第六十六話 旅路の果て
したためた手紙に一滴の血を落とす。
赤い染みがぽつりと所在無げに広がる。両手で包んで魔力を込めれば手紙は白い鳥の形に変じた。嘴だけが鮮やかに赤い。いくらか角張って不格好な姿をした小鳥を手放すと、一直線に窓を飛び出し青空の彼方に飛び去っていった。昨日も一匹飛ばしたが、こちらは保険である。
傍らで見ていたマニが「おー」と気のない歓声を上げる。初めこそ緊張気味のマニだったが、今では借りてきた猫皮が脱走して見る影もない。
「天気、分かりますか?」
マニはすん、と鼻をひくつかせて首を振る。
「こっちじゃ降らねぇ。けどあっちじゃわかんねぇぞ」
「まあ多少濡れても大丈夫でしょう」
「どのくらいで届くんだ?」
「一日ほどでしょうか」
「へえ、速いな」
アルクゥが答えるとマニはしばらく腕を組み、手を叩いた。
「あれのもっとでけぇヤツ作って乗れば楽に帰れんじゃね」
「阿呆の発想だな」
「あァ?」
扉口に近い場所からの辛辣かつ的確な言葉にマニは目を怒らせる。
壁に背を預けて腕を組むヤクシは瞑っていた目を微かに開き、だが決してマニを見ず「阿呆だ」と断言した。「誰がアホだ!」と口を尖らすマニにうんざりした表情を浮かべている。
面倒ならば他愛無い他人の会話に首を突っ込まなければいいものを、聞き流さず律儀に正論を挟んでくる辺り融通が利かない。
阿呆を連発されたマニは存外にも繊細らしく、ソファーのフレームに両肘を乗せ踏ん反り返って拗ねている。アルクゥはベッドに腰掛けたまま小さく笑みを零し、口元を押さえる。マニはアルクゥに助けられたと言うが逆だ。もしマニがいなければ、アルクゥは一時も休まらなかったに違いない。
そんなことを考えていると、ヤクシが怪訝そうにして毒舌の矛先をアルクゥに向けた。
口を押さえていた手を除ける。切れ長の目が苛立って険を帯びた。
「治す努力もせず早く帰りたいなどとよく言えたものだ。つくづく馬鹿だな貴様は。気分が悪いのなら寝ていろ」
痛言の皮を被った気遣いなのか、気遣いの振りをした嫌味か。
前者ならばもっと付き合いやすい人間だったはずだと一人納得していると、おもむろに壁から離れたヤクシがマニを回収しに動き出す。
慌てて気分が悪いわけではないと告げると思い切り眉間に皺が寄った。
「紛らわしい真似をするな」
「よく見ておられますね。前とは違って」
アルクゥを直視すらできなかった時期を軽く揶揄する。かくいう今でも不意打ちで視界に入ると顔を逸らすのだが。
ヤクシはぐっと言葉に詰まり、舌打ちをして愛用の壁に戻っていく。
「監視するなら椅子に座ってはいかがですか」
「監視ではない。見張りだ」
「どちらでも同じでしょう。送っていただくと決めたからには、今更断りなく出ていったりはしませんよ」
「そこまで馬鹿とは思っていない。……そいつがさっさと部屋に戻ってくれさえすれば、俺もこんな下らん監視などしなくてもいいんだがな」
刺々しく言うヤクシに見せつけるようにマニは机の上に行儀悪く足を組む。再び部屋に舌打ちが響く中でアルクゥは首を傾げる。
「マニ、見張られるようなことしたのですか?」
「俺様が何したってんだ」
「するかもしれないと思われているから俺が迷惑を被っているんだ」
「あァ? 俺が何するんだよ」
「……もういい」
ヤクシは心底呆れ返った様子で溜息を吐き、ふと遠くに視点を動かした。しばらくどこかを見続けていたが、やがて断ち切るように一度瞬きをし焦点を戻す。
「外に、何か?」
「護衛が交代しただけだ。貴様はやはりエルイトが疎ましいか」
突然俎上に載った馴染みのない人物名にアルクゥは一瞬戸惑い、ややあって思い出す。
「ああ、あの人ですね。いえ特には。悪感情と言うのなら、貴方と司祭の方に」
「黙れ。……なるほどな。エルイトには興味なしか」
「駄目ですか」
「いや逆だ。いい薬になる」
「……廃坑での出来事を言っているのですか?」
「そうだ」
「へえ、意外です。私を囮にする案が出たとき、ヤクシさんは真っ先に賛同するものと思って」
ヤクシが本当に嫌そうな顔をしたので途中で言葉を切る。
