第六十七話 迷い霧
時は一日遡る。
魔導都市デネブ中央区、その中心に坐す中央塔の書斎にて、大魔女ヒルデガルドは今日も今日とて書類と顔を突き合わせていた。
規格に則った大きさの紙にびっしりと詰まった文字をなぞるのは嫌いではない。
都市機能についての改善項を目で追いながら、気に入らない箇所を見付けては左手の万年筆が唸りを上げる。
ガルドは頬杖に隠した唇を柔らかく歪ませながら書類を積み上げていく。
ティアマトという大国の四大都市に数えられるようになった頃だろうか。それまで出来る限り細部にまで伸ばしてきた手を引っ込め、いくらかの事柄の最終決定権を民衆に選ばれた議員に任せるようになってから、時折デネブは思いがけぬ方向に歩き出そうとする。
人口が数十人の村だった時分から数え、デネブの母となって二百余年。初めの五十年は創設者たちと身を寄せ合い災害や魔物と戦い、次の百年は低迷と上昇を繰り返し、そして今の五十年は目覚ましい発展を続けている。
このまま行けばきっと夢のような都市になる。かつて仲間と語り合った理想が現実に近付いているのを感じる。
だからこそ、国が乱れている今、決して手を離してはならない。
ガルドは母親の顔で微笑み別の書類を取り上げる。そこに記された報告を改めて読み返し、最近になって頂点に君臨し続ける己を糾弾し始めた議員の名にバツを付けた。
これで自分に関する問題は存在しない。
それにしても、とガルドは書類を呼び付けた女性職員に渡しながら時計を見上げる。その仕草で職員は「ああ」と察し良く頷いた。
「もう正午ですか。早朝に廃域を離れてデネブに帰投する予定にしては、両方とも少し遅いですね。天気も良いから舗装された山道に難儀しているってこともないでしょう。怪我人が多いのか、それとも別に問題でも起きたのかも。足の速い騎を出して様子を見にいかせましょうか」
「キミのような部下を持って幸せだよワタシは。よろしく頼んだ。ああ、ついでにこれも」
「誉めても何も出ませんよ」
職員は照れた様子ではにかんで、バツ印が目立つ書類を確認し、心得たように受け取る。この階の出入りを許可されている職員は全てガルドの信望者で固めてある。文句が出ようはずもない。
再び一人になったガルドは目に留った書類を拾い上げ、大きく息を吐き出し皮張りの椅子にもたれかかる。
先のように文字を目で追うも、どうにも考えが纏まらない。刻一刻と何よりも差し迫った問題が近付いているのを思い出したのだ。
「ヴァルフはどうするかなあ……」
かくも名高き竜殺しが廃域の霧に飲みこまれてから早七日。
早期に発見された二つの廃域とは異なり性質は不明であったものの、出来たばかりの廃域で目に見える異変がなければ大半の被害を魔具で防げる。
――その程度の取るに足らない廃域であった筈なのだが。
「何でよりにもよって、まるで図ったかのように」
ガルドはとうとう書類を投げ出して頭を抱える。よりにもよって、要らぬ対抗心を燃やした弟子が馬鹿をやってくれたとは。知らぬ存ぜぬを突き通そうにも騎士団に話は広まっている。ヴァルフの耳に容易く事態の顛末は届くだろう。
後進を育てる者として彼女を守るべきなのだが、如何せんヴァルフのような戦いを生業とする魔術師はガルドの天敵だ。それにどう考えても弟子が悪い。庇える要素が存在しない。
部隊長のビルグレイに発破をかけ捜索を一任したが、芳しい報告は上がっていない。だが責めるのは酷だろう。廃域に入って自分も飛ばされてみない限りは、ガルドでさえティアマト国内にはいるんじゃないかなという予測しか立てられないのだから。
「……まあ、生きていれば自力で戻ってくるだろうさ」
ヴァルフがそう思ってくれるかは別として、生きていれば戻ってくるとガルドは睨んでいる。なにせ破壊に限れば最強の能力を有している化物だ。悪運も強い。
だからこそ――ガルドにはほんの少しだけ最悪を願う気持ちがある。
デネブに英雄は不要なのだ。
死の覚悟を以って、それでも使いたいという背水に陣を敷いた者たちならばともかく、デネブにそんな毒は必要ない。魔導都市に痛みを伴う改革はいらない。緩やかな繁栄があればいい。
英雄は救いと一時の高揚をもたらしてくれさえすればいいのだ。
力を持つ者が居座る場所には災いがやってくる。権力にしても身体的な能力にしても、それは変わらない。
「とは言え、やっぱり戻ってくるのだろうけどね。その時はお茶にでも誘ってみようか」
扱き下ろしはしたが、ガルドはアルクゥが嫌いではない。
