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精霊のシジル  作者: 染料
五章
62/135

第六十一話 前門の竜、後門も竜

 さしもの竜の息吹も二つ角を曲がれば届かない。

 肩を上下させて息を継ぎ、坑道の冷気が炎熱の気配を上回ったことを確認してから、アルクゥは強く握っていたマニの腕を離す。

 力なくだらりと垂れた手は、唐突に握り拳を作り、悪態と共に硬い坑道の壁を殴りつけた。獰猛に噛み合せた歯の隙間から、逃げ道を示した者としての責任を重く背に負うように低い悔恨をにじませる。


「……二匹目がいるなんてきいてねぇぞ」

「不可抗力です。知らなかったのは仕方がない。気にしないでいい」

「現実問題として気にしなきゃ死ぬだろうが。くだんねぇ慰めは止めろ」

「一匹と思ったら二匹に増えるなど、よくあることです」

「ねぇよ」

「あります」


 発生した意見の齟齬に睨み合う。

 猛禽のようにグリグリと大きく鋭い瞳は、防護眼鏡の白いヒビ越しにある黒金を受け、舌打ちと共に逸れた。

 アルクゥはその降参に目元を緩めてから、すっと笑みを消して気を引き締める。冷静に話し合いを深めている魔術師達に一歩近付いた。


「これからどうなさいますか」


 声をかけると、サタナがアルクゥを会議の輪に迎え入れるよう体の向きをずらす。


「今、確認を取っています。ヤクシ」


 魔眼を仄かに光らせたヤクシは、あらぬ方向を見詰めたまま眉間に深い皺を刻む。


「二体目で間違いないようです。最初の一匹は第一坑口付近から動いていない。番いでしょう。無駄に吠えていたのは出口を知らせる為か」


 咆哮は轟き、第一坑口と繋がっている穴から抜ける。より音の明瞭な第二坑口で待ち伏せていたのだろう、と。サタナは微かに眉をひそめる。


「賢しいトカゲですねえ。第三坑口は?」


 水を向けられたマニは見るからに悄然として首を振る。


「撤去どころじゃねぇよ。二次災害の恐れあり、だとさ。事故の時のまま、まだ二十は埋まってるって話だ」

「他に出口はなし、か。さて」

「ここに連れてきた詫びだ。俺が引きつけてやってもいい。ただし」


 マニの不穏な提案にアルクゥが声を上げるよりも早く、泣きも怒りもせずただ呆然としていた北領兵がにわかにいきり立った。


「待て! そいつを死なせるわけにはいかない!」

「そいつ、その方に死なれては仲間も無駄死になる! 早まるんじゃない!」

「どうか……!」


 狭い道に懇願の声が反響する。切実な、喉を削るような叫びだ。

 生き残りは僅か九人。瓦礫を除けようやく外へという場面で、一度に十もの仲間を失ったという心が折れても当然の絶望にありながら、鬼気迫る顔で任務の遂行に執着する。寒気を催す光景であった。

 ――マニに一体何がある。

 ここまでくれば一蓮托生、意地を張らずヤクシに聞かなかったことが悔やまれる。

 気圧され絶句するマニの前に立ち視線から庇う。段々と消えていく狂気めいた声の数々を耳を塞いでやり過ごす。勢いが収まり再び兵が力なく項垂れ、そろそろ今後の話を再開させようとサタナたちに向き直った、その瞬間。


「そこの魔術師。貴様だ。貴様、女だろう。――生娘か?」


 虚ろな声がよく響く。

 頬に酷い火傷を負った灰色髪の部隊長が、土気色の顔に目だけを爛々と光らせ、今しがたまでマニを見ていた視線をアルクゥに張り付けている。ゆらりと立ち上がり、口角を不自然に上げ、見えない糸に腕を吊られたように持ち上げてアルクゥを指さした。

