第六十三話 白昼の夜
実像を歪ませる白い罅の浮いた防護眼鏡を投げ捨て、外気を阻むマスクを引き下ろす。
雨粒が目や口に流れてくる。アルクゥはそれに構わず、隠れていた場所を出て岩の上に立った。
対岸では戦闘が始まっている。
否。戦闘と呼べるほどの敵意の交錯はそこにはなかった。
竜は魔も刃も通さない頑健な赤鱗をしならせ、顔面が地に衝突する可能性も厭わず渾身の一撃を放つ。首の筋を極限までたわませ一気に解放された獲物を喰らう凶悪な牙は、しかしながら巻き起こした風すら目標に掠ることなく大地を砕いた。
咬んだ土を吐き出した竜は爬虫類似の顔で器用に憤怒の意を露わにし、見失った獲物が周囲にいることを想定してか大樹程の太さもある尾を円形に振り抜く。空気が唸りを上げ、人が受ければ肉片に変わる一撃は、それもまた不発に終わった。
サタナは攻撃の外で佇んでいる。
それに屈辱を感じたのか、竜は涎を撒き散らして巨大な咆哮を上げた。
ガチガチと牙を噛み鳴らし飛び掛かる。サタナは軽く一歩引き、竜の目測をずらす。膝をたわめ、着地点で前のめりになった竜の頭部を踏み付けて後方に飛んだ。無様に滑っていった竜は、背後を取られたことに焦り慌てて体勢を起こし、後ろに迎撃のブレスを吐き出す。が、そこには何者の姿もない。サタナは徹底して逃げに徹し、攻撃を捨てている。
それが竜の矜持を傷付けた。
逆鱗に触れたとはこのことだろう。
鱗が鈍く光り高熱を発し、場の気温がぐんと上昇した。すでに雨すら寄せ付けず、雨粒は赤い体躯に触れる間もなく白く煙って蒸発していく。
高熱の塊となった竜は、知性を投げ捨てて暴れ狂った。
ひたすら牙でサタナを追いかける。
たったの一動作にすら衝撃が発生し、一挙一動に全力を放つ竜の攻撃。
只人なら百は死ぬであろう猛攻は、それでも獲物を捉えるに至らないのだ。
動きが決まっている演武のような嘘臭さがあった。
だが、それでも。ああやって一方的に翻弄していても、竜に勝つには足りない。
アルクゥは大きく息を吸い込み恐れを飲み込む。
竜を留めるマニとサタナに命を預け、視界を断った。
まったくの無防備になって体の力を抜く。
深く呼吸を繰り返し、他の全てを捨ててただ一つの力を呼び戻すことにのみ集中する。
意識が細く尖るだけ、体を嬲る雨も竜の咆哮も、感覚の上から遠ざかっていく。
加速を付けて背後に流れていった五感に代わり第六感、動物としての本能と言うべき感覚が意思ある暗闇の訪れを察知する。
黒い幕が次々と周囲を覆い、アルクゥの体すらも包んで外界と遮断されていくえも言われぬ感触。
切り離された。
その自覚をもってして、アルクゥは闇の中で目を開ける。
懐かしい気がする、まるで夢のような夜だった。
天を彩る星は光の川を作り、或いは方々に散って各々が美しく瞬いている。自分にしては夢見がちな瞼の裏だなと、唐突に訪れた白昼夢に混乱する頭を皮肉で緩和する。
遠くには小さな夜明けがある。
望む炎を見付けたアルクゥはそちらへ向かって感覚のない足で歩きだす。間近になって、炎を持つ暗い人影に気づいた。両手を重ねて炎を守るように、封じるように握っている。
誰だ。そうやって訝しみはするが、夜を象ったような影には不思議と恐怖を感じなかった。
手を差し出すと、するりと片手が伸びてアルクゥの頭に着地する。大きな手が何度も優しく髪を梳き、その心地よさにアルクゥは猫のように目を細くした。
優しげな行動とは反対に、影が炎を握る手は容赦がない。
何の恨みがあるのか、潰しかねない程の力だ。よく見ると炎は龍の形で丸くなり苦痛にあえいでいる。受け取ろうと手を伸ばすと、
『使うべきではない』
直接流れ込んでくるような穏やかな声が遮る。
素直に従わずにはいられない、最も親愛なる人の声だった。
『使うべきではない』
影はただそれだけを繰り返す。
アルクゥは宙で止まっていた手を脇に下ろし、目を伏せて眉を下げ微笑む。
理解した。炎が使えなかったのも、幽世の気配が遠ざかったのも、こうして守られていたからだ。新月のあの夜に、知識と共に贈られた守りの遺志。
『使うべきではない。これは自分の身も焦がす』
「知っています」
『使うべきではない。人ならぬ者との距離が近くなる』
「それでも必要なのです。――大丈夫です。弁えています。貴方に貰った命だ。私はもう私を見失うことはありません」
大きな影は頷いたように見えた。
そして一指ずつ片手を開いていく。膨れ上がった龍が夜空高く舞い、暗闇を泳いでふいに流星のような落下を始める。龍がアルクゥに近付いてくるごとに優しい夜が退いていく。
両腕を広げて抱きとめた瞬間、夜が明けた。
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逸早く湖に到着したヤクシは、手を出し難い膠着を前にしてどう動くべきか判断しかねていた。
湖岸の先では化物じみた魔力が込められた虹色の渦を巻く水が竜を捕らえ、手前では己の主が竜の鼻先すれすれを逃げ回っている。
そして、魔力を発しもせずに目を瞑る小娘が一人。
顔を隠すことを放棄したのか、正体を不確かにしていた全てを取り払っている。以前と髪色が違う、というのはヤクシにとって些事だ。