一途で実直で愚かな娘だ。師の為に己を売る程に。
ガルドは自嘲する。そろそろ自分に白状すべきだろう。あの強い眼差しが羨ましかったのだと。
記憶にある視線すら受け止めきれずガルドは瞼を閉じる。暗闇に浮かびあがるのは彼女と、彼女の師の姿だ。初めて出会った時から換算すれば、二十年ほどの付き合いだったろうか。
顔を合わせれば口論か対立議論を繰り広げるばかり、結局真名の交換すらしなかった。
ガルドの長く続く生の終着までそこら辺に居るとばかり思っていたのに、あの偉大な魔術師はあっさりと逝ってしまった。
「コルネリウス」
書面で知った名前は自分でも肩を竦めるほど部屋に響いた。
ガルドはやれやれと二度頭を振り、ずれた三角帽をしっかりと被り直して仕事を再開した。
散じようとする意識を無理やり押さえつけ、紙切れに集中し幾らかの時間が流れた頃に、没頭の隅で来訪者のノックを認める。
おざなりに入室許可の声を上げ、視線を落したまま尋ねた。女性職員だと思ったのだ。
「――ああ、どうだった? 負傷者が多かったのなら、編成を考え直さなければいけないね。おっと、両方廃域の破壊に失敗したと前提するのは早計かな」
「こんにちは」
聞いたことのない声だった。
ひやりと背筋を滑り降りた予感に、ゆっくりと顔を上げる。
黒衣の貧相な顔付きをした女だった。青白く隈の浮いたいかにも不健康な顔が、光のない目でガルドを見詰めている。
「ええと、どちら様かな?」
おどけた風を装いながら執務机の引き出しをまさぐる。
女は応答せずただ笑った。欠けた不揃いの歯が覗く。駆け上がった悪寒に、魔術を刻んだ紙や宝石を握りこんだ手の平がじっとりと濡れる。
――なぜ誰も来ない。
許可のない人間が階に入った時点で異変が伝わるのに、どうして誰も。
「とにかく掛けておくれ。客人に立たせっぱなしは忍びない。どれ、ワタシがてずからお茶を煎れて差し上げよう」
軽く言って、震える膝で立ち上がった瞬間、手の中のものを全て投げつけた。
同時にしゃがみ込んで耳を押さえる。その上からも聞こえてくる轟音と空気をかき乱す爆風。火傷しそうに熱い風が頬を撫でていく。
(ああ、書類が。爆発、電、死呪に、あとは何だったか。我ながら見境なく用意したものだ)
音が収まり静寂と白煙が漂う。
ガルドはハンカチで鼻を覆いつつ、机の影に身を隠したまま探知を伸ばす。生命反応はない。念のために仔細に探ると、十数の肉片が飛び散る中に奇妙なものを感知した。
吐き出した乾いた息は喉を掠って痛い。生唾を飲み込むと喉がくっついたようになって更に痛くなる。
何度も深呼吸を繰り返し、手足の震えが一見すれば分からないまで収まってから立ち上がる。確認をしなければ。
「ワタシも、やれば、できるじゃないか」
物量で圧した感はあるが、中々どうして良い判断だった。真実客である可能性も頭を掠めたが、床に転がる得体の知れない魔力の塊からして侵入者の線の方が大きい。
額に浮いた汗を拭う。
なるだけ目を細くして赤く焼け爛れた「元人間」の破片を見ないようにしながら、それに近付いて行く。
煙に包まれて見えないそれまで後数歩というところで、ガルドはむせるような湿気に気付いた。ハッとして爆発で麻痺していた五感を治す。
後ずさりながら魔術で風を起こせば、数秒だけ煙が退く。
白の間隙にあったのは、不自然に形を残した白い手首と、手の平に収まる程の真っ黒な球だった。
ガルドは更に下がる。再び煙が蔓延する直前、手がこちらに爪弾いたように見えたのだ。実際、黒い球がころりと足元にまで転がってきた。碌に運動をしなかったつけか、爪先に球があたって慌てて飛びのく。
「何なんだ、これは」
呟いた直後、側頭部に衝撃を感じる。
痛みはない。ただ視界が地面と水平で、いつの間にか床に片頬を付けていた。目前に赤黒いものが転がっている。
焦点を合わせると目が合った。
左上半分だけのあの女の目元は、悲鳴を上げるガルドの前で確かに弧を描いた。
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四つ存在する障壁の大基礎、北門近くに翼を畳んだプリゼペの背からアルクゥは飛び降りる。正面先にある門には目もくれず街道脇の樫の木に向かった。
「すぐ戻ります」
誰かが止める声を聞いたが、構わず転移の目印を踏んだ。
視界が蜃気楼のようにふやけ、曲がり、体の中心から引っ張られていく。
