第五十九話 予期せぬ邂逅
薄い色素の瞳がこちらを向く気配を察し、我に返ったアルクゥは視線を全体に移した。
北領の兵が三十余人、それに五人が相対する形である。地面に転がる死体が全て北領兵士なところを見る限り、数の優位に意味はなかったようだ。
五人の内、二人は知人。あとの三人も王宮外殿で見かけたことがある。レイスの部下だった魔術師だ。
とすれば――アルクゥの推察はそこで途切れる。
足裏を伝う振動の間隔が段々と短く強くなってきている。振り返ると、思考していたわずか数秒の間で、不格好に疾走する無翼竜は思った以上に距離を詰めていた。
無翼竜――最も数の多い下位竜種で、人々の竜に対する知識は大体これだ。赤い鱗で、火を吐き、宝を守り、逆鱗を持つ。
古来、最も多く竜殺しを生み出してきた最弱の竜種で、使い魔として下せた例もある。その記録に勘違いした武人を数多く屠ってきた竜でもあった。
倒せるかと訊かれたとすれば答えは否だ。炎を創る長い隙の間に足を止めてくれるのなら話は別だが。
唇を噛み、何かを迷う様子のマニを気にかける余裕もなく告げる。
「少し足止めします。逃げ込める場所の心当たりがあれば考えていてください」
「あー逃げ込める場所……ちょっと待て。考えさせろ」
「早目に」
「急かすな! 小便と同じで急ぐと出ねぇんだよこういうのは!」
下品な物言いを耳から排し、赤い体躯を視界から隠すように手の平を突き出す。近い。もう収まり切らない距離まで近づいている。
仰々しい角やら爪やらを除けば殆どトカゲの巨大な体だ。明らかに走駆に適さない。野太い四足を地面に振り下ろし前へ前へと進む様は、一見すれば鈍重鈍足。しかし障害物のない平地では馬よりも速いのではないだろうか。
アルクゥは目を細め――つと焦点を手前に移してぐっと空気を握り潰した。
それを合図にして魔力の刃が中空に狂い咲き、石造りの街門を切断する。門だった石は轟音を立てて大通りの入り口を塞いだ。
突撃を止められるかと言われれば否だ。一軒家並みの巨躯があの速度で突っ込んでくれば石片は寧ろ凶器に変わる。アルクゥが惰弱なバリケードに期待するのは竜の視界を遮ることだ。
次いで、アルクゥはマニを引き寄せて隠形魔術を使う。魔力の気配を隠した。
竜に限らず、ある程度高位になると魔物は血の匂いよりも魔力の匂いを優先して追ってくるのだ。あの無翼竜が崖から落ちてまでも一直線に二人を追ってきたのはそういうことだろう。
準備を終えて踵を返す、まさにその矢先にマニが叫んだ。
「そうだ、坑道……おい食われくねぇ奴ァついてこい! 廃坑だ! 逃げんぞ!」
「ばっ……」
肩が外れそうになるほど強く引かれ、罵倒は口内に引っ込む。
なぜわざわざ敵を呼ぶ。甘いにも程があると、橙色の後頭部を睨みつけるがもう遅い。後ろに連なる足音を、その次にバリケードが破壊される衝突音を聞いて、大人しく逃げに徹した。
一同はマニを先頭に一路、街を西へと走る。
路地に入っても竜の猛進は鈍らない。咆哮を上げ壁面を削りながら追ってくる。油断していた最後尾の何人かが轢死の断末魔を上げ、それに気を取られ振り返ったアルクゥは眼前に飛礫を認める。瞬く間もなく飛礫は右後ろから叩き落とされ、呆気が一巡りして無表情に変わった頃に隣を見ると、同じく感情のない顔と目が合う。探るようにこちらを窺う眼差しに一瞬だけ竜の恐怖を忘れて竦みそうになった。
「魔術師共、アレ動かせ!」
マニの怒声にハッとして前を向くと、灰色の鉱山街はいつの間にか終わりを告げ、山の麓に差し掛かっている。
木々が伐採された剥き出しの斜面に項垂れたゴーレムが四体座っている。掘削用か運搬用か。どれも欠損が目立つ。壊れて遺棄された魔具のようだが、すでに形と用途が定められている。動かすだけなら簡単かもしれない。
