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精霊のシジル  作者: 染料
五章
63/135

第六十二話 拒絶の代償



 灼熱の息吹などなかったかのように冷え冷えとした廃坑を飛び出す。

 外には何者の姿もない。 

 雨が白い紗を作り地面を叩く中、アルクゥは目を細めて周囲を見渡した。

 竜はいない。マニもいない。ただ喰い荒された北領兵の死体と燃えカスばかりが散らばっている。

 どこに、と視界を遮る雨粒を払いながら痕跡を探す。竜は重い。民家一棟程の大きさに惜しげもなく強靭な肉が詰まっているのだ。ぬかるみ始めた地面に必ず跡は残っているはず。

 体勢を低くして目を凝らすと、アルクゥの身長ほどもある足跡が見つかった。

 辿ってみると背より少し高いくらいの段差があり、一部が削り落ちた斜面になっている。登って先を見渡せば、凄まじい破壊の痕跡が竜の軌道を教えてくれた。容赦なくへし折られた木、抉れた地面。


 これを追えばマニに追い付ける。


 それは竜の鼻先に飛びこむということだ。

 やめておけ、と警告を発し始める鼓動に笑みを向ける。戦う必要はないんだ。マニと一緒に――この世で出会った二人目の同胞と共に、幽世へと逃げ込めばいい。

 月の夜にネリウスに救われたときに、二度とあのような世界に行くものかと誓った。実際あれから一度も訪れはしていない。幽世の気配は薄くなり、世界を隔てる壁は分厚いものへと変じている。

 その誓いを破ってでも、アルクゥはマニを助けなければならない。無償の献身に報いなければ人ではない。獣だ。ネリウスもきっと分かってくれる。

 雨脚は強くなりつつあった。



 山中に踏み入ったアルクゥは、その進み辛さに舌打ちを零す。

 何度も泥に足を取られ、走ることのできない苛立ちと焦燥にますます体の動きは悪くなる。

 それでもどうにか木々が深い影を落とす深部まで到達したとき、今まで直線だった破壊の進路が急に山頂へと急転換していた。

 躊躇のない進撃が急勾配を突き進むように続いている。遅まきながら違和感を覚えた。


「止まってない……一度も?」


 つまり竜は寸時たりとも獲物を見失ってはいない、ということではないだろうか。

 もしかすると、姿を隠したのは。


「坑道を出るときの一度きり……」


 アルクゥは色の失せた唇を噛む。

 マニはあちらの世界に慣れていない。半ば確信的にそう思い付きながら、ますます足場の悪い勾配に挑みかかるが、アルクゥはすぐに断念せざるを得なかった。溢れるように流れてくる雨水が邪魔をする。

 呑気に術式を書いている余裕もなく、短剣を取り出し一息吸い込んでから切っ先を手の平に振り下ろした。

 銀色に煌めいた刃は皮膚を突き破る前にピタリと止まる。

 手首をすっぽりと包む黒い手袋を嵌めた筋張った手にアルクゥは顔をしかめる。ことごとく邪魔をする男だ。制止されるまで接近に気付かなかった自分にも腹が立つ。


「……触るなと言ったでしょう。何を思って来たのか知りませんが、引き返した方がよろしいかと。私はマニを見付けたら即座にあちらへと逃げ込みます」

「分かっています」


 置き去りなど平気だというその態度が癇に障る。


「帰ってください。マニの囮が無駄になる」

「それを言うのなら、彼は貴女を逃がすために囮を買って出たのですが」


 返答に詰まると、サタナは自然な動作で短剣を取り上げて鞘に戻す。それを丁寧に差し出され、思わず掴まれていない方の手で受け取る。すると有無を言わさず肩を強く引き寄せられた。

 抱き上げられて近くなった目を呆然と見返すと、サタナは真面目腐った顔でアルクゥを一瞥して急勾配を見上げる。

 琥珀色の視線が竜の通過痕をゆっくりとなぞっていく。視線の後を追って術式が書き込まれていき、更にそれを追って勾配が凍り付いた。


「私は勝手に付いていくだけです。道端の石くらいに思ってください。――舌を噛まないように」


 氷柱状の突起に足をかけたのを見て、アルクゥは咄嗟に不服を申し立てようとした口を閉じる。ぐん、と内臓に急激な浮遊感があり、地面が瞬く間に離れていく。他人の腕に抱かれて高所に連れて行かれる恐怖に形振り構わずしがみ付くと、宥めるように抱える腕の力が強まり、気付けば上に到着していた。

