」
言葉の意味を問い返す間もなく、マニは大きく息を吐きすっと目を細めた。
光りを帯びた瞳が人外のものへと変じていく。
初めの数十秒は何も起こらない。ただ空間を押し潰すように圧倒的な魔力が満たされていく。
やがて静かに水が収束を始めた。霧から、広場の噴水から、女が再度作り上げた氷の巨人から。強制的に水気を徴収し宙に無数の水玉を作り上げていく。
水晶玉のように煌めく水中には小さな虹が揺らめいていた。
アルクゥの炎と同じ理外の力だ。
雨の日の一場面を切り取ったような停止の風景は、ある時点で荒々しく変貌する。
広場は海となり、水の塊が波打ち、白く砕け、果てには大渦を作り出す。
広場に立つもの全てを浚い終えた渦は中央に収斂して一つの巨大な水球となった。
ごぽり、と空気が排出される音が響く。
それは水の檻に封じられた死霊憑きの者たちが酸素を求めて喘ぐ音だった。人に憑いていなかった死霊は水に触れた瞬間に消失している。
マニは自身の作り上げた結果を見て、鼻血を乱暴に拭い子供のように晴れやかな顔で笑った。
「俺ァ物考えるのは苦手だが、これくらいは頭回るぜ。ほら、たらふく飲んでさっさと溺れろ」
絶息に堪えかねた者が一人、二人と溺れていく。彼らの口から流れ込んだ意思ある水は、その口内に巣食う死霊を殺して彼らを無傷のまま解放した。
水球の中に誰もいなくなるまで時間はかからない。
「けけ、ざまあみやがれ」
天災に等しい現象を起こしながら、マニは無邪気に勝利を喜んでいる。ふら付いた体を慌てて支えると、一拍置いての鈍い反応でアルクゥを向いた。
「どうだった?」
褒美をねだる子供のような物言いに、アルクゥは思わず柔らかく笑いを零す。
「すごく綺麗でした。私よりもマニの方がよほど英雄のようです」
「そうかあ?」
「そうですよ」
「そうか。けどよ、悪ィが俺はここで撤退だ。あとは、がんばれ」
そう言うや否や、マニは体の力を抜いた。
体重を支え切れなくなったアルクゥが一緒に崩れ落ちそうになると、横から伸びた手がマニを担ぎ上げる。
「無茶をする。確かにあなた方は同じだな。非常に危うい力の使い方だ」
「煽ったのは貴方でしょう」
「そんなつもりは更々なかったのですが、それの性格と力を見誤っていたのは私の落ち度です。……あとで謝らないといけませんねえ」
そう言う割には扱いがぞんざいで、サタナは荷物を下ろすように道の端にマニを置く。
「エルイトはここで待機。事が終わるまでこれの護衛についてください。ヤクシ、広場の状況は」
「上々です。死霊が一掃されている。ふん、鳥頭でもやはり貴様の同類か」
ヤクシはいつもの調子で貶すが、先程まであったマニを軽んじる態度はない。
アルクゥは一時的に晴れた広場の先を見据える。屹立する塔から流れ出る霧は、こうしてみれば舞台装置が露出しているようで滑稽だ。
せっかくマニが作ってくれた好機だ。
敵が泡を食って逃げ出さない内に終わらせなければならない。
++++++++++
中央塔の中は薄暗く澱んでいた。
幸い、上階から発生しているらしい霧は次から次へと外へ流れ出ていくので視界の確保はましな部類ではある。
死霊は見当たらない。広場にいたのが全てなのだろうかと、眠り込む職員を傍目にしながら内部に一番詳しいアルクゥが先に立つ。
ためしに昇降機の操作盤に手を当てると、微かに発光して起動する。到着して音もなく開いた昇降機の中には誰もいない。誘い込むように点滅する光が不気味だ。
「どうしますか」
「上まで直通は魅力的ですが、途中で落とされるかもしれませんね」
「……階段を使いましょう」
閉じ込められたまま落下というのは想像するだに恐ろしい。
敵側にも使えないように昇降機を破壊してから、螺旋階段を使って塔を登っていく。
上層まで到達したとき踊り場に人影が過ぎる。
明らかに誘う動きに誰も追いかける短慮は起こさず、ヤクシの魔眼による判別を待った。
「あれは死霊憑きではないな。ということは術者か。罠か、分散目的か。霧はこの上から流れてきているな。どうしますか」
「二手に分かれましょう」
「分散するのは危険では?」