アルクゥよりも先に魔術師が一人逃走の列から外れた。短剣で手を突き、血で命を吹き込む五文字を書き殴り戻ってくる。
一斉に顔を上げて動き出すゴーレムは圧巻だった。
関節から石の破片を溢しながら立ち上がり、竜に向かっていく。一体が壁になり砕け散りながら竜の疾走を止め、残りの三体が竜に圧し掛かった。
竜が超重量にたたらを踏んでいる隙に、アルクゥたちは坑道入口に駆け込む。
ほっと胸を撫で下ろした直後、坑道が揺れた。
咆哮が無数の落雷のように轟く。
「けけっ悔しがってやがるぜアイツ」
「笑いごとではありませんよ」
どんなに低位の竜でも知性を備えている。そしてそれは感情や本能に忠実だ。
アルクゥはビリビリと鼓膜が痛む耳を塞ぐ。
必ず食ってやる。
そう言っているように聞こえた。
++++++++
ひやりと暗い廃坑道は想像していたより広く、埃っぽい空気が底に澱んでいる。
炎を吐かれても届かない位置まで進んで魔術の灯りを天井に打ち上げると、コウモリが数匹飛び去っていった。小動物の住処になっているのだろう。
冷たい壁面に背を預けて息を整えていると、足音を忙しなく反響させて後続が次々に駆け込んでくる。北領の者が明らかに減っている。数えると十九しかいない。
それでも敵が多いことに変わりはなく、アルクゥは影を嫌って灯りを増やした。
行動を視認できない者がいなくなり幾許かの安堵を得たアルクゥとは逆に、北領兵士と魔術師が二人、中断していた睨み合いを再開する。
是非潰し合ってくれと内心で応援していると、この閉塞極まる緊張感を招く元凶が一歩前に出て声を張った。
「おい注目しろクソ共。のこのこ馬鹿正直について来てくれたとこ悪いが、ここを抜ける第二、第三坑口に続く道は崩落してっからな。まあ、この人数なら第二の方は取り除けるだろうよ。それを踏まえて殺し合うか協力するか決めてくれや。言っとくが、善良な一般市民を巻き込むんじゃねぇぞ」
沈黙に満足そうに鼻を鳴らしたマニは「どうだ」と言わんばかりだ。アルクゥの隣に腰を下ろす。
「考えなしに連れてきた訳ではなかったのですね」
兵の隊長らしき人物が相談の猶予を申し出、それを魔術師側が承諾している光景は不穏だが、少なくとも今すぐどうこうという雰囲気は消えた。
「あァ? 当たりめぇだろうが。見損なうなよ」
「損なうほど見知っていません」
「まあ、そりゃそうだ。衝撃的な出会いから半日ぐれぇか」
「衝撃的……まあ間違ってはいませんけど。彼らが本当に殺し合いを始めたらどうしますか?」
「すまん。考えてねぇ。とりあえず奥に避難してだな」
マニは顎に手を当て賢しげに思案する振りをする。
懸念が増えて重い溜息を吐くと、マニは困ったように眉を寄せた。
「心配すんな。巻き込んだ責任はきちっと取っから。お前は絶対逃がす」
「熱烈なお言葉ですが気持ちだけで充分です」
「案外嫌味な奴だなお前。……なあ、それ取らねぇの? つか今更で悪いが、お前女? 男?」
アルクゥは毒気を抜かれて数秒間停止する。
たしかに、顔は防護眼鏡で大半が隠れている。体型も外套で隠れている。しかし声や所作でわかるものではないだろうか。いやもしかすると、知らない内に礼儀作法が動作から抜けていたのかもしれない。
気をつけなければ、と衝撃を受けたアルクゥは自戒する。
「……性別を問われたのは初めてです。……これは、顔を覚えられたくないので。相手は仮にも正規の領兵ですから」
マニはニヤニヤ笑いながらひび割れた防護眼鏡を人差指で小突いてくる。
アルクゥは小蝿のようにそれを払い、会議の決を待った。北領側にも一応魔術師はいるのか声は遮断されているが、どうにも話し合いは難航しているらしい。
――それほどマニを捕らえたいのか。
