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精霊のシジル  作者: 染料
五章
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第六十八話 忠義の幻獣



 その霧は、悪意のある粘ついた視線に似ていた。


 決定的な違いを挙げるならば、指先で触れることが出来るという点だろうか。

 試しに爪で掻くように空を掴む。目の前に持って来て開いた手の平には、水気とほんの微かな魔力が付着していた。

 ハンカチで拭き取れば跡形もなくなる程度のものも、しつこく体に纏わり付く量があれば、なるほど確かに五感が狂うのもおかしくはない。

 アルクゥはいつの間にか重たく濡れた外套の端を絞り、不愉快な水と魔力を絞り落とした。

 大きく息を吸い込む。肺に空気は満ちるのに、全く呼吸をしている心地がしないのは、なにも霧のせいだけではないのだろう。


 アルクゥたちは肌に絡み付く細かな水の粒子を掻き分けるように進む。


 一寸先すら限りない白。そんな視界を濁らす濃霧の中、道標となる先頭のヤクシは揺ぎ無い足取りをしている。よく見えないと零してはいたが、碧く光る魔眼はしっかりと霧の先を見通しているようだ。

 最後尾では大男のディクスが警戒を滲ませて周囲を睥睨している。後背からの敵に備える姿は魔術師というよりも歴戦の戦士だ。

 その堂々とした立派な歩みに反して、マニとエルイトは落ち着きがない。前者は好奇心からか目をキョロキョロとさせ、後者は霧が堪えているのか青白い。

 サタナは宣言通りアルクゥの近くにいる。髪も肌も白い男だが霧に溶け込むといった特技は持ち合わせていないようで否が応でも隣で存在を主張していた。


 やがて障壁から十数分歩いた地点に達したとき、そこを境に霧が極端に薄まった。

 アルクゥたちは北門から中央区へと直通する大通りに立っていた。途中で右や左に曲がっていた感覚があったのだが、どうやら真っ直ぐに進んでいた様子だ。一人で入っていれば迷っていただろう。


 背後にある分厚い雲のような霧は境界線があるかのようにきっちりと分かたれている。境の内側は朝靄程度に薄かった。

 白い圧迫感からの解放に肩の力を抜いたのはアルクゥばかりではない。各々が顔や衣服の水滴を拭って一息ついた。


「おい、アルクゥ。あれ見ろ」

「わかってますから先に服を着なさい」


 鍛えられた半裸を晒すマニは衣服を絞りながら大通りの先を顎で示す。

 そこには倒れた人影が散見しており、アルクゥは頷きながらも駆け寄りはしない。

 状態は分かっている。

 皆、眠っているのだ。胎児のように体を丸めて、最も大切な臓器を守るように。


 アルクゥたちがデネブに入ってまず最初にしたことは、北門から最も近い民家を尋ねることだった。

 一軒目はカーペットで丸くなる老婆を、二軒目では廊下で寝息を立てる青年を、そして三軒目で状況は確定した。居間で身を寄せ合って眠りに付く四人の家族、その家長と思われる男の落ちた殴り書きの紙切れが異変の一端を知らせてくれたのだ。


 ――六の月、望の日。昼過ぎに中央から霧が流れて来た。どうやら魔力を含んでいる。眠い。体の防衛反応だろうか。どうにか子供たちを連れ戻したが、家の中にも霧が入ってくる。とうとう妻と下の子が寝てしまった。上の子は俺に似て少し魔力を持っているお陰か、意識を保っているがもう限界だ。騎士団を呼ぶ暇もない。誰か。


 以降、蛇が這った様な、執念で続きを書こうとしたのか歪んだ文字が続き、やがて途切れた。


「せめて建物に移してやれたらいいんだがな。……仕方ねぇか」


 マニはそう言ってしばらく眠る人々を見、引き千切るように他へと逸らした。一人一人に構っていればキリがないのだ。

 残された内容が本当であれば、霧の異変は昨日起こったことになる。

 普通の人間が飲まず食わずで生きていられる時間は三日。眠っているのを考慮に入れるならもう少し長いかもしれないが、既に一日経過している。

 民間人を救うのならば期限は二日。それが長いのか短いのかすらアルクゥたちは把握できていない。

 アルクゥたち魔術師がこうして元気に動けるということは、魔術師や魔力保持者は対策に奔走しているはずだが一人も見かけない。未だどこかで額を集めている段階なのかもしれない。

 それでも自分たちよりは余程この状況に詳しいはずだ、と今後を話し合っていたサタナたちの結論を耳にする。一人でヴァルフを探しに行くつもりだったが、今はまだ彼らと一緒に行動すべきだろう。

 ヴァルフは魔術師、友人のリリや知り合いの女騎士も魔力保持者だ。眠っていない者たちは恐らく一か所に集まっている。


「おい貴様。病院か憲兵の詰所に案内しろ」

「王都と違ってデネブを守るのは騎士です。憲兵ではない。……確実に人がいるのは病院ですが、情報を集めるなら詰所が良いでしょう」


 デネブは中央一区、それを囲んで東西南北の四区があり、その四区はそれぞれ三つ分けられる。計十三のエリアでアルクゥたちが居る場所は北区中央、となれば北区を治安を担当する騎士団の総合詰所が一番良い。

 アルクゥはとりあえずヤクシに口頭で説明し、先導しようとして足を止める。


「……――?」


 警戒していた背後の分厚い霧から視線を感じた。振り返ると、影が過ぎったように見えた。瞬きの間に消えてしまったので確信は持てないが、瞼の裏に思い浮かぶ残像は確かに人間の形をしていたように思えた。

