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精霊のシジル  作者: 染料
五章
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第六十四話 名称論議



 瞼を上げると見知らぬ部屋にいた。


 柔らかく上等なベッドの上で重たい体を起こし、半ば呆然として座る。カーテンの隙間から差し込む陽光がとても穏やかで、それが却って混乱を助長した。

 目を閉じてから僅か数秒。たったそれだけの暗闇を経て激変した風景にアルクゥは緩く動揺する。

 それでもまず自分の状態を把握しようと頭を前に傾ければ、血が溜まるような不快感と鈍い頭痛に思わず目を閉じた。蝕む鈍痛が収まってから改めて見下ろすと、泥だらけの服ではなく清潔な寝間着を着ている。そこでようやく幾らか眠っていたのだと思い至る。

 文字通り血を吐くような疲労は薄れ、代わりに熱い水煙のような倦怠感が体中に立ち込めていた。


 動く気にならず、しばらくただ座ったまま地に足がつかない思考を取り纏めていると、事務的なノックが部屋に響き、返事の間もなく扉が開いた。瞬間、アルクゥは片膝を立て動ける体勢を作りそちらを睨みつける。

 半ば無意識の防衛反応に、入ってきた白衣の女性と使用人の女性はどこか憐れみをもよおした表情で説明した。


「貴女は泥塗れでこの宿屋に運び込まれ、二日眠っていました。私たちは貴女のお連れ様方に治療とお世話を任されたものです。安心してください。北領から逃げて来たというので、訳ありなのは分かっています。私はそんな人たちを沢山診てきた。体に障るのでどうか落ち着いてほしい」


 結果的に疑う態度を取ってしまったことを申し訳なく思いながら座り直す。明らかに安堵した二人に礼を述べて、大人しく診療を受けながら、彼女らの話す情報に耳を傾けた。それによるとマニは半日で快癒し今は部屋で待機しているらしい。二日も寝込んだ自分と比べて理不尽さを感じるが、元気ならまあそれでいい。


「ここは、北領の外なのですか」


 最初の説明からすれば、追手もなく無事に逃げ切ったと考えていいだろう。念の為に今いる地名を問うと、使用人の女性がどこか素っ気ない口調で答えた。


「辺境地区レモラ、と言います。本国を北領から隔つ街です」


 本国、とアルクゥは首を傾げる。それには医師が北領は昔は別の国でしたから、と困ったような曖昧な笑みを浮かべた。



 用意された消化の良い食べ物を口にし、湯浴みをして、用意された衣服に袖を通したところで、頭が働き始める。

 着心地が良く動きやすい衣服を纏った自分を鏡に映したアルクゥは、正面にある苦り切った顔を見返して肩を落とした。

 ――二日も目的ある者たちの足を止め、更には治療と世話の手配までさせた。

 泥塗れで運び込まれた、という医師の言葉からして鉱山街からここまで強行軍だったと思われる。かなりの距離だ。どんな移動方法にしても、気絶した人間を運ぶのは骨が折れただろう。

 情けない。

 頭を抱えたアルクゥは、しばらくして苦い顔のまま頭を上げる。

 ふらつきながら立ち上がり部屋の外に出る。そうして礼を述べに行くべきだと動いたはいいが、扉から一歩出たところで誰がどこにいるかも知らないと気付いた。

 適当に歩き回るかと無茶なことを考え右を見た矢先、視界の中央に大きな人影が映った。

 扉の横にピッタリと張り付いて気配を消している大男は、不意に出てきたアルクゥを見て酷く困った顔をしている。声をかけるべきか否か。その逡巡が薄く開いたままの口元に表れているようだ。