「貴様が軍属だったらそうしたが残念なことに違うからな。軍人は国民を守る義務がある。たとえそれがどんな人物であってもだ。あの時エルイトはそれを失念して下劣な人間に成り下がった」
「下劣は言いすぎなのでは。仲間を守りたいがゆえの発言だったのでしょうし」
「他人事の言い様だな。ふん。貴様にとってエルイトはそこいらの石と変わりないわけか。……恩人の好悪の対象から外れることは最大の罰だろうな」
蛇足のように、しかしはっきりと聞こえるよう付け加えられた言葉がアルクゥの関心を擽る。無関心が罰と言ったくせに矛盾したものだ。
「私がエルイトさんの恩人?」
「国王側にいた王宮魔術師の恩人だ。レイス魔導師長の仇を討ったろう」
アルクゥは口を引き結び、苦い感情を無視して首を横に振る。
「本丸を討ったわけではありません」
「それでもアイツを殺した怪物を討ったのは貴様だ」
「勝手に恩人にされても困ります」
ヤクシは鼻で笑う。
「勝手に困っていろ。別に俺は困らないからな」
「随分と押し付けがましい……あの後、ベルティオの捜索は」
「生死を問わない手配が出されている。俺たちも捜しているが足取りは掴めない」
「こんな少数で見つかるわけがないでしょう」
「俺たちは任務の片手間にだ。ベルティオの捜索については大々的に行われている。管を巻いている傭兵共にも知らせてある。そいつらが勝手に首を持って来てくれることも期待してな。可能性は低いが。それで、命じられた仕事についてだが」
「それは聞いていません」
「遠慮するな。関わっていた貴様には聞く権利がある」
遠慮ではなく拒否だというぼやきは黙殺される。
「貴様も予想はしていただろうが、貴様が潰したラジエルのような研究施設が他にもある。俺たちはそれを探している。異変、例えば魔獣の群れだとかが発生すればその場へと赴き、痕跡を調査して足跡を追っている」
「後手ですね」
「目的がわからない。動きも読めん。何より軍を動かせないのが一番痛い。支援していると思われる勢力が北領と教会だからな」
「また教会ですか」
「ああ、まただ」
ヤクシですら些か食傷気味に相槌を打つ。
珍しい意見の一致に生まれた沈黙の隙を縫い、今までアルクゥとヤクシを交互に見て話の内容に首を傾げていたマニが募らせていた疑問を呈した。
「あー、口挟んで悪いが何の話だ?」
「挟むな。――石の聖女が死んでいれば違う目が出ていただろうが、あの化物女、一命を取り留めてな。意識が快復したという報を聞いた辺りから大聖堂の動きがおかしい。人の出入り、金の流れ……監視はしているが大聖堂に入られては手の出しようがない。全く嫌な按配だ」
「だから何の話だって」
「北領も面倒だが欲深い顔を隠さないだけまだましだ。俺は教会の方が怖い。一度死んだくせに未練だけで甦ったような感がある。そこの阿呆も充分に気を付けろ。聖人を欲しているのは北領だけではないからな」
突然の勧告にマニは面喰ったように口を閉じ、しばらくして困ったように眉根を寄せた。
「なあ。俺ってやっぱり聖人ってヤツなのかよ」
ヤクシは器用に片眉を上げる。
「俺からすれば聖人というより化物だがな」
「テメェさっきから喧嘩売ってんのか」
「貴様に売るほど暇ではない。……心当たりはないのか」
ヤクシは素っ気ないながらも理解と許容を促す。エルイトの件にしても、面倒見の良い性格をしているのかもしれない。
マニは唸りながら両手を組んで額に当てた。
「あると言えば……あるけどよ。夢みてぇなもんだ。それに聖人ってのは慈悲深くて高潔でたいそうご立派な、カミサマに好かれてる人間なんだろ? 俺ァ、自分で言うのも何だが、全部当てはまらねぇ。何かの間違いじゃねぇのか」
「慈悲深くて高潔でたいそうご立派、か」
そう言ってじっとこちらを見る魔眼を睨み返し、アルクゥはマニに向き直る。
「人格なんて関係ないのだと思います。私たちは……」
言葉を切り、最善だと思う説明を探す。
どこまで話すべきかという疑問があり、更には自分が知る内容の正誤が不明という問題もある。ハティの解釈を漠然と受け入れてはいたが、彼が語ったものはあくまでも予想に過ぎない。
聖人とは何か。
精霊から勝手に与えられ、人々にそうあるべきと強制され、我欲のままに求められる。