 棚のように狭いが、一応は人足を思って作られたであろう小道だった。

 道を挟んだ上に緩やかな斜面が続いている。竜は直進しており、やはり止まった跡はない。

 密着した呼吸の起伏で自分の状態を思い出したアルクゥは両腕を突っ張る。


「登ってくださったのはありがたく思いますが、いい加減下ろし……」


 咆哮が続きを遮った。

 長々と空を震わせた怒号はふいに途切れる。不自然な断絶、そして再び哮る竜の声。

 交戦している。

 それは想像に難くなかった。アルクゥはもがいてサタナの腕から抜けだし、一直線に走り出す。

 すぐ追い付いて先行したサタナに舌打ちし斜面を登り切る。すると突如として湖を擁する平地が現れた。荒れ地といった方が的確か。一帯の木々が軒並み横倒しになって、天気が良ければさぞ視界は良好であったことだろう。

 どこにいる、とアルクゥは食い入るように周囲を見回し、白い雨に霞む大小の影に目を見張る。


「マニ……」


 近付くと、湖の対岸にマニが、その正面に竜がいる。

 両者とも微動だにしない。どちらともおかしかった。無翼竜は何か虹色に光るものを纏って湖の上に浮いているが、マニに襲い掛かる素振りがない。マニも逃げる様子がない。

 何もかもが豪雨のせいで判然としない。

 壊してはいけない緊張を前にしているようで、逃げろと叫ぶことも、駆け寄ることさえ憚られた。

 流れる沈黙だけが動くものの全てだった。

 マニは土を握り締めて跪き、雨天の暗闇にも光る橙の瞳で竜を睨み付けている。竜はぐぐ、と喉を鳴らし、沈黙を破って咆哮した。それも先ほどと同じく不自然に途切れ、代わりにマニが吼える。


「さっさと……死ん、じま、え!」


 湖が持ち上がり、泉が湧くように停滞し――四指の鋭い鉤爪に変じて竜に掴みかかった。微かに虹色を湛えた爪は首を大きく振った竜の頭部を強く握りこむ。

 竜は飛んでいるのではない。何本もの水流に巻きつかれ、踏み止まる足場を奪われ、抵抗を奪われているのだ。

 また水が持ち上がり、竜の尾に巻きつく。

 水が竜を完全に浸すまでいくらも掛からなかった。

 湖の水位は半分以下まで減り、大きな水球となって竜の動きを完全に封じる。


「これは……魔術ではないな。貴女の炎と同じ力ですか。……だが、決定的に殺傷力に欠けている。早く彼を連れて逃げなさい」

「ですが……あれなら」


 楽観的な思考が頭を掠めたとき、マニが軽く咳き込む。しばらく小さな咳を続け、止まったかと思った瞬間、大きく体を震わせた。赤い液体が口腔から飛び散る。

 魔力の過剰放出、その症状そのものだ。


「マニ!」

 

 悲鳴のように叫ぶ。

 虚ろな視線が漂う。アルクゥを見付けると、目が生気を取り戻した。


「ばっ……か野郎が! 何で来たボケさっさと逃げろ!」

「こちらの台詞です! 適当にいなしてあちら側に逃げればいいものを……!」

「お前、何でそれを……いやそれより逃げろ! おい白いヤツ、ぼさっとしてねぇでそいつ担いで逃げろ! 殴って気絶させてでも逃げろ、俺が許す! クソ竜の野郎、さっきからもう一匹を呼んでやがる……!」


 マニの気の緩みを突いて、竜が頭部付近の水を吹き飛ばし最大級の怒号を轟かせた。

 木霊を繰り返しながら雨に吸い込まれ――返答する咆哮が返ってくる。近い。豪雨とは別の、耳を澄ませば極微かに聞こえる地を抉る音は、一つ呼吸するごとに大きくなっていく。

 最悪がやってくる方向を睨みつけ、じりじりとマニの方へと移動していると、不意に音が止んだ。

 雨の中の静寂――そして。

 天を衝く殺意と欲を高らかに吼え立て、二体目の竜が躍り出てきた。



++++++++


 

 捕らえられた一回り小さな己の番い、雌竜を見て激昂した雄竜に太くしなった水が巻きつく。

 アルクゥは再びサタナの腕の中に収まり、マニの傍まで強制退避をさせらながらその様子を見ていた。

 水が生き物のように動く。

 火を吐けぬよう雄竜の顔面を覆い、次に体を浮かせて動きを禁じようとする。だが半ばまで持ち上がったところで巨体は止まった。片脚の爪が地面を深く掴んで抵抗しているのだ。