「司祭と一緒にいた、魔術師の方ですよね。護衛してくださっていたのですか」


 男は口を閉じて頷く。


「ありがとうございます。皆様にもお礼と謝罪をしたいと思うのですが、どこにいらっしゃるのか教えて下さいませんか」

「もう、動いてよろしいのか」

「はい」


 男は眉を下げる。寡黙な口よりも言葉を語るそれはやはり困った様子だったが、再度願うと「こちらだ」と嗄れた声で案内を請けた。

 とは言っても、絨毯張りの廊下を数十歩進んだところで男は足を止める。アルクゥに目で合図してから扉をノックする。


「誰だ」

「ディクスだ。開けてくれ」


 扉の開く音がし、男の広い背中の向こうで若い声が不満を滲ませる。


「護衛はどうしたんですか」


 大男はそれには答えず、ただ半身をずらした。

 若い魔術師は首を反らし大男を見上げていた視線をアルクゥに向けると、ビクリと体を竦ませて硬直した。

 アルクゥは溜息を堪えて静かに言う。


「都合が悪いのであれば時間を改めます」

「いや……どうぞ、中へ」


 通された部屋にはマニを含めた全員が集まっていた。

 何事かを話し合っていたのだろう。各々が自由な場所に陣取りながらも体の向きは中央に向いていた。

 それらの視線を一斉に集めたアルクゥは、特に琥珀色の瞳に感じた気後れを隠し、きちんとした角度をつけて頭を下げる。


「医師と身の回りの世話の手配を、ありがとうございました。皆様方の足を二日も止めてしまったと聞きました。ご迷惑をおかけして申し訳ない」


 些かと言わずかなり形式張った謝罪に老魔術師が快く応じる。


「頭を上げてくだされ。こちらは感謝を返しただけですからのう。竜殺し殿は危機を退け、拙らはその恩義を返した。つまりこれはもうお互い様、ということ。しかし少しばかり、受けた恩に対してこちらが返したものは小さく思えて不甲斐ない気もしますな。拙にできることがあれば何でも言ってくだされ」

「……そう言っていただけると、気が楽になります」


 アルクゥはしばし考え、施しを甘んじて享受することに決めた。彼らに何かをした覚えはないが、互いに五分と言うのならそうなのだろう、と。都合の良い解釈をして「それでは」と切り出す。


「私はここでお暇させていただきます」


 これにはほくほくと笑っていた老爺も固まる。我に返って「待って下され」と引き留める優しげな声を厳しい声が遮った。


「馬鹿か貴様は。文無しがどうやって帰るつもりだ。領を出たといっても危険がないわけではない。迷惑をかけたくない等と言うしおらしい心持ちでいるのなら、このまま保護されていろ。貴様が北領の手に渡る方が迷惑だ馬鹿め」


 案の定のヤクシである。

 アルクゥが張り付けたままの無表情で見遣ると、ヤクシは嫌なものを見たかのように目を逸らしかけ、ふと挑むように切れ長の目に力を込めた。


「分かったのなら、大人しく部屋に帰って寝ていろ」

「私がそんな殊勝な人間に見えますか」

「ならば何のつもりだ」

「これ以上あなた方に関わっていたくないのです」

「ああ、なるほど」


 ヤクシは一瞬納得した様子を見せ、ふと気付いて眉間に谷のような皺を寄せた。罵詈雑言を吐かんと開かれた口を、今度は老爺が阻止する。


「まあまあ、お二方。落ち着きなされ。特に竜殺し殿はまだ体の調子が悪かろう。足元が定まっておりませぬよ。こちらの椅子をお使い下され。ああ、拙めはクルースニク・ブノワと申します。クルニクと呼んでくだされ。そっちの大きいのがディクス、若いのがエルイト。サタナ殿とヤクシ殿は、紹介せずとも見知っておられよう」

「……アルクゥとお呼びください」

「では遠慮なく、アルクゥ殿」


 礼儀を返さないアルクゥにクルニクは寛容だ。

 アルクゥは老成した瞳から目を逸らす。深く年を重ねた人と話すのは苦手だ。自分の愚かさが露呈する。

 「とにかく」と話を戻したいアルクゥを、エルイトと呼ばれた魔術師が邪魔をする。


「俺が不快なら、ヤクシさんたちが貴女を無事に望む場所まで送り届けるまでここを抜けます。ですから」


 廃坑での発言を気に病んでいるようだが、アルクゥは冷たく一瞥する。


「勘違いなさっているようですが、貴方のことはどうとも思ってはおりません。相手の立場によって態度を変える人間など掃いて捨てるほどいますし、侮辱の言葉も利用されることも慣れています。私はただ、国の命令で動く人間の傍にいたくないだけです。ところで、マニ」