小娘は雨に濡れた黒い髪が白い頬に張り付くのも意に介さず、近付きがたい静寂の威を身に纏っていた。
エルイトが顔を顰める。
「何してるんですか、あの女。アホ面晒して、狙ってくれと言わんばかりじゃないか」
「黙って見ていろ。おそらく、じきに分かる。……全員、手を出すな。均衡が崩れる」
遅れて到着した後続に振り返らず警告を発し、ヤクシも息を潜めて待った。
鼓動が忙しなく脈打つ。
待ち遠しくも恐ろしく思えるその時は何の前触れもなく始まり、唐突にこの状況の終止符を打った。
篠突く雨を背景に頼りなげな光が一つ、二つと現れる。
薄暗い雨の中で花が咲き誇るように光が――夜が明ける色の火が生まれ、瞬く間に二体の竜を取り囲んだ。サタナを追い回していた竜は異変に気付くと慄くような悲鳴を上げ、湖に向かって地を蹴る。
巨体が着水する寸前、小さな火は膨れ上がり、赤い巨躯を覆い隠した。
水飛沫が雨を消す勢いで空に打ち上がる。
それを強かに被った水の檻の中にいる竜も発火する。
やがて水が泡のように弾け、捕らわれていた竜もまた番いを追うように湖へと落ちていった。
「竜殺しの……彼女が、あの英雄か」
容姿が多少違ったところで、英雄譚に語られる炎を見間違う者はいない。
夜明けのように、と評された、まさに言葉そのもの炎に、滅多に表情を変えない大男が驚愕を露わにしている。その隣でエルイトが雨の冷たさばかりが原因でない蒼白な顔でアルクゥを凝視していた。
憧れの英雄を罵り、囮に使おうとしていたと知ったその心境はどんなものだろうか。
視線を返すと、二度目の竜殺しを成した英雄は、淡く輝く湖面に無感動な金眼を注いでいた。竜は水中で燃え続けているのだろう。
力の見た目は炎だったが、性質は理を無視している。真贋と遠見の能力を持つ魔眼でさえも、本質を見極めることはできない。
「化物、か」
そう零したヤクシの視線に気付き、アルクゥは咳き込みながら顔を上げる。
無表情が一転して微かに気遅れした表情を浮かべたのは、自分が注目を浴びていると知ったからだろう。
眉をひそめてフードを被り直し、岩の上からゆっくりと降りて青年の肩を揺する。そこで一目で分かる程、安心した風情で表情を崩した。
――化物には程遠い。
何故だかヤクシまで安堵した気分で肩の力を抜く。いつの間にやら小雨に変じた空の下、とりあえずは落着かと眉間の皺を解した直後。
「気を抜くな! 後ろだ!」
魔眼が捉えた茂みの向こうに潜む人影に、ヤクシは警告を張り上げる。
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アルクゥは唇に流れてきた生温い雨を拭う。
鉄臭さに気付いて見ると、鮮やかな血がべっとりと外套に付着していた。
鼻血、とげんなりした気分で次々と溢れてくる液体を拭う。喉の奥が先程から痙攣したそうにしている。口の奥から血の味が漂ってきたので、今咳をすれば更なる血を見るのは飛び出すのは間違いない。
湖の奥底で燃え尽きていく竜を確認してから岩を下りる。
冷えて勝手に震えている体をかき抱きながら、額を地面につけて転がっているマニの肩を揺する。口元に手を近付けると荒い呼吸を感じた。
生きている。
ホッとして気が抜け――視界が反転したと理解するまで数秒かかった。
「動くな! 誰も動くんじゃない!」
胸の圧迫感と痛みが遅れてやってくる。とうとう咳が出て、やはり吐血した。
頭上で誰かが怒鳴っている、と理解するのもまた遅く、危機感に至ってはいつまでたっても動かない。頭が働いていない。
ぶずぶずと肉の焼ける臭いが漂ってくる。
胸の首飾りが熱い。誰かが悪意をもってアルクゥに触れ、火傷でもこさえているのだろうが、興奮しているせいか痛みなど感じていないようだ。
「ああ、これはいい。これはいい僥倖だ! こんなところで本物に会えるとは考えもしなかった。竜殺しの英雄は我らに必要なお方だ、こちらで手厚い保護をさせてもらおう! そこの竜一匹すら倒せない出来損ないは貴様らにくれてやる。動くなよ。そこの聖人もどきを殺されたくなければな」
泥水が口内に流れてくる。
顔をどうにか持ち上げて舌触りが最悪な水を吐き出していると、勝ち誇った囁きが降ってきた。
「ずっとお探し申し上げておりました。以前は素気無く断られてしまったようだが、今度こそ同行していただ」
ひゅ、と空気が細く鳴る音が聞こえた。次いで、重たい物がいくつも倒れる音が。
体を押していた圧迫感が消え、アルクゥは泥に両手を突いて置き上がる。
周囲に大口を開けて恐怖に歪んだ北領兵の死体が転がっていた。いずれの体にも暗く発光する術式が刻まれており、アルクゥが見ている内に痕跡を消す。
死体は九つ。北領兵はとうとう全滅と相成ってしまったらしい。
――呪いか。
アルクゥは対岸を見遣る。そう言えばあの聖職者得意だったな、と最初の邂逅で付けられた左手甲の傷跡を撫でる。
しかし、何ともまあ血生臭い結末になったものだ。
立ち上がることに腐心しながらアルクゥは思う。とにかく生きていて良かった。
やっとのことで立ち上がると、今度は目が霞んだ。
ああ、これは駄目か。
アルクゥは悟り、抵抗を止めてマニと同様に意識を手放した。