それに、とアルクゥは密かに視線を移す。すると気付いた深海色の魔眼がアルクゥを向いた。そして何を思ったのか、左右に何か伝えてからこちらに近付いてくる。
「おい、貴様」
アルクゥは目を伏せ――右足を大きく踏み鳴らした。
警告と魔力始動を兼ねた動作。それを察してヤクシは飛び退く。一拍遅れで天を衝いた魔力の刃に表情を硬くし更に数歩後退する。色めきたったのは名も知らぬ若い魔術師だった。
「何のつもりだ!」
「自衛です。あなた方はそちらの方々以上に怖いので、近寄らないでください」
「協力しろとぬかしたのはどこのどいつだ」
「少なくとも私ではないでしょうね。目的を明らかにしてくだされば、譲歩しますが」
魔術師は口ごもり、意向を問うように後ろを見てから答える。
「……保護だ」
「それ以外には?」
「ない」
「保護した後の対応」
「安全が確認できたら解放する。不便はさせない」
「自由になるまでの期間は」
「ああくそ、うるさい女だ。それはそっちの兵にでも訊け。北領の対応次第だ」
騒ぎに一時話し合いを中断しあわよくば便乗しようと構えていた兵らは、アルクゥの視線を受ける前に目を逸らした。
「――と言うことらしいですが、どうしますか」
成り行きを見守っていたマニは大きく息を吐き肩を落とした。
「お前……おっかねぇな。なあ、もしかして話し掛けてきたヤツと知り合いか?」
「御覧の通りです」
「見てもわかんねぇよ。つまり、攻撃したってこたァ、敵か」
アルクゥは首を傾げる。
自分に限れば、禍根が残る去り方をした。だがマニにとってはどうだろうか。彼が持つ背景を知らないので考えようがないのだ。
なのに、肝心な部分を言わないくせにマニは「お前ならどうする」と信用を寄せてくる。出会って半日足らずだろう、と苦い顔をしたアルクゥはそれでも判断材料を示した。
「貴方の気持ち次第ですが、北領よりはましだと私は思う。詳しく話を聞いて来ればいい。彼らの後ろ盾は国王です」
「……マジかよ。俺もずいぶんと有名になっちまったもんだ」
顔色を悪くしたマニに「私と」とあらぬ提案を切り出しそうになったとき、北領側の会議が終わった。隊長らしき皺の深い灰髪の男が居丈高に口を開く。
「そちらの魔術師共と協力するのは不本意だが、他に手法がないのでは仕方がない」
「そうか。崩落の被害が浅いのは右の第二坑口だ。さっさと前歩け」
マニはそれ以上に偉そうだった。
隊長の鼻に不快の皺が寄ったのをアルクゥは見たが、それを口に出すことなく兵を率いて暗い道に消えていく。プライドが高そうなだけあって、素直さは不穏の予兆にしか思えない。だが自分は自衛に精一杯だ。いざとなれば身を守ることを優先してマニを顧みないかもしれない。
うつむいたアルクゥの逡巡は長くなかった。意を決してマニの背を押す。
「あァ?」
「彼らの傍が安全です。離れないでください。――保護すると言いましたよね」
最後は突き飛ばすようにして押し出すと、マニは迷子のような目を返す。
それを極力見ないようにしながら挑発するように言うと、先ほど言い争った魔術師が嘲笑を浮かべた。
「馬鹿ではないらしいな」
「貴方よりかは、いくらかましでしょう。ああ、ヤクシさん。先程はつい手を滑らして申し訳ありませんでした」
若い魔術師はぎょっとしてヤクシを見遣る。知り合いだと察していなかったらしい。
アルクゥの謝罪に非常に複雑かつ物言いたげな表情を浮かべたヤクシは、眉間の皺に怒りを封じ込めた形相で不承不承「手が滑ったのなら仕方ない」と譲歩した。
それから、とアルクゥは努めて意識から排除していた、何度も意図不明の視線を寄越してきていた難物に取りかかる。
「お久しぶりです――サタナ司祭。彼を引き受けてくださいますか」
口元にいつも見ていた笑みはない。
サタナはお座成りに「承知しました」と頷き、やはり何かを探るようにアルクゥを見ていた。