事故のようなものだなと内心苦笑した。
「……運が悪かっただけです。そんなに深く考えることではありません。偶然、精霊の目に留って、気まぐれに力を与えられた。それだけです」
「それだけ、か」
「それだけです」
しばらく沈思していたマニは「そうか」と呟く。決着のついた表情をしていた。
「運なら悩んでも仕方ねぇな。使い所が微妙だが、すげー力貰って得したぐれぇに考えときゃいいか」
「その意気です。でも一つだけ注意をしてください。あちら側には極力行かないように。人ではなくなりますから」
表情を凍らせたマニを見て失言に気付く。
今はハティという聖人の一つの結果を聞かせるべきではないと判断し「また今度」と無理やり話を打ち切った。
「待て。人じゃなくなるって」
マニは恐る恐る、だが強固に喰い下がってくる。
どうあしらうか頭を痛めるアルクゥに天の助けがあったのはその直後だった。
部屋に響いたノックの音に交わしていた不毛なやり取りが途切れ、ヤクシが立ち上がって扉に向かう。ややあって戻ってきたヤクシの後ろにはサタナの姿があった。
反射的に体を硬くしたアルクゥに、サタナは微かに目を緩ませる。
アルクゥが嫌うものが一切含まれない表情だ。本心を隠す為でなく、人を小馬鹿にするものでもない。
「明日、迎えが来ます。気分はどうですか」
お前のせいで良くないと答えそうになる口をどうにか曲げ、当たり障りのない言葉へと変換する。
「問題ありません」
「そうですか。ですが明日に備えて少しでも休んでいた方が良いでしょう」
後半はマニを見ながら言う。
マニは反抗するかと思いきや、林檎を丸ごと飲み込んだような奇妙な表情でアルクゥとサタナを交互に見て素直に立ち上がる。不気味なほどに静かに退室していった。ヤクシがこれでお役御免だと言わんばかりに颯爽と後に続く。
最後に残ったサタナは確かめるようにアルクゥを見て、
「お大事に」
「……どうもありがとうございます」
そして誰もいなくなる。
後に残るのは静寂と腹の底に嫌な気分を抱えたアルクゥばかりだ。
なぜ気遣うのか。どうしてここまで世話を焼くのか。気が付かないほど自分は鈍くない。懺悔。罪滅ぼし。当て嵌まる言葉はいくつか存在するが。
ぎり、と両手を握り締める。指先から血が逃げて死人のように白くなる。
――合意の上で交わした契約だった。
アルクゥにとっては全てを覚悟の上で結んだものでもある。
契約によって発生した立場は主従という上下関係だが、契約そのものは対等であったはずだ。
それなのにサタナの行動はまるで贖罪だ。許すことなど何もないというのに。
それがとてつもなく腹立たしく、その恩恵を受けねばならない自分の惨めさが許し難い。
「矜持だけは一人前か……」
自分はもう少し素直な人間だと思っていたのだ、その認識を改めなければならないらしい。
とにかく明日になれば帰路につけるのだとアルクゥは頭を振る。軽い眩暈がして引き寄せられるようにベッドに横になると、優しい睡魔はすぐに訪れた。
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翌日、一行は宿を後にして街外れの林に訪れた。
一様に空を気にするサタナたちに倣ってアルクゥとマニも顔を上げる。雲一つない綺麗な蒼穹がどこまでも続いている。
待った時間はそう長くはなかった。
青空にどこか違和を感じた直後、強い風が吹き下りてくる。目を庇った腕を下ろしたときには、五体の翼竜が着地していた。
どの個体も優に人の二倍ほどの体高がある。その中で一際立派な体躯を誇る三本角の翼竜の背にアルクゥは見覚えのある亜麻色を見つけた。
「……ユルドさん?」
「違う」
隣で即答したヤクシは気まずげな表情で騎乗する人影を見上げている。
体重を感じさせない動作で翼竜の背から飛び降りたその人物はたしかにユルドではない。だがよく似ていた。
涼やかな目を瞬かせ、一つに纏めた亜麻色の髪を靡かせながら視線を一巡りさせる。翼竜を見上げて口をパカリと開けているマニを怪訝そうに一瞥し、アルクゥを認めると軽く目を見張り口元を綻ばせた。笑うと益々ユルドに似ている。