 途方に暮れた顔をするエルイトを置いて、アルクゥは先程から存在感が薄いマニに呼びかけた。視線を合わせようとしない態度に微かに苛立ちながら尋ねる。


「貴方はこれからどうするのですか」

「あー……その、俺は、ですね」


 もごもごと煮え切らない。アルクゥはここまで張り付けていた無表情を崩し、八つ当たり気味に言葉を投げた。


「普通に喋ってください、気持ち悪い」

「きっ……憧れの英雄サマにご対面して畏まらねぇ奴なんざいるかよ! つーかよぉ、よくも黙っていやがったな。恨むぞ。当人の目の前でそっちの魔術師にお前のこと聞いて、こっ恥ずかしいことこの上ねぇよクソが!」

「貴方の“憧れの英雄サマ”とやらは私ではありませんよ。書店や劇場に勤めていそうな気がします」

「はあ?」

「とにかく答えてください。私は早く帰りたいのです」


 その催促にマニはようやく騒ぐのを止める。


「これから、ね。どうっすっかな。お前と違って帰る場所なんざねぇからよぉ。けど」


 マニは調子を取り戻したようで、面相悪くサタナたちを睥睨する。


「コイツらに付いて行くのは嫌だ。何つったってお前が嫌がってるからな。碌なもんじゃねぇんだろ」

「ではどうするのですか」

「一人でふらついてもいいが……」


 マニは一度言葉を切り、いかにも断られることを前提にして言う。


「お前に付いて行っちゃ、駄目か」

「貴方の憧れの英雄サマではありませんが、それでも良いなら」

「……そんな簡単にいいのかよ。俺は、割と厄介事だぞ」


 アルクゥはゆるく首を横に振る。


「たぶん気付いているだろうけれど、私も同じようなものです。黙っていてごめんなさい」

「そう、か」


 そうか、と繰り返して口元を緩ませたマニは、一転して控えめな態度を崩し偉そうに宣言した。大した変わり身だ。


「ってことだからよぉ。俺もここでテメェらとは別れるわ。世話になったな」

「しかし、少しお待ちなされマニ殿。御覧なさい、アルクゥ殿はまだ本調子ではない。帰ると言うのなら引き留めはしませぬが、マニ殿は友人として、せめて体調が良くなるまでアルクゥ殿をこの宿に留めるべきではありませぬかのう」

「あァ? ……なあ、お前、まだキツイのかよ。それならまだ駄目だな。ここからデネブまで、結構遠いだろ」


 アルクゥはそうだと答えかけ、ふと沈黙する。

 それに気付いたヤクシは鬼の首を取ったように嫌な笑みを浮かべる。


「また魔女の街に戻ったのか。懲りない女だな」

「……私がどこに住もうが関係ないでしょう」


 住処の暴露に額に手を当てる。

 その動作に「やっぱりキツいんじゃねぇか」と騒ぎ始めるマニの足を強く踏み付けて黙らせ、とにかく帰らなければと踵を返した。国に関われば碌な事がない。それは身をもって実証済みだ。

 まずは一番に心配しているであろうヴァルフに手紙を送り、それから道中でお金を稼ぎつつ帰路を辿る。魔力保持者には仕事が溢れているので造作はない。

 そんなあってないような帰還計画を立て始めた矢先のことだった。

 アルクゥの出鼻をたった一声が挫く。


「――アルクゥ」


 涼しい低い声にぎょっとして思わず振り返る。

 ただ座って眺めているだけで会話に参加しなかったサタナの口元を凝視した。閉じている。

 ――今、誰が、名前を呼んだ。

 聞き間違えようがない程に知っている声にも関わらず、アルクゥは自問する。

 部下として使役されていた時ですら、サタナに名を呼ばれた回数は数えるほどで、その内の大半は真名での絶対命令を下すときのものだ。大抵、サタナは貴女という二人称でアルクゥを表現し、アルクゥもそれを意図的なものとして受け入れていた。アルクゥ自身もサタナの名を呼んだ記憶は乏しい。

 それを、今になって何故崩す。


「何でしょうか」


 表面上は平静を装うアルクゥだが、その内心は暴れる猜疑に手を焼いて混乱している。何を言われるか恐々と待っていると、痛いくらいに真っ直ぐ突き刺さっていた目が僅かに緩む。


「帰ると言うのなら止めませんよ。ただ、一つだけお願いがあります。私に少しだけ時間をくれませんか」

「……何の為に」


 針のような警戒を全身から発するアルクゥに気付かないような鈍い人間ではないというのに、サタナは躊躇がない。


「話しをしたいのです。――二人だけで」


 

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