「逆です。危険の分散ですよ。それに相手は思った以上に少数のようだ。この階から上まで、探知に掛かったのは三人。見落としがあっても誤差の範囲です。そんな少数の魔力量でこの霧はありえない。つまり何らかの装置によるものだと考えられます。今の人影がそれを壊されることを恐れての囮ならば、やはり二手に分かれて早急に壊すべきでしょう」
ヤクシは納得してディクスを引き連れて人影を追っていった。
自動的に残ったアルクゥとサタナが組んで霧の大元を断つ役回りとなった。ヤクシはサタナの護衛ではなかったかと首を捻るが、瑣末なこととして疑問を押しやる。
「この階ですか」
最上階付近まで登ったところでサタナが剣を抜いた。
そのまま前に出ようとするのでアルクゥは聖職衣の服を強く引く。チラリと落とされた琥珀色の目を、死霊がいたらどうすると睨み返してアルクゥは先頭を維持した。
塔と言う性質上、上層階の面積は狭く部屋数も少ない。
ゆえに霧の出所は容易に発見できた。
濛々と霧を吐き出す部屋に近付くと、交戦があったのだろう。扉と壁が大破しているのが見て取れる。
アルクゥは慎重に、だが素早く左右に目を走らせる。
扉の残骸付近に死霊の影はない。
「この先に二人います。……一人倒れている。状況が読めませんね。用心してください」
耳元で低く囁く声に頷いて、ゆっくりと部屋の前に足を踏み出した。
確かに人影があった。
声をかけようと口を開いたとき、空気と共に甘い腐臭を吸い咳き込む。
突如、天井から逆さに現れた死霊はのっぺりとした手をアルクゥの口に捻じ込もうとし――アルクゥは咄嗟にガチリと噛んだ。
生々しい切断音と、不快な感触が舌先に乗る。
思い切り吐き出して、あらかじめ退魔を刻んでおいた短剣を振るって死霊を殺す。
次に備えて構え直した瞬間、
「――そうか。お前か」
「アルクゥ!」
サタナの警告も空しく、視界は暗と激痛に包まれた。
――誰だ。敵か。何をされた? これでは視えない。司祭は? あの人が憑かれたら終わりだ。
涙を流しながら感覚を全開にする。敵は正面、部屋の奥だ。声からして老いた男のようだった。
「一番の成果を潰した恨みは忘れない。だがこれで視えないだろう。そっちの男は元々視えないようだから、性能のいい人形になる。時間も稼げるだろう。……さてお前はどうしてくれよう。実験に使うも良し、惨めに辱めて殺しても良し。聖人の飼殺しというのも」
アルクゥは御託を最後まで聞かず、一も二もなく幽世の境界を踏み越えることを選択した。そこに躊躇いはなく、あるのは敵を殺すという目的だけだ。
きらきらしい筈の世界でも、視力が潰された今では何も見えない。
ただ息苦しいだけの世界で前情報に従い正面に真っ直ぐ走る。
愚かにも、そしてアルクゥにとっては幸運にも、敵は動揺の声を漏らした。
馬鹿な奴。アルクゥは人知れず笑い、速度を殺さずその方向に飛び掛かった。
手の平に人間を押し倒した感触を得て、アルクゥは幽世を脱した。そして抜き払っていた短剣を力任せに振り下ろす。
ぞぶり、と刃が根元まで埋まる。
すかさず引き抜き、頬を叩くぬるい血潮を受けながら、もう一度振り下ろす。断末魔もなく、敵はびくびくと痙攣を始めた。
「っはあ……大丈夫ですか?」
男の絶命を待ってから、サタナがいる方向に顔を向けた。
返事はない。
最悪が頭を掠めたアルクゥは死体の上から退いて探知を展開し後退する。
使役される死霊は死霊術師が死ねば霧散する。今回、その常識が当て嵌まるかどうかアルクゥは知らない。
「司祭……?」
答えはない。ゆっくりと近付く足音にアルクゥはビクリと体を震わせる。
まさか、と暗闇を睨みながら死霊憑きへの対処方法を頭から引っ張り出すが、目が見えなくては何もできない。
急激な動きを察知し、一拍遅れて更に後ろに逃げようとしたアルクゥは、
「動くな」
強い声で停止した。
こんなときに主従時代の癖を思い出してどうすると我に返ったとき、思い切り引き寄せられた。しなやかな腕がアルクゥの頭を抱き込む。
そして、目に浮かばんばかりの鋭い一閃がアルクゥの後ろで響いた。
鉱石が砕けたような音の後に、ぼたぼたと重たい液体が床を叩く音を聞く。見えないとわかっていながら、アルクゥは肩越しに振り返る。
昏い目の中にも不思議とそれははっきり映った。
力の塊が勢い良く噴出し、拡散していく。肌で感じられるその質は、アルクゥやマニの使う人外じみた力と良く似ていた。