波に振り回されるような不快感を経て出た先、ぐにゃりと柔らかな異物を踏み危うく体勢を崩しかけ――半ば意地で立て直してその場から退いた。
大きな魔物の死骸だった。踏んだ他にも三体ある。食い荒らされており何の種類か判別はつかないが。
目印とずれた場所に落ちたのもこれらのせいだろうか。妙な空気が立ち込めている。
ともあれ、とアルクゥは安堵に胸を撫で下ろした。視線の先にある拠点の護りは変わらずそこに存在し、家主であるヴァルフの無事を知らせていた。
居ないとは思うが一応中を確認にしに行く。
物音一つ聞こえない廊下を抜けて談話室を覗くと、広い机の上にアルクゥが送った鳥の手紙が二羽仲良く転がっている。
胸騒ぎを覚えて台所に足を運ぶと、保存庫の方から漂う微かな異臭を鼻が捉えた。開いてみると案の定、冷たい風と共に強い腐臭がした。肉類が腐っている。
アルクゥが消えた八日前からずっと放置されていたと推測された。
「あれから一度も帰っていない……?」
ヴァルフの隊は近場に拠点を張り三日を目途に廃域撤去にあたる予定だった。
作戦期間が長引いているのか、それともあの霧の中に――。
無意識に悪く考え嫌な結果に備えようとする頭を思い切り振る。
無事が分かっただけで大きな収穫だ。落ち着いた頭は薄情にも今更、デネブの友人と知人の顔を思い出して心配を始める。
早く戻って今後を考えなければ。
今頃、マニは騒いでいるだろう。少しだけ自分の行動を悪く思いながらアルクゥは拠点の目印の上に立ち、先程とは逆を辿り北門へと転移する。
やはり波に翻弄される木の葉のような気分だ。慣れた通い路自体に歪みが生じていると見た方がいいだろう。
跳躍の終わりを迎えアルクゥは転移場所がずれる心構えをして着地に望んだが、いざ広がった風景に一瞬呆ける。
妙に高い俯瞰を自覚したと同時に足裏あるはずの地面不在に気付く。
え、と下を見たときには落下が始まっていた。
「そこどいてください!」
白い旋毛に叫ぶ。目印を検分していたらしいサタナは怪訝な顔で上を見上げ、咄嗟の判断だったのだろう、両腕を差し出した。どうにか着地体勢を整えていたアルクゥはぎょっと目を剥く。こちらも反射的な判断を下し、互いに怪我をしないよう力を抜き、覆い被さるように抱き付いて着地と相成った。
最大限衝撃を殺してくれたようではあったが、固い肩に顎を強かぶつけたアルクゥは歯を食いしばって痛みに堪える。サタナは抱き上げたまま困ったような、面白がるような判断が付きかねる表情でそんなアルクゥを見上げた。
「いきなり消えたかと思えば、今度は上から降ってきますか。落ち着きのない人だ。……大丈夫ですか?」
「……お陰さまで」
アルクゥは嫌味を返して腕を突っ張る。
ゆっくりと地面に降ろされ、転移の余波で落ち着きない三半規管にふらつきながら自分が出た場所を見詰めた。今度は高さがずれたのか、と。
「それで、いかがでしたか」
後ろから付いてくる声はアルクゥが何をしに消えたのか見通している。忌々しく思いながら答えた。
「本人は不在でしたが、ヴァルフの無事は確認しました。――マニ、少しいいですか」
「お前……ビビらせんじゃねぇよ! 置いて行かれたかと思ったじゃねぇか!」
「申し訳ありません。こんな状況とは知らず連れて来てしまって。私はこれからあの中に入ります。マニは彼らと一緒に行ってください」
「……おい、舐めるなよ」
低い不機嫌な声に振り返る。燃えるような橙色の目が苛烈な感情を受け、一層鮮やかな色彩を放っているように見えた。
「たったこのぐれぇのことで俺様が怖気づくとでも思ってんのか、あァ?」
「そのような問題ではありません」
「じゃあどういう問題だボケ! いいか、俺は断固としてテメェに付いて行くからな!」
鼻息荒く指を突き付けるマニの極端さに苦笑する。
それはさておき、気絶させて回収してもらおうと手頃な石を探すアルクゥに、ヤクシが北門から目を離さないまま注釈した。
「この非常事態は仕事の範疇だ。連れて行くにしてもしばらくはここに留まらねばならない。だから石は止めろ、引きずるのが面倒だろうが」
「……どういうことですか」
「そのままだ。今までと毛色は違うが、これも凡愚の言う国を乱す事柄の一つだろう。元から大いにキナ臭かった場所だ。二度も同種の竜に襲われ、新種の起き上がりが発生した地域でもあり、何よりデネブを囲む山脈を越えた先に魔獣被害が集中している。今までは魔女の強権で詳しい調査が出来なかったが、良い機会だ。……どうしますか?」
「石ってなんだよ」と目を尖らせるマニを無視し、ヤクシはサタナに窺いを立てる。