「姉様からあなたのことはよく聞いている。私はラエティティア・ドミナ・ストラシアと申します。歳も近いようだ。私の事は友と思ってティアと呼んでほしい、アルクゥ」
「ユルドさんの妹様ですか。道理でよく似ている」
「よくは言われない言葉だ」
ユルドにはない鋭さが姉妹の相似点を打ち消しているのだろう。
ティアは静かに笑い「失礼を」と背を向けサタナと向き合う。動作の一つ一つがきれがあって潔い。
「挨拶が遅れました。御機嫌よう、司祭殿」
「相変わらず取って付けたようなご挨拶で。ともあれ、迎えに来て下さったことを感謝いたします」
「次期伯爵を顎で使うのはあなたくらいのものでしょう。礼は要りません。姉様に助力は惜しむなと言い付けられていますから。さて、早速ですがあなた方の目的地は? アルクゥともう一人の客人と送り先が別ならば、そう言い含めますが」
ティアは控えている翼竜を見遣りながら言う。
どうするのか窺っているとサタナの視線がこちらを向く気配があり、アルクゥは素早く他方に目を逸らした。丁度そこにあったクルニクの好々爺めいた顔が和やかな笑みを浮かべる。会釈を返しながらそばだてていた耳に「私は同行します」という回答が入ってくる。
「と言いますと、他の方々は?」
「俺は司祭様の護衛だ」
間接的にデネブ行を伝えたヤクシに、ティアは驚くほど冷えた一瞥を投げ、他の魔術師にも問う。
「クルニク殿たちはどうされますか」
「拙らも同行した方が良かろう。それに、近い内にデネブにも赴く予定でしたからのう。ほんの少し時期が早まっただけ」
「……まあ深くは詮索いたしません。では皆様、行先は同じですね。アルクゥ、あなたは体調が良くないと聞いている。急げば半日だけど、二日ほどかけよう。空の風は冷たく体に悪い。あなたに何かあれば私は姉様に顔向けできない」
言い切られてしまえば送ってもらう身のアルクゥは頷くしかない。
ティアは満足そうに薄く笑い「プリゼペ」と大きな翼竜を呼ぶ。ぬっと長い首を下げた翼竜はアルクゥの匂いを嗅ぎ、一つ軽い鳴き声を上げた。
「姉様の翼竜だ。アルクゥと顔見知りだと聞いて連れて来た。その方が気安いだろうと思って」
「一度背に乗せていただきました。聞いたのは、ユルドさんに?」
「いや、プリゼペにだ。あなたの勇猛を誉めていた。人の身ながら素晴らしいと。――アルクゥは私とプリゼペに、他はお前たちが自分の背中に招待しろ。ただし置き去りを出さないように」
反応に困るアルクゥを置き去りに、ティアは待機している翼竜に指示を出す。
全員が翼竜の背に乗ったことを確認し、「では出発だ!」という一声で翼竜は力強く地を蹴った。
二日間の旅路は苦もなく非常に快適な行程だった。
途中、マニとエルイトが翼竜の背で喧嘩を始めて危うく落下しかけるという事件が起きたが、その他には何の滞りも起きなかった。冷たいと言っていた風も翼竜の性質かほぼ無風で震動も少ない。天候にも恵まれ気持ちの良い空の旅であった。
時折視線を感じはしたが、デネブに近付くころには些事だと自分を抑えられるようにもなっていた。
やっと、帰れる。
神隠しに続いた災難のせいで長らくヴァルフの顔を見ていないように感じる。
ただいまと告げた瞬間、拳の一つでも落ちてくるのは確定しているが、それすらもアルクゥには待ち遠しい。
ティアと話をしながらデネブが見えてくるのを待つ。ふと自分の声が弾んでいることに気付いて少し恥じ入るアルクゥにティアは微笑んだ。
「もうすぐ見えてくる。山脈を越えた先に……」
ティアの声が不自然に途切れた。
アルクゥは異変を察し身を乗り出し――。
「危険だアルクゥ。腰を浮かせないで」
制止の腕を支えにし、アルクゥは視界に捉えた魔導都市を凝視する。
こんな天気の良い日には、半円状に展開している薄青の魔導壁がよく見える筈だ。
――だが実際には。
内側に灰色を帯びた白い煙が充満している。
「火事?」
「違ぇ。ありゃあ――霧だ」
水の匂いがする、と近くの翼竜に乗るマニの呟きが妙にはっきりと聞こえた。
都市全体を静かな眠りへと堕とす白煙の怪物は、建物の影すらその優しげな腕に抱き込み、アルクゥの目から何かを頑なに覆い隠すかのようであった。