 進み始めるマニたちと霧を見比べたアルクゥは、僅かに迷ってから霧に向き直る。入らなければ問題ないだろう。

 一歩一歩近付いて、ギリギリの場所で霧の覗き込む。何も見えない。これでは気のせいかどうかも分からないではないか。

 仕方ないと諦めて踵を返した鼻先に人が立っていた。足音も気配もなかったので思わずビクついて、それからすぐに存在だけで自分を脅かしたそれがサタナであることに気付いて妙に納得した。


「離れるなと言ったでしょう。それとも、何かいましたか」

「いえ……いたような気がしただけです」

「では私たちも行きましょうか」


 アルクゥは最後にもう一度霧を振り返り、何者の姿もないことを確認して歩き出す。数歩遅れて従者のように付いてくるサタナに見張られているような気分になり、嫌悪を込めた一瞥を投げるも、その距離感は詰所に近付き、甲高い悲鳴が聞こえるまで変わることはなかった。



++++++++++



 聞き覚えのある声だと、アルクゥは驚くよりも先に考えた。

 悲鳴も一度では終わらない。切羽詰まった救援を求める声が何度も鼓膜を突き刺す。

 自ずと動いた足だが、しかしながら方向が覚束ずにすぐ止まる。

 反響する声の元を測りかねたアルクゥが迷っていると、背を押す手があった。見れば、マニの悪童めいた笑みがある。


「こっちだ。あんだけ叫んでりゃあ、しばらくは大丈夫だろうがな」


 笑い返す余裕もなしに駆け出したアルクゥをすぐさまマニが追い抜いて先導を始める。

 不用意だと怒鳴るヤクシの声はすぐに消えた。

 恐ろしく速い足に辛うじて付いて行く。大通りから逸れて脇道に入り、角を三回曲がる。その先でマニは滑りながら足を止め、視線の先にいるであろう悲鳴の主を助けることなく首を傾げている。

 遅ればせながら到着したアルクゥも止まり、そこでマニと同じく意外な光景を眺めることとなった。


「やめっ……うわ、落ちっ……落ちるってば! ああくそこっち来るな!」


 灰色の毛並みをした大きな馬が、背中に乗せたリリの声を無視しひたすら跳ねて回っている。一つ跳ねるたびに、ぐしゃりと生々しい音が響く。足元に群がる犬ほどの大きさをした鼠を倒さんが為の行動のようだ。恐らくは騎乗者に配慮した、最低限の動きではあったが、リリは今にでも落馬しそうだ。

 友人の青い顔を見てアルクゥは我に返り、叫んだ。


「来い、ネロ!」


 瞬間、馬の巨躯が停止する。

 その隙にと飛び掛かってきた大鼠を魚の尾で薙ぎ払い、ケルピーは歓喜の嘶きを上げ軽やかに宙を舞った。不必要な高度まで跳ね、優雅に着地するも、間近にいたアルクゥはその震動で微かに浮く。

 叫んではみたが命令を聞くとは思わなかった。契約は完全に切れているはずだと困惑して見上げた水面の瞳は、アルクゥを凝視して次を待っている。


「っておいおいこっち来るぞ! 熱く見詰め合うのは後にしやがれ!」

「ネロはリリを守りながら大通りで待機。鼠は私が片付ける」


 痛々しげに泣き腫らした目のリリに頷いて、行け、と一言。ケルピーは間髪入れず走り去っていく。

 アルクゥは黒く波打って迫る大鼠の群れに向けて手を翳した。剣を抜いて迎え撃つ体勢のマニを数歩下がらせ、


「討ち漏らした個体はお願いします」

「何する気だ?」

「力押しです」


 聞き返す声に答えを見せる。

 道を埋め尽くした薄紫の刃は、ただ勢い良く向かってくる大鼠を切り裂くのに充分事足りた。

 勢いを付けて飛んできた首をマニが無造作に叩き落として笑う。人間以外なら肉片と血の海を前にしても平気なようだ。


「さっきのは知り合いか? しっかし、滅茶苦茶だなお前」

「全くその通りですね。どんな危険があるかも分からない中、後先考えないで飛び出すところが特に」


 二人して肩を揺らす。

 腕を組んで呆れた様子のサタナを振り返り、マニは楽しげだった表情を一転させ鼻に皺を寄せた。


「……腐れ聖職者かよ。テメェも付いて来てんなら一声かけろや」

「おや、私の名を覚えていませんか。思った以上に鳥頭ですねえ。可哀想に。……戻りますよ。貴女の友人から事情を聞けるかもしれない」


 短気なマニが振り上げた拳を無視してサタナはアルクゥに言う。

 言われなくともそのつもりだったアルクゥはリリの元へと急ぎ、サタナも当然付いて行く。



 喧嘩する気だったマニは応じない相手に肩透かしを食らい、寂しげに拳を下ろす。その鼻をふっと掠めた臭気に顔を上げて首を傾げた。


「何か臭ぇ」


 血の匂いとも違う、何とも嫌な胸が悪くなる臭い。どこかで嗅いだことがある気がしたが、何分記憶力は悪い方である。それにたった一嗅ぎ分しか漂わなかった悪臭を突き止める気にもなれず、マニは項の産毛を逆立てながらアルクゥとサタナの後を追いかけた。


  

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