「さて、何をどうするにしてもデネブに入らなければ何も分かりませんねえ。あの霧が何か分かりますか」
「よくは視えませんが……恐らくは感覚を乱す霧だと思われます。障壁から全く漏れ出ていないのが魔であることの証拠でしょう。質の悪い魔力が渦巻いている。魔力の吹き溜まりではよくある現象ですが、こんな整備された大都市ではありえない。やはり何かの作為を感じます。魔障壁も閉じている。脱出できた者はいないと思っていいでしょう」
「そうですねえ。あれではまるで檻だ。人が閉じ込められているのか、それとも霧を閉じ込めているのか」
サタナはしばし思案げに北門を見詰め、やがて考えが纏まったのか口を開いた。
「残る者と行く者を決めます。そうだな……クルニク殿は外で情報を集めてください。三日経過しても私たちが出てこない場合は王都に帰還を。残りはデネブに入ります。ティア様は」
「私も残りましょう。王都に帰るにしても足、もとい翼は必要でしょう。それまではデネブの周囲を飛んで人がいないか探します。偶然、外にいて霧から逃れた人がいるかもしれない」
ティアはサタナに即答し、気遣わしげな眼差しをアルクゥに送る。
「アルクゥ。私があなたのために出来ることは?」
気遣いだけでありがたいと首を横に振りかけたアルクゥは一つ思い付く。
「もしかすると、廃域付近に部隊が残っているかもしれないのです」
「と、言うと?」
「八日前の話にはなりますが、廃域の破壊作戦がありました。私が加わった隊の廃域は人勾引でしたが、他の二つは魔物の苗床です。作戦は本来は四日間の予定でしたが、私の兄弟子は八日前から住処に帰っていない。作戦期間が延びている可能性がある」
「なるほど。様子を見に行く価値はあるな。場所は?」
「申し訳ありません。大体の位置しか」
聞いていた大まかの場所を二つ伝えると、充分だとティアは笑った。
「後はこの子たちの鼻と目がある。……いくら姉様と親しいとは言え、妹である私の行動に干渉する権利などあなたにはない。そして私に何かあったとしてもあなたを責めるような狭量を姉様は持ち合わせていない。口出しは無用だ」
突然の冷たい言葉にティアの視線を辿ると、ヤクシの苦り切った顔がある。何となくだが関係性が見えた気がした。
「無理はしないでください。廃域が撤去できていなければ魔物が出ます」
「私が魔物を殲滅してきてもいいくらいだけれど」
「ティアさん」
「分かっているさ。冗談だ。大人しくしておこう」
「それと……」
伝言を頼もうかと口を開き思い直す。どうしたと首を傾げるティアに何でもないと首を振った。会話の区切りがついたところでサタナが切りだす。
「では、行きましょうか」
先頭に立つサタナの後ろをヤクシを始めディクス、エルイト、マニが続く。いかにも自然な流れとして加わっている最後尾を見て慌てて引き留めようと伸ばした手を、皺だらけの大きな手が押し包んだ。驚いて見返ると、クルニクの柔和な笑みがそこにある。
「お気持ちは察せられますが、ここは一つあの青年を、そして司祭殿を頼ってみてはいかがですかのう」
そう柔らかく言われてしまえば、反論も自ずと鈍くなる。アルクゥは目を逸らし、言い訳するように言葉を返した。
「個人的な理由で他人を巻き込むのは好きではないのです。私は異常を解決しようとしてあの中に行くのではない。ただ、兄弟子と友人の安否が知りたいだけで」
「なぜそれを悪いとお考えになるのか。拙には他人を道連れにするに値する理由に思えますがのう。それではどうか、お気を付けて」
すんなりと離れた温かな手を目で追い、一礼して踵を返す。
すでに魔障壁の一部には穴が空いていた。どういう魔術を使ったのか穴の断面は爛れている。
「ヤクシが先頭、ディクスが殿です。霧がどれだけ作用しているか不明なので、常に周囲の人間を視界に入れてください。特に貴女は」
「あなた方と目的は別です」
「私から離れないでください」
どこまでも噛み合わない。
感情を読むのが難しい瞳を正面から見返す勇気はなく、処置なしと嘆息してやる気を漲らせるマニに聞く。
「マニ、やっぱり残りませんか」
「しつけぇよ馬鹿アルクゥ」
一蹴され、マニはヤクシらに続いてお先にと穴を跨ぐ。
「貴女が残っても良いんですよ」
「誰が」
アルクゥもサタナの提案を蹴り飛ばし、霧の都市へと足を踏み入れた。
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