「こんのっ……くそがァ!」


 マニは鼻血で濁った声で悪態を吐くが、竜との力比べは呆気なく終わりを迎えた。

 浮いていた後脚が、次に前脚が降り立ち、地面に四脚を食い込ませる。纏わりついたままの水を払おうと、鬱陶しげに体を揺すりながら、重たげな巨体を引きずってこちらへと向かってくる。

 その顎を拘束する水が激しく沸騰し蒸発していくのを見て、アルクゥは反射的に手を翳した。

 動きが制限されている今、ここで、焼き殺す――。


 だが、炎を使うときに体を満たす力強い衝動はいつまでたっても訪れはしなかった。


 狼狽したアルクゥは自分の手の平を見下ろす。ぐっと力を込めてようやく現れたのは弱々しすぎる火種で、それすら雨に打たれて消える。

 常に感じていた龍の息吹が遠い。


 肌を焼く熱気を感じハッと顔を上げる。視界を覆い尽くした赤い火を真正面から浴びる前に、サタナがマニも小脇に抱えて離脱した。

 アルクゥたちを岩陰に下ろしたサタナは片時たりとも竜から目を外さずに言う。


「彼を連れて逃げることが出来そうなら私は足止めに徹しましょう。無理なら貴女を抱えて逃げる」


 二択を与えられ咄嗟にマニを見遣ると岩越しに雌竜を睨んでいる。こちらの会話を頭に入れる余裕など一切ないという様子だ。雌竜だけは捕らえておく。その固い意思だけで朦朧とする意識を繋ぎ止めているように思えた。

 この状態で幽世に入ってどれほど歩ける。アルクゥがマニを担ぐとしても、魔力の使えない世界でどれほどの距離を稼げるというのか。

 それに、と恐る恐る世界の境界に手を伸ばす。

 分厚く堅牢な壁が指先の侵入すら拒んだ。

 ギリ、と歯噛みする。

 力は、久しく使わなかったせいで錆びたわけではなさそうだ。

 幽世を拒絶した代価か。それとも幽世と繋がっていてこその力だったのか。ハティの予想した「聖人の役目」とやらを放棄した代償か。

 

「……出来ることならマニを抱えて逃げてください」

「承服できませんね」

「では行ってください。巻き添えの無駄死には本意ではないでしょう」


 ――ああ、苛々する。

 英雄など不相応、邪魔なだけの称号だと口では言いながら、心の中には驕りがあったらしい。

 一度竜を殺せたのだ。もう一度くらい、どうにかできるだろう。そんな思い上がりが。

 震えるほど固く握った拳を押し隠し、サタナに告げる。 


「行ってください。元々二人で逃げていたのです。貴方は関係ない」


 サタナが何を考えて追って来たのか知らない。

 わざわざ巻き込まれに来たのは自業自得とも言えるが、愚かな振る舞いに付き合わせるのはアルクゥの道理が許さない。

 サタナは微かに不快を滲ませる。


「自分は残って彼と共に死ぬつもりだ、と。そう仰るのなら、こちらも手荒な手段を取らせていただきます」

「死ぬつもりなどありません」

「命を懸けるほど彼が大事ですか。貴女はまだあの兄弟子と共にいるんでしょう。彼を置いて行くほどの価値が、この男にあるとでも?」


 アルクゥは思わず笑った。


「あるわけがないでしょう。マニとは出会って半日です」

「それなら」

「――それでも」


 語気を強めるとサタナは黙った。

 天秤にかけて、ヴァルフとマニのどちらが傾くかは明白だ。どちらかの命を捨てなければならないとすれば、迷わずマニを捨てる。

 だが今は違う。

 今、この瞬間。天秤に乗っているのは自分の生と、自分に対する名誉だ。

 ここで命可愛さに逃げてしまえば、二度も友人を見放した馬鹿として一生を生きることになる。


 伸びてきたサタナの手を視界に認め、アルクゥは嘆息し、自らそれを取った。

 驚いたようにアルクゥを見返す琥珀色の目を真っ直ぐ睨みつける。そこまでして世話を焼きたいなら是非ともそうしてもらおう。


「マニは逃げられる状態ではない。ですが貴方とも逃げません。敵は、今ここで殺します。必ず」


 アルクゥは自身に言い聞かせる。

 代価など知ったことか。支払うつもりはない。得た力をどのように使おうが私の勝手だ。


「虫が良いようで申し訳ありませんが、先程の無礼な態度を全て謝罪いたします。どうか、援護を」


 ゆっくりと見開かれた瞳は――不意に笑みを形作る。


「ええ、喜んで」


 見慣れた表情で笑ったサタナは、マニの水を完全に振り払った雄竜に向かって地を蹴った。



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