 言わんとするところはわかった。

 高位の竜は時に生贄を求める。大抵、差し出されるのは純潔の神秘を帯びた力ある娘御だ。

 しかしそういった意味で自分は不適格――人殺しという穢れを持つ身であり、第一に了承してやる気もなければ、下位の竜族がお上品に生贄を要求するとも思えない。

 冷静な思考から生み出された否定の説明と根拠は、しかしながら口に到達することなくいたずらに脳裏を巡る。

 嫌悪が半分、そして嫌な予感が残りを占める。

 生贄――即ち逃げるための囮。

 無事に坑道を出ることが大前提の行為。


(私にはできる……そして、それを知る人がここにいる)


 足に震えが走る。

 死地へ送り出される恐怖か。違う。敵の鼻先に釣り下げられる餌として最適なのは自分であると思い出した屈辱だ。


「どうなんだ? 違うのか? このあばずれが。まあそれでも構わない。魔物は女を好んで喰う。竜も大して違いあるまい。そうして顔を覆っているんだ。どうせ二目と見られぬ醜い顔なのだろう。こうしていても、貴様の友人含めて皆死ぬのだ。ならばせめて役に」


 灰色髪の男が真横に吹っ飛び壁に叩き付けられる。ハッと我に返ると、マニが振り切った足を軽く地面に下ろすところだった。気絶した男に侮蔑を浴びせる。


「人のダチに下らねぇこと言ってんじゃねぇよ。生贄とやらが要るんならテメェがタマ切り取って喰われてこいやクソが。おい、気にすんじゃねぇぞ。こういう手合いはよくある・・・・ことだからなァ」


 冷えた指先を手の平に包んで何とでもない風に頷いてみせるも、魔術師たちの反応が気になって仕方がない。

 殊に、サタナの反応が。

 自分を長らく使役していた男だ。契約は消えたが、命じられた殺戮の記憶はこびり付いて離れない。非情ではないと知っている。だが同時に、有用なものを前にして情を取るような人間ではないことも知っている。

 大丈夫だ、とアルクゥは自分を宥める。

 ネリウスに救われた命だ。二度と幽世になど行くまいと誓ったが、ここで死んでは元も子もない。囮を強要されたら幽世に入って自分だけ逃げればいいのだ。

 ――マニを見捨てて。

 良心が囁いた言葉で途端に身動きもままならない。そんな時に若い魔術師が追い打ちをかけた。


「たしかに……魔物は魔力持ちの次に女を好んで喰う傾向がある。お誂え向きに、そこにいるのは女で魔術師だ」

「テメェも蹴り飛ばされてぇようだな」

「そこの女と違って貴様には価値がある。未だに信じられないが、仕方がない」


 そこで言葉を切ってアルクゥに薄い緑の目を向ける。


「どうせ囮は必要だ。ならば一番引き付けられる可能性の高い者を選ぶべきじゃないか」

「勝手なことを……言ってくれますね」

「事実だ。司祭、そういうことでいいでしょう」


 アルクゥの肩が微かに跳ねる。

 恐々と見たサタナは、アルクゥを凝視し顎に手を当てて思案する様子だった。若い魔術師が不審げに「司祭?」と呼びかけると、一拍置いて「ああ」と応じる。


「囮は私ともう一人必要でしょう。より長く足止めを望むならヤクシかディクスが適任かな」

「は? 何を言ってるんです?」

「では俺が」


 一気に肩の力が抜けたアルクゥは、次に何故という疑念を抱く。

 アルクゥが囮になることが最適解だ。能力にしても、魔力の量にしても。人間が内包する魔力の測定法は確立していないが、自分が大量にため込んでいることくらいは自覚している。恐らくはこの場の誰よりも、遥かに。竜が追わずにはいられない程度には。

 挙手しかけた嗄れた声の魔術師を制し、ヤクシが名乗りを上げると、若い魔術師は混乱した面持ちで声を荒げた。


「馬鹿なっ……貴方たちは要でしょう。抜けるなんて……」

「なあ、口はさんでわりぃが、竜を倒すって選択肢はねぇのか。魔術師五人だろ」

「うるさい黙ってろ!」


 マニの疑問に激昂した若い魔術師に代わり、サタナが丁寧に答える。


「竜には鱗の加護があります。武器も魔術も通さない、堅牢な城塞のごとき防御です。殺すとなれば鱗の突破が必須ですが、残念なことに我々にその用意も準備もない。名剣の一振りでもあれば無翼竜程度、ただのトカゲですが」

「倒せねェってわけか。じゃあ、決まりだな」


 マニがおもむろに傍に立ったので伏せていた顔を上げる。

 真っすぐ落ちてきた視線は強い光を湛えていた。


「――俺が行く。絶対逃がすって約束したし、どうやら奴さんは俺が喰いたいらしいからなァ。まあ、天気も俺の味方で、水の匂いも濃い。近くに水場もある。大丈夫だろ」


 気にすんなよ、と屈託のない笑顔で頓着無げに踏み出す。

 背中を呼びとめる間もなく、引き絞られた矢のように走り出したマニは瞬く間に角へと消えた。


「マニ!」


 それを追って動いた体がガクンと止まる。

 手首を掴んだサタナを睨み、燻る苛立ちを抑えて低く獣のように唸る。


「離してください。貴方たちにとっても彼は重要なのでしょう」

「追う方法がありません。私たちの目にも、ヤクシの魔眼にも、竜の眼差しにすら彼は映らない。――彼は貴女と同じだ。言っている意味がわかりますか」


 密やかに囁かれた事実に思考に空白が生まれる。次の瞬間には怒涛の如く押し寄せた結論で満たされていく。

 それならば、マニは。


「離してください、今すぐに!」


 マニ一人ならば簡単に逃げられた。

 なのにそれをしなかったその理由は。

 アルクゥは情けない自分を隠すように声を荒げる。それでもサタナの硬い拘束は緩まない。


「駄目です。貴女が行く必要はない」

「っ誰が……」


 意思を無視した言葉に、ブチリと平静の糸が切れた。


「誰に、何の、権利があって……私に触れて、私の意思を無視して、留め置く。何の権利があって!」


 力の限り吼えた。

 ビクリと震えたサタナの手は、嘘のように力を失う。

 それを思い切り振り払い、アルクゥはマニを追って走り出した。




 振り払われた手をそのままに、遠ざかった背中の方向を見ていたサタナは、数秒置いてヤクシたちを振り返った。


「――私も追います。後は任せました」


 そう言ってかつての従僕を追って坑道の暗闇に消える。

 一帯に充満した、根源的恐怖を揺り起こす魔力も意に介さないのは流石だが。ヤクシは何とか強張った体を動かし、怒気に中てられ固まっている面々に告げる。


「俺も行く。後は頼んだ」


 待ってください、とこの中では最年少のエルイトが慌てて止める。


「元々、任務外の仕事だし、目的は北領の馬鹿に聖人と思われる青年を渡さないことでしょう。竜に始末してもらえば、それでも」

「勘違いしているようだが、俺はサタナ様に付いてきただけだ。そのサタナ様はいつでも抜けることが出来ることを条件にこの仕事を請けている。指揮を投げていったということは、今がそのときなのだろう」

「そんな……おい、二人も何とか言ってくれ!」


 エルイトが助けを求めた二人は、それぞれ首を傾げる。


「そうなると誰がリーダーを努めるか……拙にはちと重いですのう。ディクスはどうなさる?」

「我々三人で情報を集め、人を動かすのは土台無理な話であろう。はっきり言うが私たちはサタナ殿の添え物に過ぎん。一応、責任者は御爺となってはいるがな」

「名と実は違うのが世の常ですからのう。さて、意見の一致を祝して儂とディクスはヤクシ殿についてゆくが、エルイトは不服な模様。一人残るのであれば犬の監視を頼みたいが、どうなさる?」


 怒りで顔を赤くしたエルイトは、怒気を滲ませて「俺も行く」と悔しげに頷いた。ヤクシは抜け殻の北領兵を見て、始末も監視も不要と判断する。


「意見の一致はいいが、正直足手まといかもしれんぞ」

「確かに俺や御爺は武術などからきしですけど」


 苛々と反論するエルイトにヤクシは苦笑を返す。


「いや、俺も含めてな」

「ヤクシさんが司祭の足を引っ張ることはないと思うんですけど」

「サタナ様ではない」

「だったら誰の」


 ヤクシは小さな怪物を思い浮かべながら答えた。


「あの娘の、だ」


 

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